第15話けもの道(患者二十号)

 そのまま病院に収容されることになった。

 数日間は病室の一室で何もせずに放置されたまま過ごした。数日後の後、突然、私が収容された病室の扉が開き、女医が入ってきた。

 彼女の顔を見た瞬間、思わず声を上げてしまった。

 ドラえもんのように頭が大きく、ずんどう型の例の女医である。もちろん軽蔑している訳ではない。彼女は私がこの病院に収容される前の知人である。孤独に喘ぐ自分には救世主のようにさえ見えた。

 だが、彼女は見知らぬ者に対するように空々しく振る舞った。

 大事なことを思い出した。

 例の女医は最後に刺々しい言葉で言い残したものである。

「自分は退院をするが、あなたは病院に収容される。Mの正体を知りたがっているあなたには時間が必要でしょう。そのためには患者十九号はあなた自身であると認めた上でこの病院に留まるのが良い方法です」と。

 目の前に立つ女は見下すように立っていた。

 だが彼女は、何も打ち明けてはいないのに私の心の動揺を見抜いたように明確に宣言した。

「私と彼女は別人です」と

 だが、宣言する声さえも例の女医と同じようにドラえもんのように嗄れている。

 私と一緒に外に出るのです。今日は建物周辺を案内します。少しは息抜きになるでしょうと命令口調の厳しい声で指示をした。

「なぜすべてをまとめて案内してくれないのですか。不都合な点でもあるのですか。」と強く抗議した。

 病院に収容される前は白衣病棟のワンフロアーしか案内してくれなかったのである。

 この抗議に、彼女はMの指示ですと簡単に応えた。

 すべてをMの指示のせいにすることも以前と変わらない。

 彼女は私の不満を察知したようである。

「Mがあなたの健康状態を考えて下さっての処置です」

「どういうことですか」

「一度に多くのことを詰め込めすぎて、飽和状態になることを彼は心配しているのです」

 納得できないこともない。ここ二カ月ちかく驚きの連続である。頭脳の方は飽和状態に近い。

 

 外は陰鬱な曇り空だった。

 白衣病棟の窓が少なく小さいことも周囲の景色を一層陰鬱なものにした。

 白衣病棟の南側の外来専用の建物に比べたら格段の差がある。建物も白亜の美しい輝かんばかりの新しい建物である。建物全体が黒く変色してしまった白衣病棟に比べれば格段の差がある。

 正面玄関には車寄せのロータリーや手入れの行き届いた美しい花壇が整備されている。

 ゆったりとした広い駐車場にはベンツなど高級車が目立つ。

 だが白衣病棟に住む住民は足を踏み入れることは禁止されている。白衣病棟と白亜の外来病棟との区別を明確にしたいのであろう。女は白衣病棟や病棟周辺を案内してくれた。

 病棟のさらに北側は手入れをされないままになった空き地があり、雑草や雑木が茂っている。地方の大都市に通ずる私鉄の駅や高速道路のインターチェンジも近くにできた。都市化の波が押し寄せつつあり、ぜいたくなことである。白衣病棟や荒れに任せた庭を残しているのは土地の値上がりを待っているという無責任な噂もあるらしい。この荒れ放題の土地も、かっては梅林で入院患者が散策するなどの光景が見られたらしい。その水源とした大きな沼が残っている。冬になると鶴の類の水鳥が長い旅の疲れを癒すために羽を休めている。白衣病棟や病棟の周辺の敷地面積は不明である。それほど広大である。


 病棟周辺の様子であるが、低い周囲は四百メートルほど生垣に囲まれている。生垣の内側に車が一台通れるぐらいの狭い道路が白衣病棟を囲み整備されている。南の外来病棟との間には広い道路が存在する。これも南側の外来病棟と白衣病棟が関係がないことを印象づけることを狙っての設計であろう。

「不用心ではないか」と質問した。

 患者が逃走しようとする場合のことを考えての質問である。

 彼女は生垣内側に張られた二本の細い銅線を指さした。

「あれが生垣を超えて敷地に侵入しようとする者や無断で出ようとする者の存在をナースステーションに知らせる装置です」

「赤外線を使った方が効果的に察知できるのではないですか」

「病院には予算がない。十年前には最新のシステムでした」

 誤作動はないのかと念を押した。

 すると彼女は答えたものである。

「誤作動があるからこそ面白いのです。年に十回は非常ベル鳴ります」

 理解できなかった。

「生垣を超えて敷地外に逃げようとする患者や侵入をしようとする輩がいるということですか」

「いいえ」と彼女は明確に答えた。

「すべて誤作動です」と女医はあっさり答えた。

「でも犯人はいます」

 ますます混乱するばかりで意味が分からない。

 その時たまたま二人の足元を通り過ぎようとした小動物を指さした

「あの子猫が誤作動の原因です」

「この子猫が犯人ですか」

 生垣の高さは一メートルほどである。裸の銅線はそれから五十センチ離れて敷地の内側を走っている。猫が犯人では、線に届きそうもないように見えた。

「本当に子猫の悪さのせいに間違いないのですか」

「本当に猫が悪さをする姿を見かけた者がいたのですか」

「いいえ一度もありません。ナースステーションで異常を感知し、駆け付けるまで五分ほどかかります。その時には子猫の影さえありません」

「それでは犯人は猫であると決めつけることなど出来ないはずです」

「それでも犯人はこの子猫です」

 と彼女は断言した。 

 猫に出来るはずはない。

 犯人は人間に違いないと思った。

 人間なら手を伸ばし、簡単に線を切ることができる。

 線を切ってすぐに姿を隠せば証拠も残らない。

「今の時代、カメラも安価に入手できるはずです。真犯人を捜し出すことが先決ではないですか」と私は詰め寄った。

「真犯人を捜し出すことなど必要はありません。ここでは医師も看護士も過度なストレスを抱えています。看護士同士でも自分の気に入らない看護士がいます。気に入らない相手がナースステーションで一人でいる時などを見計らい、この線を断線させ慌てふためく姿を見てストレス発散をするのです。なにしろ白衣病棟中の非常ベルが鳴り病院中が大騒ぎになるのですから、一編にストレス解消になります。うまくいけば相手の対応のまずさを責め立ててて蹴落すことも出来ます」

「病院の医師や看護士のストレス解消のために患者も巻き込んでも平気なのですか」

「仕様がありません。夜中でも就寝中の患者全員を叩き起こし、逃げ出した者はいないか点検します。犯人を捕まえてしまえばこの楽しみもなくなるのです。それに犯人の言い分を聞くのも面倒を生み出しかねません。過去のうわさ話が暴露されたら困るのです。ですから深く詮索をすることは絶対にタブーです」

 あやふやにして置きたいようである。彼女は更に念を押した。

「犯人の内部告発を恐れているのですか。この方法を使いライバルを追い落とし婦長の地位を得たなどという裏話が出たら大騒動になります。あなたも深く詮索をしてはいけません」と警告をした。その上で言葉を続けた。

「病院の事情はひととおり説明しました。明日からあなたは一人で林の中の手入れをすることになっています。どのような不思議な現象を体験しても深く詮索しないことです」と荒れ放題になった北側の雑木林を指差し、繰り返した。

 突然仕事を言い渡されて驚いたが、彼女は手入れの方法は明日に説明すると告げた。


 翌日から私の仕事が始まった。

 実はこれからが物語の本題である。

 一ヶ月も経過した頃に、不思議な現象を体験することになったのである。

 

 裏庭の生い茂る木の手入れと言う軽作業を終え、病院に帰る途中の出来事である。

 偶然、白衣病棟に続く近道を発見したのである。かっては人が通っていた道であったにちがいないが、今では荒れに任せて放置されたけもの道になっている。

 道の繁茂する草木の様子から想像すると、放置されて五、六年は経過しているにちがいない。

 その日、始めて近道のために、その小道に足を踏み入れたのであるが、瞬間、鋭い火花が頭の中で飛び散った。

 木々の梢たちが激しい口調で互いにやじり会っているのである。

 もちろん風のせいで木の葉が揺れてこすれて音を立てているせいではない。人の声である。

「ちがう」

「どこが違うと言うの」

 他の梢である。

「あの男も最初は悪い男ではなかった。幸子と言う娘に同情し、人の道を踏み外したにすぎない」

 幸子と言う名前で、すぐに間男と言う作品で触れた患者十三号と十四号の物語を思い出した。二入は今でもこの病院に収容されているはず。いつか姿を見る日を楽しみにしていた。

「幸子さんが勤めていた秘書室の権力闘争が招いた結果よ。意地悪な先輩がご主人の留守中に彼女をいじめた。それで彼女は救いを求めた」

「それで救いを求めて間男に走った」

「病院側にも責任があるわ」

「一体、どういうことよ」

「あなたがあなたの亭主に告げ口をしたでしょう。幸子と秘書室に勤務する看護士が仲が良すぎると。ところがその亭主ときたらもともとおしゃべり好きで直ぐに噂を広めた」

「幸子さんの夫とは仕事も同じ外科勤務で、ライバルだと思っていたのよ。だから彼をけ落とすためにも、この話を大きくする必要があった。幸子と秘書室の男性看護士ができていると話に飛躍させて広めたのよ。それがことの始まりだった」

「この噂は幸子さんを追い詰めたと言う訳ね」

 梢の声はめまぐるしく変わるので、どの梢が発する声かは特定はできない。

「その秘書室の先輩とは誰のこと」

「誰かさんが弁護するN子さんよ」

「何より悪かったのはN子の御主人の存在よ」

「いつの話よ」

「幸子さんの御主人が認められて遠くの病院に研修に出掛けている間に起きた話よ」

「ずうと昔の話だわ」

「そう五、六年前の話よ」

「近代的な美しい白亜の塔で起きた出来事よ。外面は美しいけど、まった裏で何をしているのか分からないわね」

「結局、幸子さんは間男に身体を許したわけ」

「本当のことは分からない」

「そんな扇情的な噂話など広げても何の役にも立たないわ。刺激をされて朱に染まる者が出ないともかぎらないわ」

「幸子さんの亭主の家族も長期出張を指示した責任を追及して病院に怒鳴り込んできたらしいわ。病院の管理体制を訴えてやる」と。

 騒々しいけもの道を歩き続けた。

「勝手なことを言わないで。そんな勝手な噂話が幸子を追い詰めたのよ。幸子と私は秘書室でも中でも仲が良かったのよ」

 これまでとは違う怒りに震える声が鼓膜を突いた。

「あなたはN子でしょう」

「私はN子でないわ。あなたたちと同じ梢にすぎないわ」

「木の梢にすぎないですって。私たちを馬鹿にしているわ」

 プライドの高い梢も存在するようである。

「とにかくN子の御主人はとんでもない男よ。病院内で根拠のない噂話を広げるなど日常茶飯事。しかも周囲や看護士たちや上司から制止されても耳を貸そうともしないばかりか反抗的になって説教する上司の粗さがしを始める」

「知るものですか」

「無責任よ。あなたは彼らを弁護するのでしょう」

「そうだ。そうだ」

「傷つくかも知れないけど、あなたが男のような身体つきをしていると周囲の男たちに言いふらしていたわよ。この前はグラビア雑誌を開きながら、いいないいなこのグラビアアイドル、うちの女房には乳がない乳がないとと耳ざわりで甲高い声で騒いでいたわ」

「けだものよ」

「きっと幸子さんの体に関心があったかもよ。なにしろ彼女は魅力的なグラマラスな身体付をしていたから」

 梢たちは興奮し互いに自己が代弁者にすぎないことさえ忘れてしまったようである。

「最近では若い女性の看護師の体臭をクンクンかぎ回っているのを見かけたわよ」

「まるで野良犬だわ。粗野でいやらしい奴よ」

「看護士として失格よ」

「変態ね」

「許される行為かしら」

「嫌がっているのに、お構いなしよ」

「本人が止めろと警告を発すべきよ」

「それでも耳を貸さなければどうするの」

「当然、セクシャルハラストメントで法廷闘争に持ち込むべきよ」

「五年前の幸子さん夫婦の出来事も、あなたたち夫婦喧嘩に巻き込んだせいで起きたのではない」

「ひどいわ。幸子さんのことは先輩として心配していた忠告しただけよ。嘘ではないわ。世間には無責任にあらぬことを言いふらす者もいる。主人の不在中に他の男性と親しく見られたらいけない。彼女はこの忠告を逆恨みしたのよ。自分のことを尻軽女だと思っているのと食ってかかってきたのよ」

 桜の木の幹の方から聞こえるくるような気がするが確信は持てない。

「言いふらしていたのは、あなたの御主人でしたよ。火のない所に煙は立たないと言うけど、あなたが煙を立て、やがて起きた小さなぼやを煽って大火事にしたのはあなたの御主人でしょう」

「五年も経ったのかしら。他人の私たちでさえ嫌な思いをしたせいかしら、つい最近のことのように思いだすわ」

「二人も家族も立ち直れないわよ。一生、背負っていかなければならない出来事よ。離婚届と言う紙一枚の手続きでは終らないわ」

「彼女はあなたたちの悪意と意地悪に追い詰められたのよ。そして耐えれなくなり留守中の主人以外の男に頼るようになり、その男に身体まで許してしまったのよ」

「人の道を踏み外させて、けもの道に追い込んだのはあなたたち夫婦二人よ」

「正義感の発露のつもりでね。それにしてもねたみとスケベ根性が混じった正義感だこと」

「それだけではない病院全体を大騒動の渦の中に放り込んだのよ。それでも、まったく反省をする様子はないから、Mもたまりかねて例の三名組の幽霊を招き入れた。ところがその実態のない幽霊たちにも毒づき始めたと言うわけ」

「かえってエスカレートして過激になっていく始末なの」

「若い女性の看護士の体臭を嗅ぐ行為まで始めたというわけね」

「自分は悪いことはしていないと自己弁護のためにもそうするしかないのかも知れないわね」

ちがうと、弁護する梢は頑固に言い放った。

「何が違うと言うの」とマタタビの葛を責める声がする。


「若い女性看護士の臭いをクンクン嗅いで回っていた翌日には秘書課に勤める奥さんのN子さんが謝って回ったいたらしいわ。うちには小さな子供が二人います、亭主を許して下さいとか言って。夜の相手して上げれないから、謝罪し頭を下げて回り、若い看護士たちはあきれ返っていたわよ」

「いやらしい夫婦だわね。呆れてしまうわ」

 この意見に賛同する声が藪の中のあっちこっちに満ち溢れた。

「う言えば幸子さんが噂で苦境に追い詰められた時期は、彼女が子供を宿したいた時期ではなかった」と新しい発見をした梢が声を上げた。

「彼女は卑しい主人の歓心を得て、心を離れないように幸子さんと間男の話を仕組んだのかも知れない」

 この解釈に周囲は絶句し、しばらく沈黙が続いた。しばらくして小声で聞く者が現れた。

「どういう効果があるの」

「少なくても自分が貞淑な妻であることは強調できることよ」

「でも家庭を守るために行った行為でも許すことはできないわ」


「本当のところ一体、誰が悪かったのかしら」

「幸子さんの不倫事件では自分も傷付いた。だから自分にもカウンセラーが必要だと叫んでいたわよ」

「呆れる話だわ。彼に必要なものはカウンセラーでなくて隔離する監獄よ」

「高額の損害賠償を求めて、幸子さん夫婦と間男は裁判で争っているらしいわよ」

「金銭のやりとりで解決するわけね」

「経済的方法ね。けもの社会にはない人間社会だけの方法だわ。けもの道から抜け出し人間社会に戻るためには一番、よい方法かも知れない」

 木々の梢の声はすべて女性的な声である。

「誰が誰を訴えているの」

 周囲の梢が分かり切ったことを聞くなと言う反応を示したので、梢は慌てて付け加えた。

「幸子さんの亭主が幸子さんを、それとも幸子さん不倫相手を訴えているの。それとも噂を言いふらし広めた2ちゃんねる男を訴えているの」

「とにかく当事者は誰かしら。当事者しか責任を取れないわ。思い出に残る以上は逃れることはできない。けじめを付けることもできない。辛い思いは続くわ。開き直るしかない」

「私たち植物の交接と違い、動物の雄とメスの交接は互いの内臓と内蔵を接触させる危険で命がけの行為よ。だから記憶にも深く刻まれるのよ」


「それにしてもよく二人は簡単に不倫関係を認めたものね。裏があるかも知れないわ。たとえば幸子さんは亭主に愛想を着かせていて別れる機会を待っていた。夫婦生活だけでなく秘書室の仕事や人間関係の嫌気がさしていた。すべてを捨てて自由になりたいと願った。この不倫話は本当の話だったのかしら」

 風が吹き木々の葉や梢が一斉に揺れ動いた。根本的な問題であり、この問い掛けが大きな動揺を招いたのである。

「考えすぎよ」

「だって現場を見た人がいたの」

 と懐疑的な声は続けた。

「キャピキャピ男たちがおもしろおかしく作り話をデッチ上げて、それが広がったにすぎないのではない」

「そんなことをする理由はないでしょう」

「あるわ。嫉妬よ。彼こそ幸子さんに対する横恋慕をしていた。うまく幸子が妻のあなたとの抗争に疲れて、自分の胸に救いを求めて縋りついて来っていた、ところが彼女は間男の方に走っ行った。第一の目的は達することは出来なかった。でも、この男と女のこの種の扇情的な話は広がるからライバルである外科の看護士をけ落とすことはできた。彼はは女房を寝取られた烙印を一生、背負い続けねばならない訳ね」

「ひどい」と言ってすすり泣いた。

 またたびの葛の方から声が聞こえている。

「色々な人がいるわ」

 しゃがれた声がした。空を隠すほど覆い茂る、楠の老木の梢の声であろう。

「人の本性です。でも人の社会の中で生き抜くために押し隠すしかない。それに世の中には本当のことでも言ってはいけないこともある。まして男女のことなど。真実は当事者たちしか知らないこと。それを職場で大声で暴露するなど正気の沙汰ではない。普通のならこんなことを口に出さずとも分かるわ。でも本能や感情に支配された心のただれ切った人には言っても無駄だ。このただれきった汚い心が周囲の人に伝染でもしたら大変なことになる」

 どの梢が話しているのか聞き分けることはできないが梢たちの声が聞こえる。もちろん風に木の葉がこすれ合う音などではなく人の声である。

「ひどい」

 泣き声は消えない。

「ひどいのはあなたとあなたの御主人でしょう」

 この言葉は猫柳の木の方から聞こえた。

 木の梢には古くて字が消えかけているが、名札が掛けられている。

 今では木の枝や草が生い茂るけもの道になり下がっているが、以前は整備をされた森の小道であったにちがいない。梅の木だけはない。桜の木や、桃の木、梅の木、ハナミズキの木まで植えられている。

 N子の代弁をする梢がすすり泣きを始めた。長い間続くすすり泣き声の方を注視すると猫に与えると陶酔状態になるマタタビの葛が桜の木の幹に絡みいていた。

「N子さん、世間ではよくあることです。白状しなさい。白状すれば楽になるわよ」


「いつもキャピキャピと喋り続けているわ。喋っていない時は、クチャクチャとガムを噛んでいるわ」

「誰が忠告しても三分間と沈黙は続かない。まるでエンドレステープよ」

「静寂を保つためには、三分ごとに忠告をし続ける必要がある。そんな余裕のある者が病院内でいるはずはないわ」

「静かにしろと忠告をする者の声に耳を貸さないばかりか、逆恨みをして十倍にして仕返してやると怒鳴り返すような男よ」

「周囲に自己のストレスをまき散らすことで正常な状態を保っている。外科病棟には迷惑きわまりない存在よ」

「子供の頃は学級崩壊が起こした存在にちがいない」

「今は職場崩壊の元凶と言う訳ね」

「子供の時から同じ状態かしら」

「病院を追放できないの」

「いろいろ微妙な問題があるのよ」

「内部告発が恐いのね。きっとそうよ」

 私は庭の案内をしてくれた女性の言葉を思い出していた。白衣病棟の周囲に監視線が張られているが、切断されブザーが鳴ることが多いが、真犯人に内部告発をされることを恐れて真犯人捜しはしないと言っていた。


「だめだめ」

「二代の病院長が連続して免職をする必要があると認めなければ退職をさせることができない仕組みなっているのよ。今の院長が免職をさせようとしても次の院長が免職をさせないと判断したら免職を免れるということよ。結局、個人的な私闘にすぎないとしか扱われないのよ」

「それなら永遠に免職をされることないわよ。あの男ならずる賢く要領よく立ち回れるわ。きっと、次の院長の時には前の院長をさんざんこき卸して、逆に新しい院長の機嫌を取り、与党に回るわ。前任者と後任者は普通は仲が良くないからこれを繰り返せば、いつまでも病院に残って好き放題できるわけよね。それぐらい彼には分けないことよ」

「彼に女性看護師の臭いを嗅ぐのを止めろと警告した医師がいたのよ。ところが、素直に従わないばかりか反逆をしたそうよ。若い女性の患者の身体を触診する彼の目はいやらしいと言う病院中に噂を流し始めたのよ」

「医療行為を批判したわけね」

「彼の目には、そう映ったのでしょう」

「本当にいやらしい性根の持ち主ね」

「噂をばらまくなんて、まるで2ちゃんねるね。どんなに些細なことでも繰り返し言いふらせば相手にとって致命的な大事件にできる。彼は五年前の幸子さん夫婦の事件から学んだのよ。咎を受けることはないと言うことも学んだのよ。

「幸子さん夫婦の時は、男としての欲望を満たすための動機だった。だけど今度は保身のための行為で、しかも自己を看護士にすぎないと卑下し病院の責任者たちの油断を誘いつつ目的を遂げようとする悪賢い知恵も身に付けたわ」


 悪事の暴露は続いた。

「N子さんあなたの御主人は本当にひどい人よ。幸子さん夫婦の仲を割いただけでは物足りなかった。最近では手術を控えた患者が外科病棟を逃げ出し事件が発生したけど、その原因も、あなたの御主人が作ったのよ」

「医師の診断は誤診だ。本当は癌の末期症状だと言い振らしていたのでしょう」

「医師を信頼できなくなった手術前の敏感な患者が手術直前に逃走したのも彼のせいよ。医師もすっかり自信を喪失してしまった」

「ひどい話ね」

  

「そうそう猫柳さんもあの粗野なN子の主人の看護士にひどい目に合わされたことがあったわね」

 猫柳の木は憤まんやるかたないと言う風情で細い枝を震わせた。

「台風の後よ。強い風で枝が折れると言う大けがを負ったことがあったわ」

「ひどい台風だった」

「病院中の看護士が台風の後始末のために借り出された。でもあなたの御主人だけが、余計な仕事だと大声で叫び続けていた」

「そして一番、手入れが大変だ。早く枯れてしまえと罵倒し、ひどい痛手を受けた猫柳の木の幹を思い切り蹴飛ばした」

「蹴飛ばしたのは良いけど、かえってつま先を痛めて、ちくってやる、十倍にして仕返してやるといつもの口癖でたんかを切っていたわよ。こっちとら二人で病院に御奉公しているですて」

「とんでもない思い違いよ。周囲の者は二人で病院中を引っかき回していると思っているわ」

「彼の十倍にして仕返してやると捨て台詞はどうなったの。現実に実行されたの」

「待って、その話は白衣病棟の例の幽霊たちが占拠している開かずの間での話でしょう。彼は開かずの間になっている病室の前でも目障りだ、十倍にして返してやる早く出て行けと扉を蹴飛ばして叫んでいたらしわよ。昼間のことで他の人には部屋の中で幽霊がいる気配すら感じないのに気配を感じたと白衣病棟でも問題になったらしいわ」

「でも今の話は猫やなぎの木の前での出来事です」

「彼はどこでも同じことを言っているのよ。きっとやましい気持ちはあるのよ」

「本当に彼の十倍返しという捨て台詞には実効性はあるの」

「効果がある時もあるわよ。彼の捨て台詞の後にこの小道に手入れの人が入らなくなったのよ」

「何をチクったのかしら」

「この小径を維持するのは無駄だとでもチクッたのでしょう。そればかりか台風のたびに倒木が多くてことは世話が大変だ」

「誰にチクったのかしら」

「この中に思い当たる女がいるはずよ。秘書室にいる自分の奥さんのN子さんよ。彼女を通じて噂を広げる積もりだったのよ。幸子さんの時とは逆コースで病院中に噂を広げるつもりだったのよ。二人三脚で騒動を起こし続けるつもりよ」

「かえって静かになって清々したわ。荒れ放題になってしまっているけどね。病院内でも大変な出来事が起きたようだけどね」

「でも、最近、この道を通る人が増えて来たように思えない。それも以前と同じように独り言を言う人が多くなったわ」

「彼のせいでみんな傷ついている。みんな病気よ。ただれた心を伝染させようとする病原菌よ」

 私は会ったことのない白亜の病棟の外科病棟に勤める年の若い男性のことを想像し、彼を患者二十号と呼ぶことにした。

 

 翌日、私はけもの道での梢たちの奇妙な会話を例の女に話した。

 女は意地悪な笑いを浮かべて無言で聞いていた。

「あなたの言うとおり、白衣病棟の十三号室と十四号室は開かずの間になっています。でも、本当に開かずの間に幽霊が住んでいるかどうかも疑わしいのですが、幽霊などと言う存在はもともと実体などないのです。キャピキャピ男がこの実体のない存在に敵愾心や恐怖を抱くのは彼自身に疾しさがあるせいでしょう。それともキャピキャピ男たちの話に引きつけられて憑依して来た幽霊が存在し続けているかも知れません。類は友を呼ぶと昔のことわざとおりの現象です」と言い、女はイタズラぽく笑った。

 カウンセラーの小径 (患者二十一号)



 いつものように裏庭の清掃と剪定作業を終えた後に、白衣病棟にある部屋に戻るために藪の中のけもの道を抜け出ようとした。

 けもの道を抜けた広場に、うす汚れたベンチがある。以前は多くの者が休憩をする場所であったことが伺える。だが今は誰も使う者もいない。元々は白いベンチであったようだが、その面影もなく、うす汚れて茶色に変色している。

 ところが、その日にかぎっては白衣を着た人物が腰を卸していた。彼の白衣は真新しく私の周囲にいる者たちとは白衣の清潔感から高い地位の立場にあることは一目瞭然である。私の姿を認めると立ち上がり軽く会釈した。そして近付いてくると、いきなり耳元で囁いた。

「今日も梢たちの声を聞くことはできたか」と聞いてくるのである。

 もちろん驚いた。

 なにしろ私がけもの道で梢たちの話声を聞くという不可解な体験をしたことは例の女医以外は知らないはずである。

 強く口止めをしていた。簡単に約束を破る雰囲気ではなかった。

 彼女もこの種の噂が病院に医師に広がれば、患者である私の立場を著しく不利にすることは十分承知しているはずである。いよいよ幻聴を聞くようになったと周囲に思われた日には退院の日も遠のいてしまうのである。

 返事に窮した。

「驚くことはない。昔は僕も聞いたものだ。女医はそれを承知の上で、僕にだけ話してくれた。もちろん誰でも梢たちの話を聞くことが出来る訳ではない」と彼は付け加えた。

 彼の言葉にも完全には心を開く気にはなれなかった。

 白亜の外来病棟で勤務する宮城と言う医師だと名乗り、私の腕を取った。

「あなたがカウンセラーの小径で聞いたことを話して頂きたい」

 医師であるとは言え、勝手な要求である。まして突然な要求であり、彼は私の担当医ではない。

 それにカウンセラーの小径などとは聞いたこともない。だが、すべてを話すまでは解放をしないと言う意気込みである。

 彼の熱意に思わず答えた。

「カウンセラーの小径などとは聞いたこともありません。筋の通らない話です。勘弁して下さい」と答え、彼の腕を振り払い逃げようとした。

 一瞬、彼は戸惑った。

 カウンセラーの小径を知らないと、つぶやき不思議な表情を見せた。

「今、あなたはカウンセラーの小径を歩いて、この広場に出て来たばかりでないですか」と答えた。

 彼は私が、けもの道と呼んでいる道を指し、カウンセラーの小径と呼んでいるのである。

 それでも初対面の彼に話す必要ないと思った。

「私の話しとあなたの話を共通のテーブルに載せることで筋が通り、全体像が見えてくるのです」と宮城と名乗った医師は必死に食い下がってきた。

 彼は、しばらく迷った末に付け加えた。

「森の小径で妄想を聞いたと、このままではあなたに分裂病の疑いがかかる。あなたも自分自身が分裂病ではないと納得したいはずだ」と脅迫じみたことを言った。

 電波が語りかけてくるとか頭の中に多数の人間が存在し語り合うなどという奇怪な現象を感じるのは常人ではないことは承知している。

「でも、あなたに話すことで私が分裂病ないと証明できるのですか」

 彼はうなづいた。

「カウンセラーの小径の小径で聞いたことが、病院内で起きた出来事だと証明すれば、あなたは預言者になれる」

 不安を感じながら、彼の次の言葉を期待した。

 彼は慰めるように言った。

「この病院に来たばかりで知らないかも知れないが、あの森一帯では奇妙で現象が起きるが、あの藪の中の小径は以前からカンセラーの小道と言う別名で呼ばれ、ある特定の人間にに病院内で起きた出来事を木の梢たちが伝える。仕組みは小道を散策する者たちが日頃の不満や悩みを口に出してしまう。周囲の木々がこの不満や悩みの言葉を聞き届け、時間が経つと梢を通じてはき出すと言う仕組みだ。だが特殊な現象とは言い切れない。本州の北のはてにある、ある山では冥界に去った死者の声を伝えると言うのではないか」

 彼は私が選ばれた人間にちがいないと言った、それが証明されれば、単なる分裂病ではないと言うのである。

「私が彼らの言葉を理解できなくなってから四年になる。だから四年ぶりのことだ」と彼は感慨深げに告白した。

 彼も四年前までは梢たちの言葉を聞き取れたと言うのである。

 後継者が現れて、彼自身が特別な異常者ではなかったと安堵もしていた。

「これで私という人間を信用して頂けましたでしょう。早速、あなたが先日、女医に話したことを私にも話して下さい。同じことでも構いません」

 彼に対する疑いを解いた訳ではない。噂が広がることを用心せねばならない。

 しかし医師であると自己紹介した彼を粗末に扱う訳にはいかない。

「しばらく整理する時間が必要です」と言い訳をし逃げようとした。

 彼は待ちますと応え、薄汚れたベンチに腰を下ろした。逃れようとする策略も無駄に終わったようである。

「仕事中にキャピキャピと喋り続け、周囲の者の邪魔をする看護士の話が出てきました」

 医師はうなづいた。

「彼が職場で広めた無責任な風評のせいで離婚をした若い新婚夫婦の話が話題になっていました」

 医師はうなづいたので聞いた。

「現実に思い当たる出来事が起きたのですか」と。

 この問いに対し、医師は逆に梢たちはそれ以上はことは話していなかったと聞いてきた。

「最終的に金銭のやり取りで決着を付けることになった。これはけもの道から人間の道に戻る近道だなどとも言っていた」

「だれかがカウンセラーの小径でこぼした内容に違いないが、正確に伝わっている」と医師は感心した。

「この騒動で他に被害を受けた者の話はなかったのですか」

 私は記憶を引き吊り出した。

「外科手術を目前に控えた患者が逃げ出した。担当医がひどいショックを受けたと言うことも話していました」

た。

 医師は固く唇を噛みしめた。

 顔も青ざめ、少し震えている。

 彼が関係者であることは疑う余地はない。

 夕暮れている。

 早く医師から解放されたかったが、沈み込む彼を一人残し立ち去ることは気が引ける。

「何があったのですか」と。

 私は落胆する医師に問い掛けた。

「実にひどい話です」

「誰かに相談されたら、たとえばウンセラーでも」

 私は面倒な話に関わりたくない。それでカウンセラーの話を思わず持ち出したのです。もちろん彼が話題にしたカウンセラーの小径という言葉を直感的に思い浮かべていた。

「カウンセラーなんて意味がない。解決策を見いだした気持ちになっても現実の職場に帰った時には無意味になってします。解決策を見出したなど言うのは一時的な気の迷いすぎない。それにしても梢たちも外科の混乱ぶりを聞いたと言う訳か。外科の人間は洩らすまい。外科以外の者から聞いたのであろう。と言うことは病院内のかなり広い範囲で私の話は広がっていると想像した方がよい」

 彼は自分に関する噂が漏れていることに大きな衝撃を受けたようである。

 病院も務める個人も信用を維持するためにも不祥事が外に漏れないようにすることはやむを得ない。だがこのような力が働けば働くほど、梢たちも言っていたが、キャピキャピ男のような横着な連中は横着になっていく。一層、すべてを白日にさらした方が結果的によい場合もある。

「そのキャピキャピ男とは、どのような人間ですか」

「実績や高い能力がある訳ではない。彼の妻が病院のお偉方に近い秘書課で勤務しているということだけで横着になっている」

「それでも夫婦は単なる看護士にしかすぎないはずです。押さえつける方法はないのですか」

 医師は冷静な視線を私に向けた。

 私が彼が期待した以上のことを知っていることに驚いたのである。同時に彼は私が役に立つ存在であると認めた。

「完璧な人間など存在しない」

「彼に弱身を握られているのですか」と聞き返した。

 小さな欠点や失敗をハゲタカのように狙い大騒ぎする輩はいる。彼は、そのような輩であるようである。アラを探せばどんな人間にも小さなアラはある。暇な人間ほどアラ探しをする余裕がある。

「面倒には巻き込まれたくないだけだ。彼のような輩に付き合っている時間はない。無視をするのが一番だ」

「だが、根も葉もないことでも執拗な攻撃を仕掛けられれば、尊厳も維持できなくなる恐れもありますよ。それでも反論はしないのですか」

「彼は返り血を浴びることを覚悟して喧嘩を仕掛けている」

「もちろん承知しています」

「彼らが浴びる返り血より、世間的に高い地位にある私が受ける痛手の方が圧倒的に大きい」と医師は言った。

 梢たちも同様なことを言っていた。

「それにしても他人の家庭を壊し、職場を秩序を壊しても平気な人間が存在するとは信じがたい」

 この感想に対し医師は忠告した。

「世間には色々な人間がいる。人間は同じではないのです。不用心に現実社会を生き抜こうとするとひどい目に会いますよ。このような輩が多く存在するから世間から事件が絶えないのです」

 ずいぶんうち解けた気になったが、周囲は暗くなっていた。

 次の日も遭うことを約束し、彼と別れた。


 寝床に着いて後も気分は休まらなかった。

 自分の身に起きた不思議な体験を考え続けた。もちろん寝床は病院のベットである。

 外科の医師だと名乗った宮城と言う人物のことも考えた。

 年齢は私より年を取っているにちがいない。彼は多くのことを隠した上で私の知っていることを知りたがっている。このままでは空白部が多すぎて全体像が把握できない。


 高揚する気持ちが醒めて、自分のおかれた立場を冷静に分析できるようになった、突飛なことが自分の身に起きていることを改めて認識した。

 自分のことも考えた。

 梢たちの話し声が聞こえるなど普通の他人に話したら、間違いなく分裂病だと断罪される。

 小説家という仕事は、この空白部を想像力で埋めて全体像をあぶり出すのが小説家の仕事である。しかも多くの人が納得する自然な形で空白部を修復していく能力こそが、小説家の能力である。だが今回は事情が違う。この空白部を埋めることが目的でない。病院で起きた出来事を梢たちの声を通じて正しく把握できているかどうかで私が病気なのか、それとも預言者になったのか判断されるのである。

 相手は外科の担当とは言え、病院内の医師である。彼がどのような仮面を被り私に接近してきたかも不明である。白亜の病棟で精神病を担当する医師であってもおかしくないのである。

 彼の言うカウンセラーの小径で聞いた話と病院内で起きた出来事が一致しなければ、制式に分裂病と言う判断を下されかねない。

 一致した時には宮城と言う医師の言葉とおり自分は梢たちから言葉を預かる預言者になることができる。

 それは普通の人間にはない能力である。進化した存在になる。

 すでに平凡な世界には戻れなくなっている。進化した存在になるか、退化した存在に堕ちるかいずれかの選択しかない。

 まずは宮城と言う医師から空白部を聞き取り、自分が精神病ではないと自分自身で自信を持つ必要がある。その上でけもの道、別名カウンセラーの小径で聞いたことを世間に公表しようと思った。

 とにかく宮城と言う医師は話したがらないが、逆に彼から多くのことを聞き出すことを明日の目標にしようと思ったのである。


 次の日の夕方も、仕事を終えクモの巣を払いながらけもの道を抜け出た。

 医師は昨日と同じ椅子に腰掛けて待ち構えていた。

 私の方から話しかけた。

「空白部分が多すぎる。正直に病院で起きた出来事を話して頂けないか」と。

 ところが彼も一筋縄ではいかない。

 私の言葉は聞こえているはずなのに、聞こえぬふりをして、強引に質問をしてきた。

「梢たちの会話を聞くことはできましたか」

「ええ」と私は軽く答えた。

 医師と対等な立場であるように振る舞おうと思っていた。

 彼はうなづいた。

「だが話が断片的すぎて、全体像が描けない」

「仕方がないことだ。梢たちは森の小径を歩く者たちがこぼす日頃の不満を聞き留めて話しているにすぎない。彼らも体系的に真実を組み立てることはできない。話には空白が多いはずです」

 昨夜、寝床で考えたことを思い出した。

 人の心の動きや機微を理解し、梢たらの会話の空白部を埋めることはできるかも知れない。だが今は自分の作家としての能力を試す時期ではない。自分が妄言を聞く精神病患者ではなく、梢たちの会話を正確に預かる預言者であることを証明することが先決である。

 だが医師は違う。

 医師は昨夕、私が小径の梢たちから預かった言葉を通じ外科病棟内で起きた出来事がどれだけ病院内に広がっているか知りたいと告白していたが、彼が私が分裂病に罹患しているか否か診断する診療内科の医師であることも疑えないことはないのである。

 医師は私の疑いを察知し、約束した。

「あなたが小径で聞いたことを話し終えたら、病院内で起きた出来事を教えます。それであなた自身も自分が分裂病に罹患しているかどうかみずから判断できるはずです」

 それでもなおも食い下がった。

「それにしても空白が多い。あなたについて不明なことが多すぎる」

「キャピキャピ男が病院内で言い触らした噂のせいで信用を失い、手術前の患者に逃げられた外科の医師であると言うことだけで十分でないか」と彼は感情をむき出しにして起こった。

 冷静になる頃を見計らい、私は言葉を続けた。

「梢達はあなたと看護士の関係を話していました。キャピキャピ男の欲望と彼が振りまいた噂のせいで家庭を破壊され看護士は、あなたと故郷が同じだった。それであなたは彼の面倒を見ていた」と

「そのとおりだ」と医師は答えた。

「だが理解できない。医師や看護師たち職員は一丸となって患者の治癒に全力を尽くすべきでないか。仕事の邪魔をする輩を放置しておく余裕はないはずだ。本当にあなたがたに非はないのか。彼に弱みを握られていないのか」

 私の強い口調に医師は動揺をした。

 ややこしいことには巻き込まれたくもないが、私自身が病気でないこと証明するためには深入りすることもやむを得ない。

 彼の様子を見つめながら梢たちから聞いた話の空白部を埋めて言葉をつないだ。

「ある若い夫婦の離婚に関する事件が病院を騒がせた。彼らは医師と親しい間がらである。二人の離婚の際にはキャピキャピ男と彼の妻の影響があった。この夫婦が看護士の妻の幸子を追い詰めた。宮城と医師の庇護下にある亭主は長期出張で幸子のそばには居ず、追い詰められた妻の幸子は間男に走った。梢たちの会話にも出ていたが、長期出張を命じた病院側の責任を追及する声も上がった。これがキャピキャピ男夫婦を放逐できない理由になっていないのか」

 と医師に詰め寄った。

 彼の代わりになる看護士希望者は山ほどいる。他にも梢たちは理由を言っていた。

 彼を病院で飼っているのは社会奉仕のためだとも言っていた。彼のような悪辣な輩を社会に出すとどのようなことをするか知れないと。

「病院内で起きた出来事を内部告発されることを恐れているのではないのか。それとも医師であるあなたと看護師であるキャピキャピ男の間には明確に国家が与える資格で責任や社会的地位は約束されているはずである。それさえ疑問の余地があるのか」

 これは国家と言う枠組みを危うくする一大事に繋がりかねない。

 国家の尊厳さえ疑問を投げ掛けている。

「それともキャピキャピ男はあなた個人の能力に疑問を感じているのか」

 医師の表情が苦々しく歪んだ。だがどの言葉に反応したか定かでない。

「梢たちは妻に捨てられた看護士の尊厳についても触れていた。勤務員同士の不倫問題や暴力事案が病院内で起きた場合は本部に報告をするように規則で定められている。ところが、その看護士の場合はしなかった。理由は看護士夫婦と間男の三名の関係、あるいはキャピキャピ男と妻を含んだ五名の関係が不明であり、すべてが判明した後に報告しようと言う約束であったが、約束は実行されなかった。最初から。、ことを大きくせずに内密に処置しようと言う下心も混じっていた。この処置に対し、あなたは強く抵抗した。だがあなたの要求は認められず、かえって病院内で孤立することになった。このことでも、あなたの尊厳な著しく損なわれた。その時、例の患者脱走事件が起きた。さらにあなたの立場を悪くしたのは、その脱走患者は警察の手で保護された。だが保護された患者に対しなされたキャピキャピ男の工作である。今度は彼は、脱走者に対し病院側が被った不利益を説明し、それでも許すと温情的な対応を見せた。それが脱走患者を一層、追い詰めた。そして患者は自殺未遂に追い込んだ。だが温情的に接した彼には表面的には罪はないのである。それにしてもひどい話である」と最後に私は感想を述べた。

「あってはならないことだ。許せないことなんだが」と言う医師の表情は曇っている。

「それにしても周囲がキャピキャピ男の存在を許す理由は何であろう」

「居心地の良さだ」と宮城は付け加えて続けた。

「私もけもの道から逃れようとしてきた。ある時はイエスの力に縋ろうとした。ある時は人生を空しいもので欲を出してはいけないとする釈迦の教えにすがろうとした」

 これは彼自身がけもの道から遠ざかるために苦闘と内面の苦闘を告白する言葉である。人が生物である以上、誰もけもの道から逃れることはできない。妥協し抑制して生きていくしかないのである。

「人間は皆、そのようなものです。同じ煩悩や欲望を有しているのです」と慰めるつもりで繰り返した。

 医師が、最初に説いた人間は同じでない。想像を絶する卑しい輩や、危険な輩も存在する。油断するととんでもない目に遭うと言う人生観や人間観とは相容れない主張であるはずである。だが彼は反論しなかった。私の主張を受け入れた訳であろう。彼が主張することと私が主張することは違うが真理であることには間違いあるまい。

「ですが。人間が社会を造り、それを維持するためには互いに制御しなければならないのです。彼の行為は度を超している。不倫の末に地獄に堕ちた十二号室と十三号室や開かずの間に閉じ込められた幽霊の追い出し、今度は自らの欲望を満たそうと仕組んだ罠で妻を間男に寝取られた看護士と彼の保護者の医師の追い出しにかかっている。彼には社会的規範などない。もちろんカウンセラーが欲しいと叫んでいたが、それも彼には不必要だ。彼に必要なものは隔離する施設だ」と言い、彼は考えてもいけないことだと彼は繰り返すだけだった。そしてキャピキャピ男への攻撃を続けた。

「職場は神聖な場所でなければならない。人間固有の知性が求められる世界である。彼はそこに人間のもう一つの特性であるけもの特性を持ち込んだ」

 防止する方法はないのかと尋ねようとも思ったが、キャピキャピ男を放逐する以外に解決策はないことは見えている。無意味な質問だと言葉を飲み込んだ。

「諭しても耳を貸そうとしない」

「それなら彼を追い出すしかない」

「それはできないと、あなた自身が言ったはずです」

 彼は私の予想とおりの答えを口にし、話を振り出しに戻してしまったのである。

「間男と幸子の心の動きを知りたい。法廷での二人の証言は入手できないものだろうか。キャピキャピ男の影響を握ることで彼に突き付けることで彼を追い詰めることはできるかも知れない」

 これは宮城という医師の最後の望みであった。

 他人が干渉することを許されない個人的な世界である。

「それよりあなた自身が第三者でなく、関係者であると宣言したらどうですか」

 これは彼が一看護士であるキャピキャピ男から侮罪された世間に示すと言うことにほかならない。

 医師の表情が曇った。

「あなたは法廷で自分自身にまったく非がないと主張できますか。泥仕合になるだけですよ」

「騒ぎを収める何か良い方法はないのか」と私は、これまでの経緯を思い浮かべ自問した。

 私が自問している間も、彼は表情を変えず、視線を暗くなったカウンセラーの小径の方に向け凝視していた。彼の思考はめまぐるしく駆けめぐっていた。

 私は口を堅く閉ざしたまま立っていた。

「逃げることにしようか」

 突然、彼が洩らした言葉である。

 その時の彼の表情は明るく輝いていた。

 印象の良い言葉ではない。耳を疑い聞き返した。

「逃げる」

「そうです。姿を消すのです」

 それでも私は彼の言うことが、解決策に繋がるとは思えなかった。

「周囲に自分の価値を分からせてやるのです」

 彼は自信を取り戻していた。

「突然、どうしたのですか」

「あなたのお陰ですよ」

 自分は彼の決意に示唆を与えたつもりはない。

「私が身を引くことが騒ぎを収める良い方法です。あなたが騒ぎを収める良い方法はないかと自分のことのように自問した時に、この問題が、私の問題はなくあなたの問題のように思えて冷静さを取り戻すことができた」

 これもカウンセラーの効果かも知れない。

 宮城はカウンセラーの効果は期待できないと否定的であったが、彼も気付かないうちに私をカウンセラーにしてしまっていたようである。でも、これも非難する価値もない些細なことである。

 しばらくして彼は病院から姿を消した。

 もちろん正規の手続きを取っての移動であったが、彼がいなくなって外科は混乱した。外科での彼の立場が再認識されたのである。 キャピキャピ男のキャピキャピ男のその後の態度は変化があったかと言う疑問に答える必要があろう。

 勧善懲悪を求める読者諸君は彼が病院におれなくなり、退職して惨めな生活を送っていると書いてもらいたいと願うところであろう。ところが現実はそうはいかないのである。

 彼は宮城と言う医師が姿を消したことで、自分のせいではないと、はしゃいでいた。彼に対する世間の評価は待たねばなるまいと思っていた。

 ところが病院全体の反応が思わしくないと悟ると、態度を豹変させた。そして、今では静かにしている。言葉を変えると今はみずから謹慎中である。もちろん心から本気で反省している訳ではない。周囲の風向が変われば仲間を増やし、再生するにちがいない。その時は一層、打たれ強く成長していることであろう。もちろん責任や罪を認めることは厭であるから彼の仲間になった者は容易に足を洗うことはできない。

 私は姿を消した医師との最後の会話を思い出している。

 人も動物です。ある時期には誰でもけものになった体験をしているはずです。人は完璧ではありえない。ですから許容範囲を広くするしかないのですと彼は言い、私は法に従い行動するしかないのですねと言った。それも世間の常識に従うしかないと応えた。

 それに対抗する宮城の人物が現れるかと言うと、これも不思議なことに現れるのである。そして永久に双方は争い続けるのである。

これは私が思い描く将来の病院の姿であるが、人間社会とはそのようなものである。


 病院内の騒動に巻き込まれて尊厳を失った上で、去ってしまった医師を患者二十一号と呼ぶことにする。

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