・それは甘くて苦い
しんしんと大きな牡丹雪が舞う夜。大通りのきらきらしたイルミネーション。夜空の色が少しずつ濃厚な紺色になっていくような……。
「眞子さん、いつまでいるんだ」
パソコンにひたすら向かっているその手元に、飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルが置かれた。
眞子が座っているそばに、専務が立っていた。
目元はやつれていたけれど、もうしゃんといつもの凛々しい佇まいに戻っている。ちょっと情けなさそうにして黒髪をかき上げて。
「もう帰っていいよ……」
「いいえ。あと少し」
「じゃあ、俺もやろう」
ノーネクタイになって開いたままのシャツ姿で、専務もいつもの椅子に座りパソコンの電源を入れた。
「専務はお疲れではないのですか」
「帰っても。イライラするだけだと思うから。だからここに来たんだけれど」
「すみません……。おひとりになりたかっただろうに、勝手に残っていて……」
そのとおりなのか専務が黙ってしまう。ノートパソコンが起動し、そのまま専務はマウスを握って作業を始めた。
大丈夫みたい……。いつもの仕事をする時の眼差しに横顔になっている。
それなら、帰ろうかな。ひとりにしてあげたほうが専務も落ち着くのかもしれない。そう思ったけれど。
「でも……。眞子さんがいて、おもいっきり吐き出してスッキリした気がする」
ほんとうに? 聞けず、眞子はちょっとだけ目を見開いて専務を見つめるだけ。
「なんだか、忘れていたな。聞いてくれる人がいるってこと。そういうこと避けてきたかもしれない。面倒くさかったんだ」
ずいぶんとスッキリした顔で専務が笑った。
「ほら、俺。若い時に、結婚に失敗しているし……」
眞子はドッキリとする。専務が離婚について話すは初めてだし。眞子自身も人の離婚について聞くのは初めてだから!
なにも言葉が返せない。だからなのか、専務も焦り始める。
「二十代のとき、たった一年だけれどな。でも、頑なになっていたかもなと……思った。というか、まさか眞子さんがいるだなんて思わなかった」
「ですから。勝手に残っていて……」
「いや。助かった。あー、なんか腹減ってきたなあ」
はあ? あっという間にいつものちゃっかりおぼっちゃんに戻っていて、今度は目を丸くする。
「な、なにか、買ってきましょうか?? わ、私もお腹すいていてコンビニに買いに行こうかと思っていたんです」
「そうだな、そうしようかな」
そして思わずそう聞いてしまう自分にも呆れてしまう。雪の中、買い物に行くことになってしまう。専務が銀ピカの腕時計をさっと見る。
「あ、いまならギリギリ、スープスタンドが開いている! うーん、よし。酔い覚ましに、俺が行ってくる!」
ええ!? 今度の眞子はギョッとする。眞子をお遣いに出すのではなく、専務が乱れたシャツの上にさっとコートを羽織って颯爽と出て行ってしまう。
ドアがバタリと閉まり、眞子はまた応接室にひとりになった。あっという間だった。
「あれ? 私がお遣いじゃなくてよかったの?」
ひとりきょとんとした。
でも。ちゃっかりおぼっちゃまでも、いつもは眞子の気遣いに甘えてくれるばかりの専務も。やっぱりこんなときは眞子を女の子として気遣ってくれている。
なんでもかんでもちゃっかりというわけでもない。そして眞子も。『専務といると、損しない』。そんな気持ちになってくる。
白い牡丹雪が、ふわふわのハートがいっぱい舞い降りてくるような感覚。冷たい雪なのにどこかもふもふして温かそう。
―◆・◆・◆・◆・◆―
その後、スープスタンドから帰ってきた専務と一緒に、ソファーに座って軽い夕食をとった。
専務が眞子に買ってきてくれたのは、この前専務が食べた鮭のクリームチャウダー。専務はお酒のあとなので、野菜のミネストローネだった。
「お腹いっぱいになったら帰っていいよ。俺はもう大丈夫。……それより、今後、あの場所でどうすればいいか対策を考えたくなった」
昔、接客に使われていた古い木のテーブルを挟んで、専務とスープを食べていた。
「でも二店舗分は大きいですね。もしかしたら、ゆったり接客できるようになるのではないですか。東京リラさんの目線も気にならなくなるし、逆にわたしたちも気にならなくなります。あちらにどれだけお客がはいているとか、お客があっちに流れたとか目に付かず。入ってきてお客様は静かな場所でゆったり選ぶことが出来るし囲い込みも出来ないでしょうか」
クリームスープと一緒に鮭を見つめならが、眞子はふと思ったことを喋った。けれど、その後専務の言葉が返ってこない。
眞子はハッとして顔を上げる。専務と目が合うと、彼に表情はなく眞子をじっと見つめているだけ。
「すみません。余計なことを……」
「いや。……眞子さんってさ。自分で気がついていないだろう」
気が付いていない? なんのことだろうと、眞子は首を傾げる。
「この状況ならば、こうすればいいのではないか。そういうことが直ぐに思いつく。気が付いていない?」
「いいえ……。そんな思いつきで言うだけで、それが正しい判断と思ったことはありません」
「そうだね。眞子さんはアシスタントだから、決定権もないし、動かす権限もない。でもさ……。俺はだいぶ助けられているんだよね。その『眞子の思いつき』に」
眞子のおもいつき? 突拍子もないことを言われたので面食らう。
「だよねー。その自覚がないから損をしているんだ。でも、そこが眞子さんらしいけれどな」
自覚がないから損? それにも眞子は首を傾げるばかり……。
「いままでだって、イベントの提案もディスプレイの案も眞子さんが提案してきたものばかりだろう」
「仕事だから当然ではないですか。それをメーカーの担当さんと話し合って決めていく仕事だったのですから」
「で、眞子さんが抜けて、では、今後、横浜シルビアの営業担当の古郡君とカンナのアシスタント狙いだった後藤さんがどう結果を出すかが見物」
ミネストローネをすすりながら、不敵な笑みを見せる専務。もうすっかり元通りのよう。眞子もふっと微笑む。
「あちらのことはもう、どうでもいいです。専務、それならまたお父様の社長に、このような条件の場所になったけれど『このような対策をしてみたい』という提案を先に出しちゃって先手を打ってはどうですか」
「いいね、それ! やろう! ダメモトで!」
「私も手伝います。今夜中に提案書を作っちゃいましょう」
食べ終わったスープカップをテーブルに置いて、眞子は立ち上がる。
そこからついたてをすり抜けて、長机のデスクまで戻ろうとした。
眞子のスカート裾がひらりと専務の側をすり抜ける――。
ついたてを越えようとしたとき、ぐっと後ろに引っ張られ眞子は引き戻されてしまう。
振り向くと、立ち上がった専務が眞子の細い手首を掴んで引っ張っていた。
「専務?」
泣きそうな顔をしていたので、ドキリとする。あれ、もしかして……。強がっていただけ? 空元気だったの? やっぱり哀しいの? 泣いちゃうの、専務? でも。情けない男の顔じゃない。時々感じるようになった男っぽい目?
そうして専務を見つめていると、そのまま腕をひっぱられ、気が付くと専務にぎゅっと抱きしめられている。
「せ、専務」
この前と一緒? 父親の篠宮社長に企画が認められて飛び跳ねるように喜んでしまった専務にこうして抱きしめられた。それと一緒?
眞子、……さん。
かすかな息だけの声? そう聞こえた? 空耳? でも耳元に熱い息を感じている。
大きな手が眞子の黒髪をすくい上げるように触れて強く強く男の胸元に眞子を抱き込んでいる。
初めて。眞子もかあっと身体が熱くなってきた。それにすごい胸がドキドキ脈打っている! 頬も熱い……。
でも。専務の青いシャツ、いい匂い。ぎゅっと抱きしめられているその腕の強さとか、男の人の肌の匂い。それに熱さ。心地よくて、眞子はついうっとり目をつむってしまった。
「いてくれて、よかった。でなければ、俺は……」
ダメになっていた――とでもいいそう。でもそんな言葉、専務には言って欲しくない。
「私も、専務と一緒でよかったです」
損する眞子さんらしい。損はさせない、泣かせない。だから眞子さんの考えていることをちゃんと俺に言ってごらん?
おぼっちゃん育ちらしい柔らかい口調で、専務は眞子を引き立ててくれる。そして眞子の性分で損してきたところは、男らしく厳しく指摘して守ろうとしてくれた。
ダメだった私に、また仕事にやり甲斐を与えてくれたのは、おぼっちゃまの専務だったから。
でもいまの眞子にはまだ専務を抱き返すことができない。だって、ただの上司のお礼なんだよね、こんなに抱きしめてくれるのも?
「ご、ごめん。また、勝手に女の子を抱きしめちゃって……」
ほら。我に返った専務から離れたもの。
なのに。ここで初めて眞子の胸がずきんと痛んだ。
いつか味わってきた痛みが蘇る。
これは仕事。恋じゃない。相手の男性は仕事だから、眞子を大事にしてくれているの。
そんな感覚が蘇って、急に苦い味がした気がする。
「いいえ……。さあ、始めましょう」
眞子から微笑んでみせた。専務がホッとした顔をする。
ほら……。思わず抱きしめた女の子がなんにも気にしていなくて安心したのよ。
専務は無邪気なところがあって、後先考えずにただただ抱きしめただけなのよ。
言い聞かせるのに。なに。この哀しい気持ち。
でも眞子は専務にそんな気持ちを忍ばせていることを悟られないよう、元気いっぱい前に進みましょうとばかりに笑顔を見せた。
夜が明けて、朝になれば。専務が場所取りに失敗したことが事務室に知れ渡るだろう。
それはそれでもう仕方がない。ではどうする? その先を考えよう。そして社長に提案しよう。
この場所取りは失敗ではない。チャンスにするんだ――とひっくり返してみよう。
その為の提案書作りは夜遅くまで続いた。
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