白衣病棟
夏海惺(広瀬勝郎)
第1話孫文になった男(患者一号)
私は心療内科病院の診断室に来ている。
だが誤解を招かないように釈明をしておく。自分が心を病んだせいではない。
友人の紹介で、この病院を尋ねたのであるが、今日が始めてである。目的はふたつある。定年退職後の再就職先の事前研究のためと、小説のネタ探しのためである。
診察室は静かである。診察室の外も静かで物音がない。ただ部屋の外は病院に勤める者のスリッパの音で慌ただしい。
灰色の事務用机と回転椅子、書類か専門書が納められているであろうキャビネット、そして私が座るソファーがあるのみである。
白いペンキで塗られた室内は殺風景である。しかし普通の病院とちがい独特な消毒薬の臭いもない。
だが行き交う患者の目つきを見れば、そこが普通の世界でないことは一目瞭然である。
診察室の入ってきた医師は私の前を通り抜け、灰色の回転椅子に座ると話し始めた。もちろん簡単な挨拶を交わした後であるが省略する。
「この診察室を訪れた患者で特に強い印象が残った患者について語し、仕事の参考にしていただくこととしましょう。もちろん本名は明かせません。仮に名前を患者一号とします」と言い、彼は私に語り始めたものである。
だがその前に医師は私に念を押した。
「この世に真実とか正義とかがあると信じますか」と
私は、もちろんあるでしょうと答えた。
それに対し医師は軽く頭を振り、私の意見を否定をした。
「そんなものないのです。人の気持ちも移ろい、恣意に隠蔽されることも多くあるのです。すべてがあなたが描く小説と同じ虚構の世界だと理解すべきでしょう」
私は医師の世界観を不満に感じた。
私の心情に気付き、医師は付け加えた。
「正義と不正義を区別する基準は法です。それは人が作ったものです。作った人間によって法は異なるのです。世の中には法のない世界も存在するのです」
「法のない世界とは」
「もちろん戦争です」と医師は質問に明確に答えた。
「彼が狂う切っ掛けとなったのは田舎町の資料館への訪問でした。もちろん患者一号の物語を常人が理解できる形にするためには、欠落した部分や混濁した部分を私の想像で補い、修復せねばなりません。なにしろ彼の話には隙間が多すぎます。妄想も多く私のような専門家の翻訳なしでは常人には理解できないのです」と医師は断った。
以下は医師が話した内容である。
患者一号は資料館の入口で受付の男と老人が激しく言い争うのを見掛けたのです。
「酔っぱらっていたのでしょう」
老人のように見える男の年齢は定かではありません。ただ受付の小窓からもれる光に手は節くれだって見えたのです。二人は親しい間柄にも見えました。だから受付の男は老人の酒癖を責めていると患者一号は想像したのです。彼の対応ぶりから近所に住む老人であろうと患者一号は想像した。
空一面を厚い雲が空を覆っていました。明治時代の馬小屋を改造した二階建ての資料館に窓はありません。展示物を照らす薄暗い蛍光灯の灯りだけが館内を照らしていました。夕暮れの館内は夜のように暗く、陳列された棚の隙間から資料館の主人公である滔天たちが生きた明治大正時代の物の怪が飛び出して来そうな雰囲気が漂っていた。
「馬鹿を言うな。酒など飲んではいなかった」と老人は断言した。
「眠れず、月明かりに誘われるまま散歩に出掛けた。帰る途中に資料館の裏側の小道を通った。すると人のいないはずの屋敷から浪花節が流れて来た。不思議に思い生け垣の一葉の隙間から屋敷の中を覗き見ると裏庭の畳敷きの部屋の雨戸が開け広げられていた」
受付の男に口を挟む機会を与えず老人は話し続けた。
「畳敷きの部屋には黄色い月明かりが差し込み、館の主人である滔天が浪曲をうなっていた」
と老人は一気に事情を説明した。
やっと発言の間を見出した受付の男はいきり立ち、カウンターに身を乗り出し口を挟んだ。
「気味の悪いことを言い触らされたら困ります」
「気味が悪いと言うのか。孫文や滔天が姿を現すことが気味の悪いと言うのか。めでたいことだ」
今度は老人が身を乗り出した。患者一号の目に老人の顔がかすかに見えた。顔もまるで老木のように節くれ立っていた。
患者一号は資料館の中に入る前に庭や建物を周囲を歩いていた。裏庭に面した部屋に三体の蝋人形が配置されていた。文机を挟み孫文と滔天と妻のツチが座り、正面に孫文が座り、筆談を交わしている様子である。
背広に身を包んだ孫文は小柄で清潔な紳士であり、革命家などという印象ではない。
滔天は大柄である。和服姿で背を屈め、孫文が走らせる筆先をのぞき見ようとしている。滔天の頬から顎にうっとおしく濃い髭を伸びている。
もちろん二人とも生きている人間ではない。孫文は日本の明治維新前夜の一八六六年に香港に近い中国広東省で生まれ、明治から大正時代にかけた人物である。滔天は孫文に五年遅れて明治四年の一八七一年に熊本と福岡の県境の荒尾市で生まれて、大正十年に他界している。
その二人が月明かりの下で語り合うと姿を常人に信じろと言うの方が無理な話である。だが受付の男にとって気になることは戸締まりの不備を指摘されることであった。
「雨戸が明け放れていたと世間に言いふらすなど迷惑千万なことだ。戸締まりを確認した上で帰宅している」
患者一号は展示された資料を見るように装いながらながら入口で交わされる二人の会話に聞き耳を立てていた。
その頃、患者一号は朝鮮、中国、東アジア諸国との過去の歴史を振り返っていた。それは気の重い作業であったが、それは自分の人生を振り返ることにつながるのである。彼にとって遠い過去の出来事ではない。
実はそれがいけなかったのである。彼の許容範囲を超えるあまりにも残酷な出来事に彼の精神は病み、眠れない日が続き、アル中の一歩手前にたどり着いていた。昼間にも不思議な幻影を思い浮かべることが多くなった。闇の中から声が聞こえるようになり、混在し頭の中を飛び交い始めたのである。そして当時の時代に生きていたような錯覚さえ抱き、同時に世間から隔絶し、孤独の淵に身を沈めることになった。
患者一号が二人の会話を聞いたのはこのような時である。
その夜から患者一号はその資料館に通い続けることになった。患者一号は受付での老人の言葉とおり孫文が現れたら、自分も救われると賭に出たのである。
その夜は何の変化もなく夜が明けた。孫文達のいる戸が開くこともなかった。
次の夜も患者一号は資料館にいた。
暗くなると雨がしとしとと降り始めたが、我慢できない雨ではない。
九時頃に受付の男が懐中電灯を手に資料館の見回りにやって来たが、異常がないことを確認した上で帰宅した。
時間が経った。
雨は止み、周囲は寝静まり暗い静寂が周囲を包んでいた。
風はない。庭木の葉から重さに耐えきれず水滴が落ちると他の木の葉の水滴が連動して落ちた。
その音が響くのを境に周囲から音がすべて消えた。
時が止まったのである。
奇妙なことが起きる前のいつもの前兆であった。患者一号も異変が起きると確信した。
雨戸が開き、隙間から白く細い指先がのぞき出た。もちろん建物の中には誰も残っていないはずである。雨戸は押し広げられ、蝋人形のような滔天の妻の槌が姿を現した。
薄暗いローソクの炎が部屋の中を照らしていた。その灯りの下で滔天が書き物をしている。昼間には妻の槌と滔天の間にいたはずの孫文の人形はかき消えていた。
「孫先生は今夜も訪ねて来てくれるのかしら」
妻の槌が滔天に問い掛けたが、それ以来、変化はなく、孫文は姿を現さなかった。
三夜目も月夜であった。月明かりが古い屋敷の白い壁や、青い芝生を照らしていた。彼は昨夜と同じ場所に潜み待ち続けた。昨夜と同じように戸板が静かに押し広げられた。滔天と妻が姿を現した。二人は孫文たちの中国革命を成功させようと支援に奔走した。その三名が集まり歓談をしている姿を老人は見たと言うが患者一号の目には孫文の姿が欠けていた。
風が吹き抜け木の葉が擦れ合い音を立てた。闇の中から老人の声がした。聞き覚えのある声である。おとといの昼間、資料館で姿を見た老人の声である。周囲を見回すが姿は見えない。
「まだ孫文の姿が見えないか」
「見えない」と患者一号は彼に答えたと言う。
四夜目を迎えた。その頃には患者一号の疲労は極限に達した。月明かりの下、庭の梅の木と滔天がシャムから持ち帰った菩提樹が黄金色に輝いていた。
風が吹き庭の木の葉が揺れ、葉が擦れ、雨粒が一斉に地面を叩いた。
声に促され、目を凝らしても患者一号の目に見えるのは、訪れない客人を待つ寂しげな滔天夫婦の姿だけである。
また老人の声がする。
「まだ見えないのか」
「まだ見えない」と患者一号は答えた。
「お主が日本人だから見えないのかも知れない」と老人は言った。
「あなたは日本人ではないのか」と患者一号が聞くと、フォフォとフクロウのように笑い声を残し、彼の気配は消滅した。
患者一号は考えた。
孫文が見えないのは日本人としての罪の意識が残っているせいでないかと。
夜が白み、薄明るくなった。
一番列車が線路を震わせ接近して来る。
「万骨枯れ 一将なる
・・・・・・・・・」
滔天がうなる「落花の歌」が風に切々と流れた。
滔天夫婦は朝の白いかすみの中に吸い込まれるように消滅していった。
五日の夜を迎えた。患者一号の疲労の度合いは極限状態に達している。実は決定的な異変が患者一号に訪れたのはその夜のことだったと医師は解説した。
患者一号にも今夜が最後になるにちがいないと直感するものがあった。
突然、背後に人の気配を感じた。振り返ると、月明かりの中に見覚えのない小さな老人が立っていた。
「助けてくれ」
患者一号は叫び声を上げた。
老人は声を出すなと固く冷たい掌で患者一号の唇を塞いだ。彼の掌や身体から受ける印象は古木の枝や幹のようである。もちろん資料館を訪れた最初の日に、受付の男に孫文と滔天が現れたと主張し、困らせていた老人である。
「お主にはまだ孫文は見えぬようだな」
老人は低い声で尋ねた。
唇を軽く押さえられているせいで、声を漏らすことは出来ず軽く頷き合図をした。
「孫文に会いたいか」
「会いたい」
「色即是空だ。月明かりに照らされた部屋の中で演じられていたことは、すべてお主の思い込みや希望が投影されていたに過ぎない。自分で見出すしかない」
「墓を掘り起こすような行為だ。何の意味がある。無益なことだ。忘れてしまえ」と老人の声は患者一号を責めた。
「忘れてしまえば同じ事を繰り返すことになる」
「君だけだ。他の者は何も感じていない。人類の歴史上、残虐行為は枚挙にいとまがない。ナチスによるユダヤ人に対するジェノサイトや、大航海時代や植民地時代の奴隷制度の残酷さはその比ではない。自虐史観だ。残虐行為を誇り高い日本兵がやるはずはない。告白者が嘘をついているのだ。どの証言も証言者は一人だ。他の者は皆殺しにされた。一人だけ生き残った」と言う老人の声も患者一号をさいなみ始めた。
日本が中国に進出する以前に治安は乱れ切っていた。アヘン戦争での敗北で清国は衰退を極め、さらに英国に対する多額の賠償金の支払いに必要な資金を得るために増税を重ねるばかりで、その上に天災も多く発生し、民は疲弊し切り心は清朝から離れた。アヘン戦争から十年後には太平天国の乱が起きるが多くの民はこの反乱軍に味方した。清王朝は乱を治めることができず、列国の支援を得て、太平天国の乱を治める始末だった。次に賠償金の未払いが原因になって第二次アヘン戦争が起き。それに敗北し、十九世紀の末には西欧化を進める東洋の小国に日本にも日清戦争で敗北した。二十世紀を迎えた直後に、清を助け西欧列国を討つと叫ぶ白蓮教が中心になり義和団事件が起こした。清朝の実力者の西太后は義和団の助けを得て西欧列国を討とうとしたが、逆に日本を含む列強軍に手痛い敗北を期した。清朝は西欧列国による半植民地化と腐敗を極めながらも、かろうじて命脈を保ち続けた。
一九一一年に中国大陸の北部から発生した清王朝に対する孫文たち漢民族が中心になって起こした辛亥革命で清王朝は崩壊するが、各土地の軍閥による群雄割拠の時代に突入し、治安も秩序もない状況が続くのである。西欧列国による半植民地化へと進んでいく。
中国統一の夢は孫文から蒋介石に引き継がれた。蒋介石が行う北伐は従来の秩序を破壊し尽くした。日本と中国の間の友好的な繋がりは一九一五年に大隈政権下で対支二十一カ条の要求で途絶えたと言われる。だが幾度かの小競り合いはあったが、修復の機会はあったはずである。だが結局、日本と中国は昭和十二年に本格的に戦闘状態に突入する。日本の敗戦で世界大戦は終了するが、その後も大陸の動乱は収まらなかった。蒋介石が率いる国民党と毛沢東が率いる中共軍が相争うことになる。一九五十年のことである。約百年の間、中国は戦乱の中を彷徨ったことになる。
もちろん日本が中国に及ぼした被害は小さくはない。長い動乱の期間の間を分析する時に、日本に対する非難の声は異常であると闇の声は主張するのである。帝国主義国家の代表格であるイギリスやフランスなどに対する非難や中国国内の古い体制や民衆の生活を振り返らずに争い続けた軍閥に対する批判が起きてもおかしくない。
老人の声がする。
「君の肉親に中国大陸の戦争に従軍した者はいなかったか」
「いる。伯父がそうだ。もう九十ちかくになるはずだが、生きている。彼は中国戦線に半年か一年間従軍した。足を負傷し帰還した。彼はまだ足を引きづっている」
「伯父は残虐な行為のことを話したか」
記憶をたぐり寄せて、やっと思い出した。
二十数年前、伯父が六十歳にならない頃、彼に聞いたが、彼は断言した。
「そんなことは絶対にしなかった。目にしたこともなかった。不思議なこともあるものだと小首を傾げていた。彼は正直な男である。彼の言葉に嘘はないと今でも信じている」
老人はその言葉を信じろ言い、付け加えた。
「多くの鬼たちも大陸の土か南洋の島々の土、海の藻屑として消え、故国に戻ることも出来なかったにちがいない。哀れな犠牲者だ」
闇の声がする。
「要領のいい奴は生き残った。生き残った君の伯父も要領の良い部類だ。なぜ生き残って帰れたか聞いたことがあったか。要領が良かったのだろう」
私は身内の名誉回復のために憤り怒鳴っていた。
「戦闘中に負傷で早い日本に治療のために送還をされた」
「それは悪かった。言葉を変えねばならない。彼は運が良かったのだ」
この瞬間、患者一号を囲む場面が急変した。
兵士、一般市民、学生、富める者、貧しい者、老若男女、様々な者が群れていた。彼はまさしく混沌とした中国の戦場に紛れ込んだのである。
この時、患者一号を囲む外界で現実に起きていたことは、彼の怒鳴り声に近所の者が安眠を妨げられ、資料館を囲む生け垣の周囲に集まりだしてのである。時間はすでに明け方近くであった。夜もシラミかけていたが、安眠を破られた者はひどく不機嫌であった。彼らが患者一号を浴びせる怒鳴り声が患者一号の耳には闇の声と聞こえ、患者一号の精神をズタズタに切り裂き始めたのである。
「軍律の厳しさで知れ渡った日本軍だ。そのような悪さをするものか。将校や憲兵もいた」
闇の声である。まるで悪魔のように患者一号をいたぶる。
「将校もいたろう。将校を呼び出せ」
資料館にいた例の老人の声である。
闇の中から声が返ってくる。
「そのような場面で止めに入ったら、どのような目に遭うか、君自身が知っているはずだ」
「そうだ。そうだ」
「弾は前から飛んで来ると限らない。背後から飛んで来ることもあるんだ。そのようなら些細なことに口を挟む無粋な将校でも現れようものなら背後から撃ち殺すだけだ。夜も明るい月夜ばかりとは限らない。漆喰の闇夜もある。正義漢ぶって五月蠅い男は敵の回し者だ。すべてを告白しかねない邪魔者だ」
「兵士の不道徳を責めることなどできない。責めれば彼らは働かなくなる」
「それだけではない。やがて将校も同じ鬼になり、楽しみ始めた」
「告白が少ない」
「当然だ。仲間から村八分にされ袋叩きにされかねない。告白者は安全や生活の根拠を失うことを覚悟が必要だ。もちろん告発される側も死活問題に発展する」
「憲兵を呼べ」
「憲兵も人間だ。憲兵みずからが鬼に変ることもあった」
「厳しい軍罰があったはずだ」
「軍法会議などで銃殺の刑に処されても執行されなかった。鬼は最前線に配置され、多くが名誉の戦死に遂げることになるだけだ」
「なぜ人でなしの鬼になった。罪悪感はなかったのか。それで良いと思ったのか」
「罪悪感など持つ者は一人もいなかった。正義を貫けば裏切者の疑いをかけられる」
「快楽のためだろう。こんな気持の良いことを我慢することはないと思ったのだろう」
「みんなと同じようにしなければ敵性分子として仲間から殺された」
どこから浴びせられる声か区別が付かない。患者一号は落ち着かない視線で周囲を見回した。
「鬼にならなければ殺さたと言うのか」
「告白者になるにちがいないと殺される」
「自分が死ぬのは怖かったのか」
「当然だ。死ぬのが怖くない人間などいるものか。死ぬ瞬間まで誰も自分が死ぬなどとは思わない」
婦人が泣いていた。
「凌辱された婦人か」
「凌辱されることを喜んだか」
女が獣のような叫び声を上げた。
「日本軍の仕業か」
「そうに決まっている」
彼女は叫んだ。
女は胸まで引き裂かれた女が姿が現した。
「見せしめに逆さまに吊されて、全身を引き裂かれて死んだ女か」
無秩序で常に死と隣り合わせにある戦争と言う極限状態では、種の保存と言う動物本来の欲望のスイッチが入るように思える。
「次の瞬間には戦場の露として消えるやも知れぬ運命」
「弱者に対する暴力、女をもてあそぶことが絶望と自暴自棄の生活でのささやかな楽しみだ」
兵士たちは口々に叫んだ。
悲嘆にくれる男が姿を現わした。
「目の前で自分の息子を殺された父親か」
父親は動かなくなった子供の足を握り、逆さま吊るし持ち、途方にくれている。
日本兵が姿を現した。
「これも日本兵の仕業か」
「知らぬ」と日本兵は答えた。
「あいつらも悪いのだ。兵隊から民間人か区別もつかない。どこから弾が飛んでくるかも解らない。一人でも少ない方がよい」
「彼らは抵抗する術も銃も持たなかったはずだ。君たちの暴力が彼らを敵にし、やがて仲間の血であがなうことになった」
「銃を手にしたら、すぐにでも敵兵になった。一人でも減らすことが良策だった」
「彼らが敵になると解ったのか」
「目を見れば解る」
「君たちは侵略者だった。君たちの行為が敵を造った」
「好き好んで行った訳ではない。国の命令だ。だから羽目をはずした。あとは国の責任だ。それにあいつらも悪いのだ。いつまでも仲間うちで争い続けていた。そのせいで、こちらは日本から引きづり出されて、いつ命を失わないとも限らない飲まず食わずの戦場暮らしだ」
「誰が国を動かした。青年将校か」
「そうだ」
「青年将校を動かしたのは何だ」
「貧しいお主たちに対する思いではなかったか」
「知らぬ」
「立身出世を願う高級将校か」
「そうかも知れぬが、知らぬ」
「財閥か」
「そうかも知れぬが、知らぬ」
声は自分との関係が遠のくにつれ、質問に対し肯定的に返事をする。
「一切答えるな。墓場にまで持っていく約束をしたはずだ」
「墓場に持って行ったはずだ。これ以上、隠す必要もあるまい。すべてを話せ」
声の主は一人ではない。患者一号の周りには群衆が集まり、叫んでいる。
追い掛ける兵士の声や恐ろしい断末魔の叫び声を上げる女や子供の声が耳元で鳴り響いた。
「お主も凌辱された末に殺された婦人か」
「そうだ」
女性の声は、野獣の咆吼のように野太かった。このように恐ろしい声は、他にないはずである。
「本当に相手は日本人だったのか」
「そうに決まっている」
「土匪や逃走する軍閥の兵士ではなかったか」
「決まっている。日本兵だ。勝手に侵略してきたのだ」
「言い切れるか。長い国内の戦乱に精神的に疲弊しきっていた。君の国の軍隊が行った行為ではないか。君の国の諺にもある。良い人間は兵隊はならない」
闇の声は患者一号の思いなどとは無関係に主張を勝手に頭の中で叫び合った。
「多くの謀略を凝らして勝手に侵略してきたのだ。日本人に言い訳が出来るか」
「分かった。話を進めるためだ。百歩譲ろう。過ぎ去った時間を考えろ。あの時代の出来事が今の君の人生に影響を与えているのか。恐ろしい出来事を人類は繰り返してきた。もちろんあの戦争の前後にもだ」
「許すことはできぬ」と女が獣のような恐ろしい声で吠えた。
声に促され患者一号は周囲を囲む兵士たちを睨み付け、叫んだ。
「彼女を凌辱した者は誰だ」
幽鬼たちは誰も動揺すらしない。
「お前か。お前か。お前か」
指される男は顔を背け、否定した。
患者一号は屋敷の囲む生け垣に群がる群衆の一人一人を指差し詰問していた。群衆は動揺した。もちろん患者一号は日本兵に向かい詰問しているつもりである。実は、その頃には周囲の群衆の、うるさい、安眠妨害だ、きちがいなどとあらゆる罵声は闇の声であり、戦場で犠牲になった者の声に聞こえ、互いにかみ合わない言い争いを続けていた。
「君たちは戦場の勇士だ。自分がやったと正直に申し出ることはできないのか。やった犯人を知る者はいないか。連帯責任だ。全員に責任をとってもらう」
「お前だ」
突然、群衆の中から白い指だけが現れ、患者一号を指さしたのである。
だが、小さな声であった。だがこの一言は決定的だった。
「そうだ。そうだ。お前が犯人だ。この婦人を凌辱したのは、お前だ」
全員の指が私の方に向いた。
「私は、当時、生まれてもいなかった。」
この時は、まだ冷静である。
「国籍が同じだ」
「名前が同じだ」
「顔が似ている」
「出身地が同じだ」
「振る舞いが似ている」
彼らは、とにかく共通点を探し出すと懸命である。人の声は大きくなる一方である。
「生まれ変わりにちがいない」
「誰も私の無実を証明してくれないのか。不思議な魔術で紛れ込んでしまったが、生きている時代が違うのだ」と叫んだ。
周囲の視線は冷たかった。
「男なら誰でもよい。中国の男でも構わない。彼らは私たちにてん足を強いて縛り付け、逃げるのを許さなかった。とにかく誰でもいいから血祭りに上げてやって」
女は叫んだ。
意識が薄れる患者一号の耳に闇の中から声がする。
「遠い大陸で国にために戦った自分たちの名誉を奪おうとするから、このような目に遭うのだ」
患者一号は叫んだ。
「逆恨みをするな。みずからの悪行で敵を作り、その敵と戦ったにすぎなかったのだけでないのか。自らの犯した罪に対する恐怖から生じた幻影ではなかったのあ。なぜ生きているうちにあがなわなかった。なぜ縁もゆかりもない私が彼らの罪をあがわねばならない」
最後の疑問に対して、闇の声が明確に答えた。
「君が日本人だからだ」
「鬼たちは生きていない。戦犯として処刑したはずだ」
患者一号は失いつつある意識の中で反論した。
「鬼たちは要領がいい。罪のない連中を処刑台に突き出し、要領よく生き延びた」
意地の悪い声である。
患者一号を励ましていた老人も滔天がシャムから持ち帰った菩提樹の幹に吸い込まれるように消えていた。
シャムは現代のタイで東アジアで西欧列国の侵略を跳ね返し日本とともに唯一独立を保ち得た国である。
老人が木の陰に姿を消した時、患者一号は老人の正体は菩提樹の木の精霊であったと信じた。
患者一号はその場に卒倒した。
患者一号が卒倒から正気に戻ったのは、まぶしく固い懐中電灯の直撃のせいである。
彼は孫文の蝋人形を動かし、自らが蝋人形があった位置に正座し、正面の滔天夫妻と向き合っていた。
夜も明けやらず薄暗かったが、荒々しい怒鳴り声を上げる怒りに狂う群衆が生け垣を囲んでいた。
この男ですと叫ぶ声は受付の男の声であった。
「毎晩のようにこの屋敷に忍び込み叫び声を上げて騒いでいる。今朝は、『隣国同志で相争っている時ではない。地球温暖化怪獣が攻めてくる。孫文よ蘇れ』と奇妙なことを叫んでいました」とそばに立つ老人が警官に説明した。
五日前の夕方、受付の男と口論をし、患者一号に声を掛け、最後に滔天がシャムから持ち帰った菩提樹の幹に吸い込まれたはずの老人であった。
救急車とパトカーがやって来たのである。
患者一号は、生け垣の周囲を囲む近隣在住の者たちを指差し、詰問しているのである。
例えば、ある婦人を指差した後、善良な男達を指差し、この婦人を犯したのは君か君かと言う具合である。子供を殺された男性の会話に至った時にも、この父の子供を殺したのは君か君かという指差し詰問しているのである。もちろん集まった者たちで周囲は騒然となり、警察に連絡をしたと言う訳である。
生け垣を囲む群衆が交互に交わす会話は大きなざわめきととなった。その中でも一際、大きく聞き取れる声があった。
「きっとこの気違い、隣のウルトラマンランドの子供劇場に感激したにちがいありませんぜ」
「その前には晩はオリンピックがどうのこうのとか叫んでいました」
「孫文の姿が見えない見えないと騒いでいたけど、孫文はいるわよ」
と老婦人が叫び、居間に座る孫文の蝋人形を指差した。
蝋人形と老婦人の中間に患者一号が立ち、老婦人の指先は患者一号を指さす格好になっていた。
罵声は尽きなかった。
患者一号は、この言葉に啓示を受けた。
この瞬間、彼は孫文は自分自身だったと確信した。だから自分には見えないのだと確信した。次の瞬間には彼はあらゆる罵声も快い同情や激励の言葉に聞こえた。
例えば生け垣から覗く四角いほお骨がエラのように張った神の短い中年の男性が
「このボケナス、あんぽんたん、天才バカボン、とっと目を覚ませ」
と言う罵声も、文豪魯迅が孫文である自分を側面から応援する、「中華の民よ、覚醒せよ」という悲痛な叫びに患者一号には聞こえた。
「早く帰れ」と言う怒りに満ちた老婆の声は、「早く故郷に帰り、休みなさい」と言う孫文の妻である宋慶礼の優しい声に聞こえたのである。
約百年前に孫文は清王朝の追っ手の目を逃れ、この館に身を隠したことがったが、その時に、この屋敷の周囲の住民が清王朝から高い懸賞金を課せられた彼を見るために、この屋敷を取り囲んだのである。患者一号は、このことを史料館で見ていた。そしてみずからを清王朝の追っ手から逃れ、この屋敷に身を隠している孫文だと思い込んだのである。もちろん彼は生け垣を囲む群衆を宮崎家の屋敷に身を隠す異国の偉人を一目、見ようと集まった近隣の見物客であると信じ込んでしまったのである。そしてみずから孫文のように振る舞い、ここ数日、患者一号に安眠を妨害され怒り狂う群衆に手を振り応えた。
警官と白衣の屈強な看護士は、自分が孫文だと思い込む楽しい妄想に浸り続ける患者一号の両腕を両脇からつかみ、引きづり込むようにして救急車に乗せこの病院に連れ込んだのです。
これが患者一号はこの病院に世話になるようになった経緯です。あなたも患者一号と同じ運命をたどらないようにするためには緊張を緩めた方が良いと、医師は忠告し、白衣をひるがえし、診察室を出て行った。
すまして取り繕ったような二重まぶたの表情と、鼻の下に蓄えたちょび髭の顔は、どこかで見たことがあるように感じた。
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