第14話結末(患者十八号と患者十九号)

「今日はいよいよMとの面接の日ですね」

 しわがれた声で女医は確認したが、その声は、いつもよりしわがれている。

 彼女の声には緊張と恐れが混じっている。

 彼女だけでなく、この病院に勤める医師がMの名前を口にする時に一様に緊張感が漂うのである。

「Mと会話をすること自体、大変なことなのです」

 私がMの面会を前にのんきに構えていると目に映ったのである。彼女のオロオロと緊張する姿は私も緊張してしまうほどである。

「私はMと言う人物について知らない」と私は訴えた。だから緊張しようがないのである。

「実は私をはじめ、この病院の誰もMのことを知りません」

 私は愕然とした。

 まともに正体も知らない相手に緊張することが亜るんおであろうか。私の心境に気付き、彼女は答えた。

「それが人間の本性です。親しげに近づく者には軽蔑の念を抱くことがあっても、正体不明の存在には畏れや尊敬の念を抱くのです」

「何らかの噂でも構いません」と私は哀願した。

「以前、話したことを話すことにMの許可は必要ないでしょう」と言い、彼女は話し始めた。

「患者五号、すなわち天に唾する男の時にMの噂について話したことがあります。覚えていますよね。患者五号は最初は医者として病院にやって来ました。ところがAとの様々な争い後に、彼は天に唾する反逆者として悪名を一身に受けた末、病室に監禁されることになったが、嵐の夜にその監禁された病室から姿を消した。その後にMは病院に勤めるようになったのです。Mが病院に落ち着いて、しばらくすると、Mは患者五号にちがいないと言う噂が立ったそうです。それに黒いマスクを被っていますが、火災に遭い、大やけどを負ったせいだ言う噂もありました。しかも火が出るはずもない場所から火が出て、不審火ではないかと疑いがあったようにも聞きます。最後にこれがもっとも信憑性のない噂ですが、彼には人を呪い殺す力があるのではないかと言うことです」

「噂とはいえ、人を呪い殺す力があるなどとは穏やかではない」と女医の話に水を差した。

「もちろんです。彼は病院に訪れた時の彼の役割がカウンセラーと言う雇い入れれたですが、そのカウンセラーの最中で憎む対象はいないか確認していたと言うことです。対象者が存在し、二十年前の若い医者を謀略で発狂に陥れた人物に重なると、その対象者は行方不明になってしまうのです」

「若い医師は、もう一人の同意者を求めて復讐を果たしていると言う訳ですか」

「そうです。そのためにMが患者五号である。患者五号にされたYが帰って来たのだと噂が立ったのです」

「証拠があるのですか」

「ありません」

 と女医は簡潔に否定した後に続けた。

「ただ患者五号を謀略で葬ったAたちが病院から姿を消していくにつれ、病院は患者五号が望んだ姿に変わっていったのです」

「どのように変わったのですか」と患者五号の話を聞いた時と同じことを女医に聞いたが、女医はふたたび拒絶した。

「Mから止められています。その件はMから話すなと止められています。ただ言えることはMが隠然たる力と影響力があるから病院の体制は今の維持できます。そしてこの体制こそ患者五号の夢見た病院の姿であることから、Mは患者五号であると私のように古くからこの病院に勤務する者は信じているのです」

 その言葉を最後に彼女は堅く口を閉ざした。

 彼女が去って、すぐにMが診察室に入って来た。

 彼は女医から聞いたとおり黒いマスクをしている。

 痩せていて背が高い。

 彼も白衣を着ている。ただ異様なことに黒いマスクを頭からスッポリ被っている。

 真実は不明だが彼が大やけどを被い、その後がケロイド状になって残ったせいで顔を隠すためだと言われているが定かではないと女医は言っていた。結局、誰も彼の素顔を知らないと言うことが正しいようである。

 私は緊張し、思わず立ち上がり深く会釈をした。そうしなければならないと言う感覚であった。

 彼は私の横を通り過ぎ、いつもは医師が腰を掛ける椅子に腰を下ろした。

 実は先週のことであるが、Mから予定を変更すると直接電話があった。

「あなたを雇うことにする」と言う電話であった。

 これで私の再就職先は決まったのである。

「研修は患者十七号で終わるのですね」と今後の予定について確認をした。

「そうです。でもあなたの採用の最終の可否は私が行います」とMは応えた。

 

 用意された部屋に通された。ドアを開ける時、思わず間抜けた挨拶をした。

「こんにちは」

 聞き覚えのあるしゃがれ声である。

 マスクの奥には二つの目を好奇の目で見つめた。マスクに阻まれた表情からは彼の心の動きを読み取ることはできない。目の変化から察知するしかない。私の視線は自然に黒いマスクの中に潜む目に吸い込まれていくのである。

「年齢は」

「五十五歳になりました」

  緊張は極度に達していた。胸の動機は激しく膝の上で握る拳には汗が滲んでいた。

「家族構成は」

「妻と子供一人です」

 単調な会話であるが、強い力で彼の世界に吸い込まれるような気がするのである。

「この病院には何種類の人種がいるか知っているか」

 私は「否」と答えた。

 眠気が襲ってくるが、必死に戦った。

「殺したい思うほど憎む人はいないか」

「正直にある」と答えた。

「死ねと激しい呪詛の叫び浴びせたい人はいませんか」

「いる。だが自殺幇助などと訴えられることを恐れ思いとどまりました」

「正直ですね。よいことです」

 とMは私を褒めてくれた。

「ところで私には毎晩、訪れて来る者がいます。過ぎ去った過去に味わった憎悪や後悔の気持ちです。ところが、憎悪の対象者や後悔の出来事がはっきりしないのです。まるで実体のない記憶の空洞のようなものです。しかも目覚めた時にとても幸福で甘美な気分に包まれるのです。それに少年時代を過ごした故郷の小さな路地や海や川の風景が突然、夢に現れることもありますが、胸を掻きむしられるような甘酸っぱくせつない気持ちになります。そんな気分になることはありませんか」と、Mは私に聞いてきた。

「ありません」

「そのような夢を見たときには憎悪の対象も後悔の理由も不明確なままです。実体などありません。故郷の夢や、せつなくなり密かに訪ねることもあります」

 Mはマスクの中の目を閉じているので、反応はうかがい知ることはできない。

「四十年前の友人から手紙が飛び込むこともあります。でもまだ彼らに会わせる顔がないと恥じ入っています」

「自分の歩んだ人生が納得できない。それこそ不幸というものです。納得するしかないはずです。後悔しても何の意味もありません。せめて残り少ない時間を生き直すのです。あきらめるしかないのです。老いは確実にしのびよってきます。それはこれまでの人生の過程に関わらず、一切の容赦はしません。次第に記憶力も体力も衰えていくだけで回復することも元に戻ることもありません」

 Mは私をたたみ込むように言った。


「道義と法はどちらを優先すべきと思いますか」

 答えに窮する質問である。

「法も大事だが、生きるためには道義も大事だ」と答えた。

「道義とは何ですか」とMは聞いてきた。

「法の隙間を埋めるもので、人間として守るべき道です」

「法に隙間はあるのか」

「どのような世界にも隙間がなければ息が詰まる。それを防ぐために隙間の存在を許している」

「それでは法とは何だ」

「国会で政治家が創るものです」

「大事なことを聞く、法と病院の規則はどちらが大事だ

「もちろん法が大事だ」

 Mのマスクの奥の目がかすかに動いた。好意を抱いたのか悪意を抱いたか判別できない。ただ鋭く光った。後日、例の女医から冷たくあしらわれた。身近な世界の規則に従わねば仕事はありません。給料を貰えなくなります。生活もできなくなっていきます。

 彼女の言葉に、私はMの期待した答えを返さなかったことに気付いた。

「どんな場合でも法を守るべきだ。破るべきでないと主張されるのですか」と彼はくどい言い回しで私の考えを確認した。

 禅問答のような会話を繰り返した。私は激しい眠気と戦いながら、そうだと私はMの質問に答えたような気がする。

 Mの顔が非常に歪んだように思えた。私の回答が彼の気に障ったようである。そう思いながら、昏睡状態に入った。

 目を覚ました時には目の前にMの姿はなかった。代わりに椅子には例のアンバランスな化粧で装う女医の座っていた。数週間前に会った時よりは、いくぶん化粧法は改善されているが、まだ奇妙に見える。


 Mとの面接が終わり、数週間後に勤めを開始することになった。

 再就職の日は、私は家族に見送られ、門を出た。家族ももちろん祝福したいた。なにしろ今日が第二の人生の幕開けとなる日である。あらたな生計を得ることは家族の生活の糧を得ることである。

 患者十七号について聞いた時が最後の研修であった。そしてMの面接を受けた。

 Mの面接が、病院に雇用をされるか否かを決める試験になるはずであった。

 それから一と月が経っていた。

 一月ぶりの病院訪問となる。

 もちろん勤務できるつもりで出掛けてきた。

 ところが、例のドラえもんのような体格の女医と二名の屈強な看護士が白衣病棟の入口で私を待ち受けていた。

 二人の看護士は突然、私の脇を固めた。

 もちろん私は何が起きたか理解できる訳はない。ただ驚いた。

 きっと鳩が豆鉄砲を食ったような顔だったにちがいない。

 私の正面に立つ女医が憐憫の表情を浮かべていた。

「少し治療した方が良いでしょう。正常な社会生活を送るには正直なだけでは困難です。装うことを覚える必要があります。あなたには、それが欠けているようです」

 すぐには理解できずに、呆然と聞いていたが、かろうじて言った

「再就職するために、研修を受けていたはずです」

「そうでも言わなければ軽い症状の患者が、病院の門を潜ることはありません」

「何かの間違いです。作家仲間の紹介で再就職の候補として、研修を受けに来ただけです」とむなしく繰り返した。

「今のままでは再就職は不可能です。まず装うことを学んで下さい」

 私は、不器用に化粧を施した女医の顔を見つめた。

「Mの許可もありましたので話しましょう。この病院のシステムに気付きませんでしたが、それが重要です。あなたに話をした者は医師ではありません。みんな軽度の病いを抱えた患者でした。中には患者本人が自己の病歴の話をした者もいます。患者一号、患者二号、患者三号、患者四号たちは、すべて本人の話を医師の役で演じたのです。それに気付かないあなたは洞察力が不足し、装うということを理解しないと判断したのです。でも退院する私のことを悪く思わないで下さいね。いつかあなたに忠告したはずです。この病院に勤めることがあったらMの指示に絶対に従うようにと。それは法を守る以上に大事なことです。この病院では日本の法律以上にMの言葉が優先されるのです」

 女医の最期の言葉は耳に入らなかった。あまりのことに途中で思考は止まってしまったのである。

「彼らが患者か」と口の中で反芻した。

「ええもう退院しましたが、彼らがあなたを騙すことで、一般社会で生きていくために必要な装うと言うことができるか否か判断する卒業試験に合格したのです」

「でも白衣を着ていました」

「それこそ患者五号が考えたシステムの大事な部分です。彼らは医師を装っていたのです。そして見事によそおい、演じきったのです」

「重度の患者は青いパジャマ。軽い症状の患者は白い看護服。そして医者や看護師は緑色の看護服を身につけるのです」

 私は呆然と目の前の女性を見つめた。

「あなたも患者だったのですか」

「そうです。でも今日、退院できます。あなたを欺しきることで私の演技は完成したと認められたのですわ」

「これまで私の再試験を受け続けてきたはずです」

「最初は、そうでした」

「でもあなたはMとの最後の面接で大失態を演じたのです」

 私は彼女が言わんとすることを理解できず、無言になった。

「お気づきにならないの」

「あなたは病院の規則より法律が大事だと応えたのです」

「それが気に食わなければ、採用しなければ良いでしょう」

 女医であったはずの患者はフフと鼻で笑った。

「後は自分で考えて結論を出すことね」

 私はめまぐるしく考えた。

 そして、

「口封じをするつもりか」と

 思わず叫んだ。

「それがいけません」

 と女医は言って、後は自分の運命を祝福した。

「Mは他の患者と一緒に私の退院を許してくれました。病院を出るのは数十年ぶり。一体、外の世界はどのようになっているかしら。楽しみだわ。でも退院をする私を恨まないで下さいね。以前、絶対にMには逆らわない方が良いと忠告したはずです。Mの存在は方より道徳より、この病院では絶対的なのです」と彼女は叫んだ。

「最期に、もう一言、助言をしておくわ。あなたはこの病院に収容されている者たちを異常だと決めつけていたわ。でも視点を変えれば、外で生活する者の方が異常だわ。やがてあなたも逆転するはずだわ。でも恥じることはないの。歴史上では幾らでも現実に起きていたことなのよ。幕末の尊皇攘夷に狂う志士をたちを時の権力者である幕府側どのように見たか御存じか」

「犯罪者であり、狂人だと体制側にある者は決め付けたはずです」

「そのとおり。でも後世の人はどう。彼らの血こそ維新の大事業を完成させた、それこそ英雄よ。彼らの生き方は五十年後、百年後の若者の心を狂わせたのよ。これで物語を終わりにしましょう。なにしろ話をする者は残っていないわ」

「でも患者十七号までしか書き綴っていません。これはMの希望に背くことになります」と私は彼女が畏怖するMの存在を人質に必死にあがらった。

「大丈夫です。治療が終われば書き続けることができます」

 私はその後の自分が辿るであろう運命を考えることなく、これまでの物語の整理もできず、混濁しきっていた。

 女医は満足げに声を上げて笑った。

「私が笑う意味を教えましょう。まずあなたがMの希望を最優先して考えるようになったことがうれしいわ。これまでの私たちの躾が実を結んだと言うことにほかならない。次に私が笑う他の理由は、私があなたより優れた存在であると気付いた満足の笑いよ」

 ますます私は混乱した。

「私が患者十八号です。そしてあなたが患者十九号になるのです」と彼女は宣言した。

 これまでの物語で、目の前の女医が「私をつかまえて」と自己主張する患者六号が彼女ではないか、あるいは古い二十数年前にAと言う若い医師に弄ばれ、ひどい目に遭った女性患者ではないかとも疑っていた。だがすべて彼女ではない。彼女も単なる患者に過ぎなかった。

 それはMの正体にも通ずることである。

「天に唾する男」と不名誉な呼び名をもらい、嵐の夜に隔離をされた部屋から姿を消した患者六号こそが、マスクをかぶり医師の人事や経理、患者に対する治療法などをあらゆる分野で病院を裏で操るMの正体にちがいないと信じていた。患者六号とMの思想や人生観などまったく相反するが、直感的に患者六号が病院に舞い戻りMになった言う伝説が正しいとも信じていた。

 それにしても、この女医を装う患者十八号が反復横跳び男に対してあからさまに示した憎しみの理由は何であっただろうか。

 第三者の私までが身震いするようなあの激しい憎悪は同性に対し、ひどい行為を行った男性に対する敵意にすぎなかったのであろうか。

 反復横跳び男こそがAであり、Yの患者であった若い女性患者を孕ませ、担当医のYを破滅の淵に陥れた男ではないのか。そしてこれまで女医を装っていた目の前の女性こそ、現在の姿ではないのか。そしてMの正体をかってのYであると言う神話的な想いは、後日、冷静さを取り戻した者たちが、Yに対する謝罪の気持ちと彼の仕返しを恐れて作り上げた神話ではないの。Yをこの病院の人々は神に祭り上げてしまったのである。そしてYと同一視される、正体不明のMのカリスマ的な強さの根拠ともなっているのではないのか。

 

 女医は私の想像することを見抜いた。

「Mの正体や私の過去を詮索するにもあなたの自由ですが、時間が必要でしょう。そのためには患者十九号はあなた自身であると認めた上でも、この病院に留まるのが一番、良い方法です。それに一番、大事なことを教えておきます。この白衣病棟は心療内科ではありません。精神病棟です。収容されている患者には強い妄想をともなうひどい症状を呈しています。ですからあなたは心療内科の病棟に収容される訳ではないのです」

 心療内科と精神病の区別をする専門的な知識など持ち合わせていなかった。だが自己の病が精神病だと告げられたのである。大きな衝撃的を受けた。だがそう言い残すと彼女は診察室から立ち去った。

 私は呆然と彼女の後姿を見送った。その時、始めて自分がとんでもない世界に閉じ込められたことに気付いた。

 彼女が姿を消すと、マスクを被ったMが私の前に姿を現した。

「孫文になった患者一号も河童を信ずる患者二号も力学の三法則を信奉する患者三号もすべてあなたの中に存在するものではないですか。それだけではない。患者一号から患者十七号までの人格を統合し一人の人格とした時に、それはあなた自身の姿になるのではないですか。そしてそれはあなた御自身の人生であるはずです。言い過ぎかも知れません。言葉を変えましょう。一部はあなたのこれまでの人生で見聞してきたこと含まれているはずです。あなたが間男になったなどとは言いません。でも翻弄される経験をしたはずです」

 Mの言葉は厳しいが、私に対するれんぴと同情の感情が溢れていた。

 彼の言葉を聞いているうちに、胸の中に熱い感情が充満したかと思うと、それは喉を通過し、やがて痙攣させ、、嗚咽を引き起こした。

 Mは無言で見守っていた。

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