卒業のとき

神木 ひとき

卒業のとき

職員用玄関から校舎に入ると独特の匂いがした。


この匂いが今はとても懐かしい‥


久しぶりに訪れたわたしの母校‥

卒業してから三年もの月日が過ぎたんだ。


受付の事務の人に用件を伝えると、わたしは来客用のスリッパを履いて玄関を上がった。


校舎の廊下を歩くと三年前にタイムスリップしたような気持ちになった‥


でも‥

今のわたしはもう制服じゃない。


放課後の校内は下校する生徒と部活に向かう生徒の声でとても賑やかだった。


あの頃のわたしもあんな感じだったのかな?そう思うと少し恥ずかしくなった。

 

階段を上って二階の職員室の扉の前に立つと表情を引き締めた。


呼吸を整えてからノックをして扉を開けて中に入った。


「失礼します」


室内に入ると先生方の視線がわたしに向けられるのがわかった。


「澄野さん!こっちよ」


奥から聞き覚えのある懐かしい声が聞こえた。


「杉山先生!」


手を挙げて合図をする杉山先生を見た途端、あの頃の記憶がハッキリと蘇ってきた‥

三年前の記憶が‥

ようやくこの日がやって来たんだ。



チャイムの音が響いた。

やっと終わった‥


鉛筆を置くと、ふっと息をいた。


「そこまでです、皆さん手を止めて下さい」


その瞬間、わたしにとって最後の大学入試が終わった。


試験官の言葉に室内は安堵の声と溜め息が混じり合ってザワザワとしていた。


長かった一年間、長かったこの数週間‥それがようやく終わった。

この開放感は想像していたよりずっと大きなものだった。


すぐに試験官が答案用紙を回収していった。


筆記用具を筆入れにしまうと、カバンに入れて試験を受けた教室を後にした。


校舎を出ると、どんよりとした曇り空が広がっていた。


試験を終えた人の群れが列を成して大学の校門へ向っている。


校門の少し手前で足を止めてしばらくすると、


「美咲、やっと終わったね!」


一緒に試験を受けていた親友の鳴沢千鶴なるさわちづるに肩を叩かれた。


「千鶴、そうだね、終わっちゃったね‥」


「どうしたの?嬉しくないの、ようやく受験から開放されたんだよ」


「そうなんだけどね‥なんだか寂しくなっちゃった‥」


「どうして、脱力感?」


「なんだろうね‥」


高校生活がもうすぐ終わってしまう寂しさからなのか、そんな気持ちになってしまったのかも知れないって思った。


「学校でみんなと会えるのもあとわずかだね」


わたしは千鶴に言った。


「そうだよ、あと3週間ちょっとで卒業なんて、早いよね」


そうだ‥

あとたった3週間で卒業なんだ‥

もう会えなくなるんだな彼にも‥


高校に入学して程なく、ある男の子を好きになった。


彼は特別目立った子ではなかったけれど、最初に彼に惹かれた理由は彼の名前にあった。


彼がわたしと同じ『みさき』という名前だったからだ‥


わたしは陸上部で彼は野球部、グランドで彼をよく見かけた。


彼の泥だらけの練習用のユニフォームには蒼井岬あおいみさきと名前が書かれていた。


最初はただ同じ名前なんだっていう程度にしか思っていなかったけれど、練習中の彼のことをいつの間にか目で追うようになっていた。


彼とは三年生になるまで同じクラスになったことがなかったので、全く話をしたことがなかった。


三年生になって初めて同じクラスになって、ようやく彼と話をすることが出来た。


わたしも彼も夏休みで部活が終わった。 

それぞれ大会の予選で敗退してしまったからだ‥


部活を引退した後は受験勉強に集中しなければならなかったのと、卒業なんてずっと先のことだって思っていたから、告白するなんて考えたこともなかったけれど‥

もう彼と会えなくなるって思うと寂しさがこみ上げてきた。


「ねえ美咲、聞いてるの?」


「えっ?えっと‥」


「何ボーッとしてるのよ?」


「な、何でもないよ‥」


千鶴に焦って応えた。



次の日、わたしは第一志望の女子大の合格発表を見に行くために、女子大の最寄りの目白駅から大学へ向かって歩いていた。


大学の門を入って人だかりが出来ている掲示板の前に歩みを進めると、文学部の合格者番号に目を向けた。


あった!

わたしの受験番号‥

合格した‥


カバンからスマホを取り出すと、母の携帯に電話を掛けた。


「もしもし、お母さん、合格したよ」


『美咲、おめでとう!よく頑張ったわね、今度こそ晴れてわたしの後輩になるのね』


「そうだね、今まで色々ごめんね‥」


『そんなことはもういいから、今日はお祝いするから、早く帰ってくるのよ!』


「うん、わかった‥学校に報告してから帰るね」


『わかったわ、お父さんにも連絡しておくから』


「お母さん‥ありがとう」


そう言って電話を切った。


大学の校門を出ると、来た道を目白駅に向かって歩きだした。


この女子大を第一志望にしたのは母の母校だったからだった。

母は中学からこの女子大の附属に通っていて、わたしにも同じ中学を受験して欲しかったようだ。


母の願いを頑なに拒んで受験をしないで公立中学に進学したのは小学校の仲の良い友達と別れるのが嫌だったからだ。


高校は附属の女子校を受験したけれど、残念ながら合格することが出来なくて都立高校に進学した。


大学はせめて母の為にと、この女子大を第一志望にして受験勉強を頑張ってきた。


ようやく母の期待に沿うことが出来た‥


目白駅のホームで山手線を待っている間、これまでのことが走馬灯のように思い浮かんできた。


新宿駅から京王線に乗って仙川駅で降りると学校までは徒歩で5分程で着いた。


校門を入って昇降口で上履きに履き替えると校舎の二階にある職員室に向った。


職員室の扉を開けると、担任の杉山先生を探した。


杉山先生は五十代後半の女性教師で現代国語を担当していた。


先生はわたしに気がついて声を掛けてくれた。


「澄野さん!」


「杉山先生!第一志望の大学に合格しました!」


「澄野さん、やったね!おめでとう」


そう言って杉山先生は笑顔を見せた。


「ありがとうございます!」


先生にお礼を言った。


「部活もやりながらよく頑張ったわね、お母さんも喜んでいらっしゃると思うわよ」


「はい、そう思います‥」


「わざわざ報告ありがとう、先生もホッとしたわ‥本当におめでとう」


「ありがとうございます」


先生に一礼をして職員室を出た。



夕焼けが校舎の廊下の窓から綺麗に見えていた。


さて、帰ろう‥

昇降口から外に出て何気なく校庭に目を向けた‥


‥あっ!

わたしは校庭を歩いている彼‥

蒼井君を見つけた。


何処へ行くんだろう?‥


自然に彼の方向へ足を向けていた。


そっか‥

彼が向かっている場所に見当がついた。


彼はグランドを抜けると隅に建っているプレハブの用具倉庫に入って行った。


やっぱり‥


彼が用具倉庫に入ったのを確認すると、しばらくしてからわたしも倉庫に入っていった。


倉庫に入ると、彼は倉庫内にある野球部の道具をマジマジと眺めていた。


気配に気づいたのか、彼がこちらに視線を向けた。


「‥澄野さん」


「蒼井君‥久しぶりだね?」


「そうだね‥澄野さんどうしたの?」


「受験の報告にね、そしたら蒼井君が歩いてるの見えたから」


「そっか‥受験はどうだったのかな?」


「うん、無事、第一志望の女子大に受かったよ」


「それは良かったね、おめでとう」


「ありがとう、蒼井君は?」


「ああ、第一志望には合格したんだ‥」


「じゃあ、蒼井君もおめでとうだね!」


「‥そうだね」


彼は複雑な表情を浮かべて歯切れが悪そうに言った。


「どうかしたの?」


「いや‥何でもないよ」


彼は少し寂しそうな顔をしていた。


「もう少しで卒業だね、あっという間だったね高校の三年間って、そう思わない?」


「うん、そうだね‥」


何故だか彼は落ち込んでいるように見えた。


「どうしたの?野球部の頃を思い出してここに来たんでしょう?寂しくなっちゃった?」


「そうじゃないよ‥そう言えば、一年生の時によくここで澄野さんに会ったよね‥覚えてないか‥」


覚えてるよ‥蒼井君に会いたくて、近づきたくて倉庫に来てたんだから‥


「覚えてるよ、わたしも陸上部で部活が終わったら、ハードルとか道具の片付けがあったから、蒼井君もボールとかグランドならす‥あれ何て言うんだっけ?」


倉庫内にある器具を指差して質問した。


「ああ、トンボって言うんだ」


「そうそう、そのトンボを片付けてたよね」


「そうだったね‥でもあの頃は澄野さんと話をしたことは殆ど無かったけどね」


「そうだね‥」


話したかったけど、何て声を掛けていいのか分からなかったんだ。


「あのさ‥間違ってたら謝るけど‥」


彼が少し恥ずかしそうに言った。


「何?」


「澄野さんて‥あのさ」


「わたしが何?」


彼は少しだけ深呼吸をして言った。


「あの‥澄野さんって、僕のこと好きだったりするのかな?」


「えっ!?」


わたしは驚いて声を上げた。


ちょっと‥蒼井君いきなり何を‥


自分の気持ちが見透かされていたと思うと恥ずかしくなって下を向いた。


「そんな‥そんなことある筈ないでしょ!」


思わずそう答えてしまった。


「そうだよね‥そんなことある筈ないよね、ごめんね変なこと言って‥」


まだ心臓がドキドキしていて、下を向いていた顔をゆっくりと上げて彼の方を見た。


彼はとてもすまなさそうな顔をしていた。


「別に‥何でそんなこと‥」


「僕はずっと澄野さんのことが好きだったんだ、一年生の時からね、陸上部で走ってる澄野さんを見て、いつも元気をもらってたんだ‥後でわかったんだけど名前も同じなんだってね」


えっ?

蒼井君がわたしを好き‥

そんな‥


「蒼井君‥」


「あの頃さ、色々あってね、野球部を辞めようと思ってたんだ、でも走る君を見て、もう少し頑張ろうって野球を続けることにしたんだ。この倉庫で会った時も本当は話し掛けたかったんだけど‥僕はいつも泥だらけで汚かったし汗臭かったから‥出来なかったんだよね、今日はもうこの倉庫に来るのも最後だと思って来たんだ。そうしたら澄野さんに会えたから‥なんか運命を感じちゃって、でも僕の勘違いだったね、本当にごめんね」


彼はすまなさそうに頭を下げた。


さっき彼に言った言葉を後悔した。


そうなんだよ‥

あの頃わたしは蒼井君に会いにたくてこの倉庫に来てたんだ、今日だって‥

なのに‥


「あの‥蒼井君さ」


「今までありがとう、僕が頑張れたのは澄野さんのお陰だよ、それと三年生になって同じクラスになれてよかったよ‥少しは話すことが出来たから、それじゃあ澄野さん、第一志望合格、おめでとう!」


そう言葉を残して彼は倉庫から出て行った。


「蒼井君!」


彼を追いかけて倉庫から出たけれど、彼は既に校門に向かって走って行ってしまった。


蒼井君‥

わたしは何てバカなんだ‥

こんなに大好きな蒼井君と両想いだってわかったのに‥


一人仙川駅までの道を沈んだ気持ちで歩いていた。


第一志望の大学に合格したのに‥

大好きな蒼井君にも会えたのに‥

蒼井君の想いがわかったのに‥

とても足取りが重かった。


自宅に着いて玄関に入ると妹の美優が出迎えてくれた。


「お姉ちゃん!お帰り、やったね、合格おめでとう!」


「ありがとう‥美優」


「お母さんお待ちかねだよ、今日はご馳走だって!」


美優が嬉しそうに言った。


妹の美優は中学三年生だ、本来なら受験生だけど、わたしと違って母の願いを聞き入れて母と同じ中学へ進学したから高校入試はない。


「美咲お帰り、おめでとう!」


母が玄関にやって来てお祝いの言葉を掛けてくれた。


「ありがとう‥お母さん」


「さっ、着替えてらっしゃい、ご飯にしよう、お父さんも早めに帰るって!美咲の好きなケーキ買って来てくれるって!」


「うん‥ありがとう」


二階に上がって自分の部屋に入るとベッドに腰掛けてボンヤリと窓から外を眺めた。


ようやく受験勉強から解放されたのに‥

わたしは蒼井君との倉庫での出来事を思い出していた。


蒼井君‥

わたしも蒼井君が好きなんだよ‥

蒼井君も第一志望に合格したって言ってたから、明日学校で会えるかもしれない。

蒼井君に会ったら自分の気持ちを伝えよう‥

倉庫では恥ずかしくて本当の気持ちが伝えられなかったって謝ろう。


そう思ったら、少し気持ちが楽になった。

 

制服を着替えて母が待つリビングに降りていった。



次の日、学校に蒼井君は来なかった。

まだ入試があるのかな?


その次の日も、またその次の日も蒼井君は学校に来ることはなかった。


蒼井君‥どうしたんだろう?


「どうしたの?ボンヤリしてさ、ここ数日元気ないじゃん。もしかして入試が終わって気が抜けちゃった?」


「千鶴‥そうじゃないよ‥」


「後二週間だよ高校生でいられるのも」


「そうだね‥あのさ千鶴‥」


「何?」


「蒼井君って学校に来てないけど、何か知ってる?」


「蒼井君?さあ」


「そっか‥」


「一郎!」


「なんだよ千鶴?」


千鶴が角田君に声を掛けた。


彼は角田一郎つのだいちろうと言って千鶴の彼氏だ‥

中学から一緒で仲がよかったらしく、二人は二年生の頃から付き合っていた。


「一郎さ、蒼井君って学校決まったの?」


「蒼井か、第一志望に合格したって聞いたけど」


「学校に来てないよね?」


「そうだな‥でも来なくてもいいんじゃないの、もう関係ないじゃん」


角田君はそう応えた。


「まあ、そうだよね‥」


千鶴が両手でお手上げポーズをした。


「千鶴ありがとう、ごめんね」


仕方なく自分の席に座った。


どうしたんだろう?

用具倉庫での蒼井くんの沈んだ表情が気になって仕方がなかった。


放課後、わたしは職員室の前にいた。

扉を開けると杉山先生を探した。


「あら、澄野さん、わたしに用かしら?」


杉山先生はちょうどお茶を入れているところだった。


頷いて杉山先生の傍にいった。


「あなたも飲む?紅茶入れたから」


「はい‥」


頷くと杉山先生は紅茶のティーパックを取り出してカップにお湯を注いだ。


二つのカップを持った杉山先生は、


「ここじゃ無いほうが良さそうね、進路指導室に行きましょうか」


そう言って、職員室の扉を開けるように目配せした。


わたしは職員室の扉を開けると両手にカップを持った杉山先生と一緒に職員室を出て、隣の進路指導室の扉を開けて中に入った。


「さあ、どうぞ」


そう言って先生はテーブルの上にカップを置いた。


わたしは椅子に座ると紅茶の入ったカップを手にした。


「すいません‥いただきます」


紅茶を口にすると気持ちが落ち着いた。


「で、話があるんでしょ?」


「はい‥あの」


蒼井君のことを何て聞いたらいいのかわからなくて口ごもってしまった‥


「大丈夫よ澄野さん、秘密は守るわよ」


先生が少し笑みを浮かべながら言った。


「すいません‥ありがとうございます‥実は蒼井君のことなんですけど」


「蒼井君?蒼井君がどうかしたの?」


「その‥学校に来てないので、どうしたのかなって‥」


「気になるの?」


「‥はい」


「う~ん、どうしようかな‥」


先生が少し表情を曇らせた。


やっぱり蒼井君が学校に来ないのは理由があるんだ‥


「この前、杉山先生に合格の報告をしに来た時に蒼井君に会ったんです」


「ああ、あの日ね、蒼井君、澄野さんが来る前にわたしのところに来てたのよね」


「そうなんですか‥わたし校庭で蒼井君を見かけて彼を追いかけたんです、彼‥用具倉庫に入っていって‥」


「用具倉庫?」


「わたし、一年生の頃よく倉庫で蒼井君と会ったんです。お互い部活が終わって道具を片付けるんで‥でもそれは偶然なんかじゃなくて‥わたしは蒼井君が倉庫にいる時にわざと行ってたんです」


「そうね‥澄野さん蒼井君のこと好きだもんね」


「えっ?」 


杉山先生の言葉に声を上げた‥

杉山先生にはバレてたのか‥


「普段の澄野さん見てたらわかるわよ、これでも担任なんだからね」


わたしは杉山先生に思い切って全部話すことにした。


「‥用具倉庫で会った時、蒼井君に僕のこと好きなの?って聞かれたんです‥わたし気づかれていたって思ったら恥ずかしくなって、そんなこと無いって答えてしまったんです。そしたら‥蒼井君、わたしのことずっと好きだったって‥」


「なるほどね‥そんなことがあったんだ」


「わたし‥あの日からずっと後悔してて‥今度蒼井君に会ったら自分の想いを伝えたいと思って、でも蒼井君が学校に来ないので‥」


「そういうことか‥」


そう言うと先生はカップに口をつけて紅茶を飲んだ。


「澄野さん、あなたは信用出来ると思うから話すけど、蒼井君は卒業式まで学校には来ない‥いや、来れないって言った方がいいのかな」


「えっ‥?先生それってどういうことですか?」


わたしはビックリして杉山先生に聞いた。


「蒼井君‥彼は今ね就職先を探してるのよ‥色々と採用試験を受けてるの」


「就職!?‥この前会った時、第一志望に受かったって‥」


「そうね、受かったんだけど‥行かないことにしたの」


「どうして‥」


「蒼井君、お父さんの具合が悪くてね、高校に入った頃から入退院を繰り返してたみたいね‥」


あの頃野球部を辞めようと思ったって‥それが理由なんだ‥


「今度、蒼井君のお父さん、治療に専念するのでお勤めの会社を辞めることになったみたい‥それで、多分金銭的な事情だと思うけど急遽就職するって‥」


「そうだったんですか‥」


「彼には夢があってね‥将来は数学の教師になりたいんだって、だから第一志望の大学も数学科だったんだよね」


「蒼井君‥教師になりたいんですか‥」


「彼は良い教師になれると思うわ‥でもね、大学行かないと教員免許は取れないでしょ、だから第一志望の大学に夜間部、つまり二部があってね、そこの数学科は唯一、二部でも教員免許が取れるのね、だから、そこに進学することに決めて、それを澄野さんがわたしのところに来た同じ日に伝えに来たの、そして就職先を探すから学校を休みますって‥」


「そうだったんですか‥」


「みんなには内緒よ」


「はい‥わかりました」


進路指導室を出ると複雑な気持ちになった。


蒼井君はずっと色んなことで悩んでいたんだ‥彼に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。



卒業式の日、この日でお別れする制服を着て家を出た。


今日は蒼井君に会える‥


教室に入ると千鶴に声を掛けられた。


「おはよう美咲、いよいよ卒業だね」


「そうだね‥千鶴、わたし達って幸せだったんだね」


「は〜っ?幸せ?」


「うん‥何の心配もなく高校も通えて、大学も進学して‥わたしは今までそんなこと考えたことなかった」


「何なのいきなり?」


「親のありがたみがわかったってこと」


「ふ〜ん、まあそうだけどね‥」


千鶴は少し怪訝そうな表情をして答えた。


蒼井君はまだ来てない‥

彼の席は空いたままだった。


卒業式も来れないのかな‥

杉山先生が教室に入って来た。


「みなさん、おはようございます。いよいよ卒業の日がやって来ました。色々な思い出があると思います。この学校で学んだこと、経験したこと、出会いを大切にしてこれから先の人生を歩んでいって欲しいと思います。蒼井君が席にいないと思いますが、彼は今日大事な用事があって少し遅れますが、みんなと一緒に卒業します。それじゃあ体育館へ向かいましょう」


「蒼井君ってどうしたんだろう?ずっと学校来てなかったけど、卒業式に遅れる用事って‥」


体育館へ向かって廊下を歩いていると千鶴が言った。


「‥蒼井君は来るよ‥必ず」


「美咲‥理由わけを知ってるんだ?」


「‥うん」


「美咲‥もしかして蒼井君のこと‥」


わたしは少しだけ笑みを浮かべて頷いた。


「え〜っ!?そうだったの!」


千鶴が驚いた顔をして声を上げたので、わたしは人差し指を立てて自分の唇に当てた。


体育館での卒業式は粛々と進行して、全員に卒業証書が授与された。


蒼井君‥間に合わなかったんだ‥


卒業生が退場する直前に杉山先生がマイクを取った。


「ようやく卒業生が全員が揃いました。最後に彼に卒業証書を授与してこの式を終わりたいと思います。蒼井岬!」


「はい!」


蒼井君の大きな声が体育館に響いた。


彼がわたし達の横を通って壇上に上がった。


「蒼井岬、卒業証書を授与します。これからも頑張って下さい」


校長先生がそう言って蒼井君に卒業証書を手渡した。


蒼井君は両手でしっかりと卒業証書を受け取ると一礼して階段を降りて、わたし達のクラスの席に向かって歩いてきた。


わたしは拍手をして蒼井君を見つめた。


わたしの拍手にクラスの皆んなも一斉に拍手をして蒼井君を迎えた。


蒼井君は少し照れた顔をして皆んなに一礼をして席に着いた。


「これで卒業式を終わります。卒業生が退場します!」


杉山先生の声にわたし達は席を立った。



教室に戻ると、杉山先生から最後の言葉があった。


「皆さん、わたしから最後に一言だけ言わせて下さい。人生は一期一会です。この三年間、毎日当たり前に会っていた友達、先生、人によっては好きな人とも、今日でお別れです。また明日会いましょうの言葉は‥ありません。人は誰かに出会い、そして別れていきます。だからこそ、その出会いを大切に、これからも生きて欲しいと思います。また明日ではなく、またいつかお会いましょう‥皆さん卒業、おめでとうございます」


そう言って杉山先生は一礼をした。


わたしは涙が溢れてきた。


もう、このクラスで皆んなと一緒に授業を受けることもないんだ、この制服を着ることも、そして蒼井君とも、もう会えなくなるんだ‥


想いを伝えるために蒼井君の席に向かった。


「蒼井君、間に合って良かったね」


「澄野さん‥ありがとう」


「最後にどうしても伝えたいことがあるんだ‥少し時間を貰えるかな?」


「うん、わかった」


蒼井君は笑顔で頷いてくれた。


教室を出ようとした時、千鶴に声を掛けられた。


「頑張ってね!美咲」


「千鶴‥」


「先に行って待ってるからね!」


そう言って千鶴は教室から出ていった。


わたしも一礼をして教室を出た。


蒼井君が廊下で待っていてくれた。


「蒼井君‥」


「澄野さん‥最後に話が出来て良かったよ」


「蒼井君‥この前はごめんなさい、わたしは恥ずかしくて自分の気持ちに嘘をついていたんだ、わたしは蒼井君が‥」


「澄野さん‥ありがとう、その先は言わないで」


「えっ?」


「言われると‥決心が鈍るから」


「蒼井君‥」


「あの時、澄野さんに僕の気持ちを伝えたけど‥僕は訳があって澄野さんと今は付き合えないんだ‥」


「蒼井君、あの‥」


「これ、受け取って欲しいんだ」


そう言って蒼井君は制服のポケットから野球のボールを取り出した。


「これは‥?」


「僕のお守りかな、これがあったから今まで頑張ってこれたんだ‥」


「そんな大切なもの受け取れないよ」


「澄野さんに持っていて欲しいんだ、そうすれば僕はこれからも頑張れる。そして‥いつかまた澄野さんに会えるような気がするんだ。だから受け取って欲しい」


そう言って蒼井君はわたしの手のひらにボールをそっと握らせた。


「蒼井君、わたしは‥今はまだ子供で親に頼らないと自分では何も出来ない‥でも、これからは蒼井君に負けないように一生懸命生きていこうって思う。今度会う時は胸を張って会いたい‥そしてちゃんと自分の想いを伝えたい。だから‥だからその時まで待っていて欲しいな、このボールはその時まで預かっておくから」


「澄野さんありがとう、僕も待っていて欲しい‥いつかまた会う日まで、これで行くね、じゃあ約束の握手!」


蒼井君が右手を差し出した。


わたしは手にしたボールを左手に持ち替えて右手を出した。


握手をした彼の手はとても優しい手をしていた。


彼は白い歯を見せると背中を向けて廊下を歩いて行った。


彼の背中を見ながら涙が止まらなかった。


昇降口で千鶴が待っていてくれた。


「蒼井君行っちゃったよ」


「うん‥」


わたしは手に握っているボールを見つめた。


「それは?」


「蒼井君から預かった‥」


「預かった?」


「千鶴、わたし決めた!」


「えっ、何を?」


「これからちゃんと生きていくって!蒼井君みたいに」


制服の袖で涙を拭った。


「そっか‥頑張ってね!」


千鶴はそう言ってわたしの肩を叩いた。




「久しぶりね、澄野さん!すっかり立派になって」


杉山先生の言葉に三年前の卒業式の日に気持ちが戻っていたわたしはハッと我に返った。


「ありがとうございます、杉山先生もお変わりないようですね?」


「あらそうかしら、あと二年で定年よ、もうおばあちゃんね」


「そんなことありませんよ、先生は変わらないです」


「お世辞はいいのよ、それよりよく頑張ったわね」


「はい!あの‥」


「そうね、わたしより大事なことがあるわね!」


恥ずかしくて顔が赤くなるのがわかった。


「すいません‥」


「行って来なさい、また後でね」


「はい!杉山先生、また後程」


すぐに職員室を出て一階に降りると、入って来た職員用の玄関で黒のパンプスに履き替えると校庭を歩いた。


三年ぶりに見る校庭の景色は変わらない、ただ校庭があの頃より少し狭く感じた‥


心地よい五月の風が優しく吹いている夕暮れだった。


あの用具倉庫に向かうと扉が開いていた。


やっぱりここか‥

わたしは倉庫に入って声を上げた。


「蒼井先生!こんな処にいたらせっかくのスーツが汚れちゃいますよ!」


紺のスーツ姿の彼が振り返って驚いた様子でわたしをマジマジと見ていた。


「澄野さん‥?」


「そうだよ、久しぶりだね蒼井君!」


「どうしたの?‥もしかして、もう一人の教育実習生って‥澄野さんなの?」


「うん、わたし!」


「澄野さん‥元気そうだね、あの頃より更に綺麗になって‥驚いた」


「蒼井君もね、あの頃よりもっと凛々しくなって‥相変わらずカッコいいね」


「そうかな‥」


彼は少し照れ笑いを浮かべた。


「これ、預かってたボール、返すね」


わたしはスーツのポケットから、あの野球ボールを取り出して蒼井君に投げた。


蒼井君はボールを両手でキャッチすると、


「持っていてくれたんだ‥」


嬉しそうな顔をしてわたしを見た。


「大切に持ってたよ、このボールがあったからわたしは頑張れたんだよ、大学に入ってすぐに塾の講師のバイト始めて、教職の授業も取って‥正直大変だった。でもね、このボールを見て頑張った。蒼井君はもっと頑張ってるって、お父さんが病気で、昼は仕事して、夜は大学通って‥わたしなんかよりずっと頑張ってるってね」


「澄野さん‥なんでそれ?」


「三年前に杉山先生が教えてくれたんだ」


「そうだったんだ‥」


「お父さんのお身体の具合はどうなの?」


「うん、少し前からまた仕事を始めたんだ‥まだ無理は出来ないけどね、少しづつ良くなっているよ」


「それは良かった‥本当に良かった」


「ありがとう‥澄野さん」


蒼井君が頭を下げた。


「卒業式の日に約束したよね、今度会う時は胸を張って会いたいって‥わたしは‥」


「澄野さん‥」


蒼井君がわたしとの約束を覚えているか不安になってその先を伝えることを躊躇った。


あれからもう三年も経ってるんだ‥

彼女の一人位いたっておかしくないんだ‥


「そのボール、どんなボールだったの?最後の試合のボールとか?」


わたしは蒼井君に質問をした。


彼は手にしたボールを見て言った。


「ううん、違うよ。これは澄野さんが僕にくれたボールなんだよ‥一年生の時にこの倉庫でよく会ったよね?全く会話したことなかったけど、一度だけ話したことがあるんだよ。僕はあの頃球拾いでグランドに落ちているボールを集めるのが日課だった。全部拾い集めたと思ったんだけどね、澄野さんがグランドに落ちてたよって渡してくれたボールなんだよ‥覚えてないと思うけどね」


そのボールはあの時のボールなんだ!


「覚えてるよ‥忘れる筈ないよ、そのボールは蒼井君がグランドで拾い忘れたんじゃないんだよ‥」


「えっ?」


「あれはね、わたしが陸上の部活中に拾って隠し持っていたボールなんだ、蒼井君と話すキッカケが欲しくてね‥」


「そうだったんだ‥」


蒼井君は少し驚いた顔をした。


蒼井君はわたしが渡したボールをこんなに大事にしてくれてたんだ‥

お守りだって、わたしは自分の想いをちゃんと伝えることに決めた。


「蒼井君、三年前にここで言えなかったことを伝えるね、わたしは蒼井君がずっと好きだった。今も、これからもずっと蒼井君が好きです‥わたしが今日まで三年間一人で頑張ってこれたのは蒼井君がいたから、あのボールがあったから、だから‥蒼井君さえ良かったら‥これからは蒼井君と一緒に二人で頑張っていきたい、わたしと付き合って欲しい」


ようやくわたしは蒼井君に自分の想いを伝えることが出来た‥


「澄野さん‥君は三年前の素敵なままだね、本当に僕みたいな男でいいのかな?」


「蒼井君こそ、‥彼女とかいなかったの?」


「彼女‥そんな人いる筈ないよ、野球のボールって赤い糸で縫ってあるでしょ?このボールをもらった時にね、僕は‥みさきって名前も同じだったし、きっと澄野さんと赤い糸で結ばれているんじゃないかって思ったんだ‥だから、卒業式の日にこのボールを澄野さんに渡したんだよ、また会えるようにって‥赤い糸が切れないようにってね‥」


「蒼井君‥わたしも同じこと思ってた、わたしと蒼井君は絶対にいつか会えるって!このボールの赤い糸が絶対に蒼井君に会わせてくれるって‥」


「ありがとう澄野さん、これから一緒に‥ずっとよろしく」


「うん、わたしの方こそよろしくね‥ずっとだよ」


「ゴホン!お取り込み中悪いわね」


咳払い共に杉山先生の声が倉庫の外から聞こえた。


その声にわたしと蒼井君はお互いの顔を見合わせると、思わず恥ずかしくて下を向いた。


「校長が蒼井君と澄野さんを呼んで来てくれって‥そろそろ職員室にいいかな?」


わたしと蒼井君は倉庫から外へ出ていった。


「二人共、わたしが卒業式の日に言ったことをちゃんと忘れてなかったようね、人生は一期一会、これからも出会いを大切に頑張ってね、二人はいい教師になれるわよ、それと‥いいパートナーにもね!」


杉山先生の言葉にわたしと蒼井君はお互いの顔を見て頷いて自然と笑みがこぼれた。



 −終わり−

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