第9話間男(十二号と十三号)

「自分もいつかはなりたや間男に」

 男の声音である。

「あら嫌だ。世間様に顔向けが出来なくなるわ」

 女の声音である。

「それでも構わぬ。他人の人生に自分が生きた証である足跡を残したい」

 男の声である。

「何と言う理不尽な」

 女の声である。

 彼自身が女性の声を真似た高音域の裏声で歌い返してくる。

 廊下から長く伸びる不思議な歌舞伎のような節で唄う声がする。女の声音を男が真似ているが、先の男性が声音を真似ていることは、明白であった。

 いきなりドアが開くと、高齢でよぼよぼの医師が部屋が黙って入って来た。

 突然に姿を現したのである。乱入と言った方がふさわしい現れ方である。

 高齢のせいであろう。着ている白衣も他の医師の白衣と同じであるはずだが、よれよれで汚らしく見えた。

 彼は部屋に入るなり、いきなり私に聞いた。

「古い謡曲の一つに、このような詞はありませんでしたかな。実は私は謡曲を聴くのが唯一の楽しみなんです」

 突然、姿を現した老医師を椅子に座ったまま、私は呆然と見上げていた。もちろん彼とは一面識もない初対面である。しかも謡曲など聴いたことはないので返事のしようもなく、あいまいに私は小首を傾げるしかなかった。

「それにしても人間という生き物は年を取っても異性に対する煩悩は消せないようである。かえって年を重ね、命の炎が燃え尽きるまでの時間が短くなればなるほど、煩悩の炎は怪しげに燃えるようにも見える。この世には雄と雌しか存在しないようだ。不思議な世界を神は造ったものだ。」

 こう語る時の老医師は遠くを見るような目つきであった。もちろん彼が私と対面している部屋は、狭く彼の目の前には白い壁があるだけであるが、彼の視線は遠くを見る目付きである。同時に遠い過去を回顧しているのであろう。

「あなたは若い」と彼は話題を変えた。

「五十を超えています」

「それでも私から見れば若く見える。まるで青年のようだ。この種の話を若いあなたに話すことはどうかと思うが、恩人のMの頼みだから話す」と言った。

 Mとの関係において、これまでの医師とは明らかに異なる。

「なにしろ、ご覧のようによぼよぼの私でも、この種の男女の話を聞くと、ついつい心が乱れしまうこともある」と告白し、「今日の主人公は三名です。一人は四十歳に近い男。彼は患者十三号となる男です。彼には子供もいます。もちろん長く連れ添った妻もいます。それに二十歳を過ぎたばかりの若い女性です。彼女が患者十三号になる女性である。そして彼らに翻弄された一人の会社経営者。彼は患者十四号としておきましょう。今回の話しには他にも多くの関係者がいます。患者十四号の一人息子で副社長をしていた人物。それに百名近い社員です。患者十三号の両親、彼らはいずれも患者十二号の一人よがわりの欲望のために人生を翻弄された被害者と言って過言ではありますまい。それに私立探偵です。彼の活躍のおかげで、今回の事件は解決できたのです」

 緊張をしている。あまり話し慣れはないようである。実は老医師は手に持つメモを読み上げたのである。

「話の発端は患者十三号の主人が社命で長期出張に出掛けたことから始まります」

 ここで老医師は口ごもった。そして沈黙してしまった。

 そして苦しい状況を打ち明けた。

「さて、どこから話したものだろうか」

「順を追って話したらいかがでしょうか」と助言をした。彼は私の助言に受け入れてくれたようである。

「彼が出張して二人の間がなれなれしすぎると言う噂が立ち始めたのは三カ月ほど経った頃のことです。もちろん会社内で仲が良いことはいけないことではありませんが、度を超したなれなれしさは他人の目につきます。二人の関係が一挙に会社の中で問題になったのは、それからしばらくししてからです。二人が車でラブホテルに入るのを見かけたと言う噂が広がったのです。もちろんデッチ上げかも知れませんが、この種の噂話は他人の口を介しおもしろおかしく広がるものです。まさしく真相は藪のなかです」

「ところで会社とは、どのような会社だったのですか」と私は老医師の話を中断するのは悪いと思いながら聞いた。

「百名規模の小さな会社です。でも成長が期待される会社で、社員も若い年齢層が中心です」

 なるほどそれでは噂が広がるのも無理はあるまいと思った。

「風紀の乱れが目立つようになった」

「風紀というと」

「最近では聞かない言葉ですか。端的に起きたことを言うと、休憩室の片隅に目を覆いたくなるような男女の交わりの様子を写す写真が張られるようになったようです」

 と老医師は解説した

「事件や事故は起きなかったのですか」

 私は苦い経験を思い出し、同意できないでもない。異性のことを考えて仕事に集中できなくなると事故が起きないとも限らない。

「まだ、そこまでは乱れなかった。だが誰も写真をはがそうとする者もない。批判の声を上げる者もいない」

「うがった見方かも知れないが、この種の写真を張られたことで職場内の風紀の乱れと危惧するのではなく、男女の本来の関係はこの写真のとおりである。夫婦などと言う関係も国が法律で定め、保証する関係にすぎない。人間も動物であり、この現実を納得することで救われると言う意図があったと解釈することは無理がありますか」

「少なくとも経営者は、そうは受け取らなかった。退廃的であると解釈した。彼もあなたが指摘したとおり会社の若者が仕事に対する情熱や集中力を失い、業務上の事故が起きることを危惧した。彼の会社は海外への長期の出張をする機会も多い。留守間の妻の不貞に不安を抱いたままでは、仕事に集中できないこともあり得る」

 老医師は説明した。

 噂話が内容的にも具体的なものになってきた。社内の友人の口を通じ出張中の患者十三号の主人の耳にも達したようである。国内にいる彼の父親からも確認の電話が経営者に寄せられた。社長も個人的な関係であると放置できないと見かねていた頃であったらしい。

 やがて患者十四号として登場する社長も若い社員心の乱れが業績や事故に直接、影響しかねないと危惧して頃である。

「社長も放置できないと、息子の副社長に二人に注意をするように指示をした。その頃には二人は社内で完全に孤立をしている様子のも見えた」

 噂の強弱には波長があった。

 二人の関係が頻繁に社員の噂になる時とならない時期がカーブを描き、毎日が過ぎていくのです。忘れかけた頃に新たな目撃者が出現し、社内での噂は最高潮に達するが、時間が経つと静まるという具合である。だが噂の内容が次第にエスカレートし、目撃したと言う証言が頻繁に寄せられるようになってきた。

 社長として対応をすべき考え続けていた。孤立していたとは言え、仕事の面では二人に落ち度はない。

 放置してはおけないと判断した彼は、息子の副社長には男と話しをさせ、女の方とは自分が話すことにした。

 男は噂になっているように関係ではないと女との関係を認めないばかりか、噂に迷惑をしている、噂が広がるのを防止しろと訴える始末である。

「当然の答えであろう」と私は感想を述べた。

 みずから不倫関係を認めるなど、考えられない。姦通罪がないとは言え、今の時代でも身の破滅に結びつきかねないことであると覚悟せねばならないことである。双方とも互いに配偶者を裏切っての行為であり、双方の配偶者に対する慰謝料も考えねばなるまい。

「女性の方にも確認したのですか」

「それは社長が確認したようです。女は取り乱し、泣き崩れて男との関係を否定したと言うことです」

 老医師はひどく用心深く付け加えた。

「実は、女性は新婚生活に入ったばかりだったのです。まだ結婚して半年も経たない時期でした」

 彼の言葉に大きな衝撃を感じた。

「そのような時期に長期出張を命じたのですか」

 新婚生活に入った時期と言えば、まだ夫婦関係も微妙な時期である。人間は動物である。男は雄であり、女は雌である。当然、生理的に女は満たされないまま放置された形になる。そこに間男がつけ込んだのであろう。

「本人の希望です。彼は自信満々で希望したのです」


 その頃から、二人は誰が諫めても耳を貸さないようになった。

 二人がいつから男と女の一線を越えたかは明瞭ではないが、その頃には男と女の関係になっていたにちがいない。

 一線を越えた二人は欲に狂う獣になったように思えた。逢う背を重ねた。破滅を覚悟して自暴自棄になった上だったかも知れない。老医師の言葉に耳を傾けながら結論づけていた。

 老医師は私の顔をのぞき込んだ。彼は私の心情を読み取ったように見えた。

 以前から二人の関係に注意は払っていたが、対処すべきか迷い続けていた。なにしろ個人的な問題である。二人とも成人した大人である。男女間のトラブルは民法で裁くしかない。姦通罪はないのである。姦通罪があれば、二人を交通ルールに違反した者に対するように告発することも可能である。

 だが男はデッチ上だ。謝罪させよと要求してきた。名誉毀損で会社を訴えてやると息巻き始めた。

「女の方はどうですか」

「いつも、いきまく男と一緒にやって来ました。彼の陰に隠れていました。彼に頼り切っている姿を見た時、二人は出来ていると確信しましたようです」

 だが確固たる証拠がない。もし二人が不倫関係であると証拠があっても、打つ手はない。個人的問題だと開き直られたらお終いである。

 同時に社員の方からは不義を働く二人を会社から放逐せよとを詰め寄られた。

 双方の板挟みになったようである。

 二人に翻弄されたと言うべきだろうか。

「会社としては迷惑この上ないことですな。会社は民事訴訟で二人を訴えることはできないのですかね。相手も法的な処置を言い出したのですから」

 憤り感じ言葉を差し挟んだ。

 現在は戦前と異なり姦通罪などは存在しない。だが国は一組の男と女が夫婦と言う特殊な関係を構築することを法的に保証してい。たかが紙切れ一枚かも知れないが、正当な理由なくして破壊する行為を行う者に対し国は、それなりの処置を講じてくれないのか。あるいは良俗秩序を乱し、会社を危うくする存在を放逐できないはずはない。探せばどこかに根拠にできる法が存在するはずである。

 私立探偵を雇い二人が不倫関係であるという動かぬ証拠を集め法廷に持ち込み、二人を解雇しようと決意した矢先に一通の手紙が届いた。

 その手紙が社長の決意を根底から揺るがす原因になった。

 息子と患者十三号になる若い女が連れ込みホテルの前にいる姿が写る写真が一枚が同封されていた。もちろん差出人不明です。筆跡も残していない。手の込んだ仕掛けだと思いながら、息子が呼んだ。息子は謀略だ、罠にはめられたと否定しただけで多くを語らず、その夜のうちに遺書も残さず首を吊った。

 こう語る医師の顔は苦悶で歪んでいた。口調に当事者にしか思えない感情的な激しさを感じたのである。

 話しの途中から目の前の老医師と経営者が同一人物ではないかと疑い続けていたが、この疑惑は一層、強くなった。だが彼が白衣を身につけて居るということと、社長が患者十四号であると言う先入観が思考の広がりを制御した。

 副社長の年齢を聞いた。

「息子は五十歳ぐらいだった」答えた。

 私と同じぐらいの年齢である。

「どのような事情があったか知らないが、そんなに簡単に死ねるものだろうか」と頭を傾げて反芻した。

あるいは死なねばならないほどの事情があったのであろうか。もし二人が関係をしたとしても、女はそんなだらしない女だと切って捨てればよい。百名近い社員を擁する会社の副社長である。おそらく次の社長に就任するのは間近であったにちがいない。

「彼女と関係をしたのですか」

 老医師は表情を苦しそうに歪め否定をした。

「そんなはずはなかった。罠にはめられたと言い残した。その言葉を信じている」

 と言った後に、彼はあわてて追加した。

「すべて患者十四号から聞いたことである」と。

「それでもホテルの前に一緒にいる所を写真に撮られたら、関係をしたと疑われても仕様がありません」

「息子は、いや彼の息子はあなたぐらいの年だった思います。若い女性とそのような関係になることを望みますか」

 彼は逆に質問してきた。正直に答えることに羞恥心を感じて躊躇しているうちに彼は、私の答えを待たず結論を出した。

「とにかく副社長は不倫騒動の巻き添えになったです。彼がこの騒動に巻き込まれた、ひどく疲れていたのは事実であった。悪い奴が感じない疲労感や良心の痛みを善人である彼は感じていた」

 たしかに一理ある。凡人は日常生活の中でも感じることにちがいない。

 悪い奴には人間的な良心の欠片もない。だから精神的な痛手を受けることなく、しぶとく生き残ることができるが、良心の欠片が残る者は苦悩しなければならない。そして結果、翻弄され、みずから命を絶つ道を選ぶこともある。

「自分もいつかなりたや間男に」と

 彼は不思議な節の唄を口ずさみながら部屋に入って来たが、このような些細な欲望を覚えることさえ善人は心の中に葛藤を生じ苦しめむことになる。

 私は自己の思索の世界に閉じ籠もった。一方、話すことを中断した老医師は険しい視線で目の前の白い壁を見詰めていた。

「何者が、どのような目的で送ってきたのかも不明であるが、目撃情報だけでは証拠にならないと言うことを示唆するつもりだったかも知れない。だが一番に可能性があることは憎むべきあの男がこちらの意図を察して牽制するために仕組んだ罠である。とにかく息子は死んだのだ。いや患者十四号の息子は死んだのだ」

「患者十四号にとって跡取り息子を失ったことですべて終わった訳ですか。会社のことはもちろん人生も。おそらく一人息子であり、社長の唯一の家族だったかも知れない」

「そうです」

 しわくちゃになった医師の目には涙が滲んでいるように見えた。

「彼にとって後の話はどうでもよい。だがMから、その後の間男や間女が辿った運命をあなたには話すように言われているので簡単に話すことにする」


 それにしても他人の不倫問題で自殺すると言うことが論理的に理解を得ることができるだろうか。一般世間に通ずるのだろうか。

人が自らの命を絶つ時には明確な動機がないことの方が多い。ボンヤリとした不安で自らの命を絶った作家もいた。自らの命を絶つ行為は人間以外の生物ではない。人間特有の複雑な感情や動機の存在で死を選択するはずであるのである。それは過去のトラウマであったり、社会的な重責に堪えきれず死を選ぶ人も存在しよう。社会に嫌気がさした厭世感に苛まれた時に社会的に重責が加われば、発作的に死を選ぶこともあるかも知れない。

 副社長が死を選んだ理由を考えていると、言葉が無意識に唇から漏れた。

「彼の死を社長は例の男女のせいにしたのですか」

「そう言うことだ」と老医師は迷った末に答えた。

「息子の死を二人の不倫のせいにするには論理的に無理がありすぎはしませんか」

「論理的な問題では片付かない。だが息子は二人の獣ような姿を見て人間社会に嫌気がさした。厭世的な気分になった。そして衝動的に死を選んだ。大事な息子の命を奪ったのは例の一組の男女であると社長は解釈した。それでも気の張れない。不明瞭な状況にまま行きつつ戻りするする日はかえって苦しい。葛藤の日々を過ごすうちに社長はうつ病を発症した」

「彼は二人を恨むことで救われた」

 それにしても分りづらい。

 老医師が高齢で整理ができていないせいだけではない。通常の不倫談とは大きく異なるのである。彼の話は不倫をする男女の物語でもなく裏切られた互いの配偶者のことでもない。

 この話の主人公は一組の男女の不倫関係に翻弄される会社関係者であると焦点を絞り理解をすれば理解が容易になるかも知れない。


「実は患者十三号の夫の父が証拠物件集めには実績のある腕の良い私立探偵を雇い、すでに二人の周辺を探索していたのである」

「二人が不倫関係にあったはことは客観的事実として認定されたのですか」

 老医師はうなづき肯定した。

「詳しくは知らないが、二人が密会し口車を合わせる現場やホテルに出入りする場面やホテルに残した遺留品など細かく集めたようです」

「二人は認めた訳ですか」

「いや男は最後まで否定し続けた」

 それでも物的証拠で二人の不倫関係は証明をされた。

「男と女のどちらの方から誘ったのですか」

 当然、互いの配偶者への慰謝料ということになるだろう。どちらが誘ったかが問題になろう。

「普通は若い女性の方から二十歳も年上の男性に無償で声をかけることはない。しかも結婚したばかりの女性です。男は脅かしたり、なだめたりして彼女の心を弄んだ上で関係を持ったのでしょう」

「男の方は本気だったようです」

「当然、古女房より若い女に引かれるでしょう」

「当然、後始末が大変だった。配偶者や家族、親戚も巻き込んだ大騒ぎになった。若い女は世間に顔向けができなくなり、姿を消した。男も姿を消した。だが二人は一緒になれなかった。女の方にはその気がなかったのである。彼女は長期出張から亭主が戻ったら、もとの生活に戻ることを浅はかに望んでいた」

 老医師は腕時計を気にし始めた。

 最後に、三名がこの病院に収容されることになった経緯を教えてくれとすがった。

「患者十四号についてだけは話せる。彼は一人息子を失ない、心に大きな痛手を受けた。心の痛手は時に外科的な傷より処置に困る。彼はそれを癒すためにこの病院の世話になっている。だが患者十二号と十三号の二人の件

を話す前にMの許可が必要だ。最後に申しましょう。今は昔以上にシステム化された社会です。昔以上に社会規範を裏切った行為を犯した場合、生きていくことは容易でない」

「私は患者十二号と十三号、患者十四号の姿を見ることができますか」

「その質問に答えるにもMの許可が必要だ」と彼は言い残し、現れた時の同じように突然、診察室から姿を消した。

 彼は最初と同じゆっくりとした語り口で語った。

 ときおり老医師の耳が遠いせいで叫ぶような大声で質問を繰り返すことがあった。二、三度か診察室をドアを開け、看護士が覗いて帰った。その度、覗いた看護士は首を傾げて出て行った。

 

 一月後、私はドラえもんとあだ名する女医の案内で三名が入院する十二号室、十三号室、十四号の前を通りすぎた。

 三つの部屋の入り口の監視窓だけは外からのぞかれないように厳重に塞がれていた。

 理由は二人の露わな姿を見せる訳にはいけないと答えた。看護室に設置されたモニターと廊下を隔てた十四号室のモニターから見ることが出来るが、Mが指示なければ誰も見れないと言う。

「二人の露わな姿とは、生まれたままの姿と言うことですか」

 社会のモラルを捨て去った二人は獣のように裸の姿で過ごしているにちがいないと想像したのである。

「そうでしょうね。実は私も見たことがないのです」と女医は答えた。


 女医に患者十四号のことを聞くと、患者十四号と言う患者はいませんと明確に答えた。

 話をしてくれた例の老医師が息子を失った痛手で心を病んだ社長にちがいないと信じ切っていたので、大きな衝撃を受けた。

「本当にいないのですか」

「いません」

「本当ですか」

 彼女は私のしっこさに呆れた様子だった。

「以前はいました」

「いつまで居たのですか」

「確か一年前までは生きていました」

「生きていた。それでは彼は死んだと言うことですか」

 私は突飛な声を上げた。

「そうですよ」

 彼女は、あっさり肯定した。

「どこで死んだのですか」

 この病室ですと言って、彼女は十四号室のドアを軽く叩いた。

「一年ほど前の十四日の土曜日の朝に冷たくなって発見されたのです。おそらく十三日金曜日の夜にひっそりとローソクの炎が消えるようにこと切れたのではないかと噂になったものです。今でも夜勤の看護士がこの明かりとりのくもりガラスが、部屋の中から漏れるローソクの明かりでホンノリと黄色く染まり、お経を上げる老人の声がもれ聞いた観察日記に記録を残すこともありますよ。生前、彼はこの部屋に息子の位牌を持ち込み、ローソクに明りを燈し、一晩中、お経を上げながら、二人の姿を眺めて過ごしていたのです。その名残が部屋にしみ込んでいるのでしょう」

 思わず身震いして顔をしかめた。

 彼女は笑いながら冷やかした。

「こんな話はお好きではないのですか」

 すぐにいつもの口調にもどり、慰めるように説明した。

「とても高齢の患者さんでした。別にひどい疾患があった訳ではありません。彼は時たま病院を訪れては、十四号室に閉じこもったのです。十四号室に閉じこもった時には、特別にこしらえのモニターで十二号室と十三号室に閉じこめられた男女の姿を眺めては帰るという噂でした。Mは無条件に許可しました。なにしろ彼は病院にとって恩人です」

 女医は微笑みを浮かべて答えた。

「なにしろ患者十四号はこの病院に多額の寄付をしてくれた篤志家でした。Mとも親しく彼の部屋に出入りを許された特別な患者さんでした」

 私はなお老医師の姿も思い浮かべながら食い下がった。

「八十を超していたか。痩せていたか、耳が遠かったか。ゆっくりと喋ったか。時には言葉を失ったか。謡曲が趣味だったか」

 彼女は能面のかぶったように不気味に微笑みを浮かべ答えた。

「そのとおりです。あなたが逢った人物、そのものです」

 背筋に寒気が走った。

 私と老医師の面談の最中に診断室を覗いた看護士が話をする老医師の方には目もくれず私だけを見て笑ったり、奇異な目で私を見詰めた後に出て行った理由が始めて分かった。

「見てはいけない者を見たようですね」と女医はからかい笑った。そして言った。

「でも大丈夫。病院ではよくあることです。あまり気にしないことです」

「本当に幽霊だったのですか」

 なおも食い下がった。

 彼女は往生際が悪いと私を笑った。

「第一、あなたに話をしたような高齢の患者も看護士もこの病院にはいません」と彼女は言った。

 気を取り直して、彼女に質問をした。

「ところで彼以外に二人に容体に関心を持ち病院を訪れる者はいませんか」

「患者十四号が亡くなってから、上品な一組の初老のご夫婦が訪れようになりました」

 私が予想したとおりの答えであった。病院への再就職とともに、小説家をも目指す私が間抜けではないことを思い知って欲しい。

「そのご夫婦も患者十三号と十四号の姿を見ることができますよね」

「Mが許可しています。ただし十四号室の使用はさせません」

「二人は女性の患者十四号の姿を見て涙を流すでしょうね」

「ええ」

 女医は今日は別人のように素直に私の質問に答えてくれる。老医師の正体が従業員であった患者十二号と十三号の不倫で息子を失い心を病を得て入院をしていた患者十四号の幽霊であったと同じように驚くべきことである。

「二人が男の患者十三号を見る時の反応はどうですか」

「彼の姿など一瞥しません」

「二人は患者十三号の御両親でしょうね」

 私は自分の推理を披露した。

「そうかも知れない。二人がモニターの前でひそかに語り合う言葉を聞いたことがあります」と言い女医は教えてくれた。

 奥さんが夫の長期出張間の娘への不審な無言電話や脅迫電話のことを思い出し、誰の仕業だったかしらと夫に質問を投げかけた。

 聞かれた夫は断定的に答えたらしい。

「あいつの仕業にちがいない。彼にとって娘を手に入れんがための手口にすぎない」

「いつ頃からあのような関係になってからかしら」と奥さんは聞いた。

「社内で不倫の噂が立ち始めた頃はそんな関係ではなかったらしい。だが会社の上役に喚ばれたから、娘も追い詰めれた、救いを求めてあの男と不倫関係になったようである。電話で女を心細くさせるのも、噂を立て娘を追い詰めるのも恋の手練手管にすぎないと会社の中で親しい仲間に言いふらしていたらしい。そして君たちが同じようなことをする時は、自分が脇役に回り支援するからと誘っていたようである。探偵から聞いた話だ」

 と紳士は吐き捨てるように言うのを女医は聞いていたと言う。

 初老の女性は深い悲しみをたたえて最後に聞いた。

「あの男は妻や子供を捨てて本当に幸子と一緒になる気だったのかしら」と。

「幸子が追いかけていたから本気だったのだろう。だから幸子は家から姿を消したのだろう」

母親は醜いものを想像してしまったように顔を歪めた。

 幸子とは患者十三号の名前であろう。もちろん二人にとっては娘である。

 彼らは話の最中でもモニターに映る患者十二号を見ようとしなかった。


「二人がこの病院に収容された経緯だけでも教えて下さい」と最後に私は聞いた。

「それも十四号室の篤志家のお陰です。彼が町で二人を拾って来てMに預けたのです」

 その後は、再び貝のように口を閉ざし沈黙を守った。

 そこまでがMが話すことを許した範囲なのであろう。

 以降は想像である。

 会社を追われた二人は人目を憚り生きていた。そして男も女も路頭に迷い、親や親戚からも捨てられてしまった。

 女は身体を売る商売にまでおちぶれた。やがて心の病を得て、この病院に運ばれて来た。


 男性も妻子にも捨てられて路頭に迷った。不倫相手の女に比べて彼の方は一段と不幸であった。悦楽の時をともにした相手の女のことや、彼女との行為が忘れられなかった。その記憶だけを鮮明に残したまま彼は狂ったのである。彼の周囲は常に息子を失った会社社長の監視の目が張られ、綿を首を絞めるようにして追い詰めていった。会社社長はすべての財産を彼への復讐と病院への寄付に充てたのである。おそらく息子の生命保険もすべてである。

「女性としては幸子の肩を持ちたいけれど、最後の話は幸子と言う娘の御両親が語った話で客観的であるとは言い難い。会社の様子を現実に見た訳ではないことも付け加えておきます」

「どこに真実はありますか」と私は女医に聞いた。

「せめて法廷にはあると信じたいですね。でも時間が必要です。老人には残された時間がない。だから彼はMに相談を持ちかけたのです。でもMも若い者たちの色恋沙汰には関わりたくなかったが、緊急避難的に病院に収容したのです」と女医は答えた。

 Mの立場にも同情の念を抱かざる得ない。

 この物語に後日談がある。私は軽い神経症の疑いをかけられ、治療をかねながら庭作業など軽い作業をしながら、この病棟で過ごすことになるのであるが、その過程で重要な秘密に出会うことになるのである。

 この物語はこの病院内で起きていた出来事だったと言うことを明確にせねばなるまい。

 社内結婚をした若い二組の看護士夫婦の愛憎が絡んで起きた出来事であった。 




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