死者たちが見る夢

 あの津波の日、父を失った。

 ちょうど、その日は日勤で津波が襲う街の様子を高台の介護センターで見下ろしていた。

 褐色に濁った悪魔の水が街を飲み込み、家をさらっていく様子を心おだやかに眺めていた訳ではない。

 古い家に九十才になろうとする父親が寝たきりで残って居た。

 父は一月後には介護センターに世話になるはずであった。

 その父は娘のサツキに言った。

「長い間、迷惑をかけた。絶対に延命治療をしないでくれ」と。

 父が脳梗塞で半身不随になって、二十年、経っていた。その前から父は同じ言葉を言い続けていた。

 理由を聞くと、「夢を見るのが怖い」と父は答えた。

 サツキは父が何度か夜中にうなされているのに気付き起こしたことがある。

 目ざめた時には、聞いても夢の内容はまったく記憶に残っていなかった。うなされるぐらいであるから怖い夢であったことは間違いあるまい。

 サツキが子ども頃に、何度も聞かされた戦争のことかと聞くと、父は違うと答えた。

「戦争中のことは、すでに諦めている。今は、早く他界した母に対し積み重ねた小さな過ちや、日常生活でのささいなことを後悔し、苦しい」

 その後に父は、医師に母の延命処置を依頼し、一年も長い間、生ける屍となった母を苦しみ抜かせたことを後悔していると告白したのである。

 サツキには父と母は幸せな夫婦にしか見えなかった。

「ベットにしばり付けらた意識をない患者も、きっとそんなささいな後悔を夢に見て苦しんでいるに違いない」と、父は言うのである。

 父もサツキと同じ介護センターで勤めていたので、患者の姿を知っていた。

 枯れ枝のよう介護センターのベットの患者に再生する見込みがないことは明らかである。

 言葉を失った患者の口から苦痛の声を聞いても笑い声を聞いたことは一度もない。表情も同じである。苦痛で顔を歪めることはあっても笑顔を見たことはない。

 恐ろしい世界をさ迷っていることは想像できる。床ずれを防ぐために患者の寝姿を変える作業をするたびに、患者が復讐のために生かされているように感じた。

 だから父は延命処置はするなと父の言葉は理解できた。

 その父が家ごと津波に流されていく。

 涙が無性にこぼれたが、父の介護の重責や生死に関係する決意をしなくとも済まなくなったとサツキは心の片隅で安堵した。

      死者の後悔



 三月十一日の大津波が街を襲う朝、小学校を目前に控えた雪子たちはランドセルを背負い登園することを許された最初の日であった。

 雪子の心は前の晩から弾んでいた。

「ランドセル背負って学校へ」と鼻歌を歌い母の手を握りしめ登園した。

 東北の春は遅く、まだ寒く吐く息も白く濁っていた。

 遠くの山には雪も残っている。

「今日のお迎えはパパだからね」と母は雪子に言った。

「ええ、どうして」と母の顔を見上げて雪子は訊いた。

「嫌なの」

「嫌ではないけど」と雪子は迷いながらも諦めた。

「どっちでもいい、でもどうして」と不思議そうに母に聞いた。

「教えたでしょう。今日は昼からお兄さんの卒業式の準備で小学校に用事があるの」と母は説明した。

「ああ、そうか。お兄さんは小学校を卒業するんだ。一緒に小学校に通いたかったな」と雪子は思い出し背中の大きなランドセルを揺すった。

 勝男は妻との約束とおり海での仕事を早く切り上げ、娘が通う幼稚園に向かった。門では園長が園児を一人一人、親の元に返している。雪子は父と車と姿を認めると、園長の手を振り切り駆け寄って来た。大きなランドセルを下し、勝男は助手席に乗せるとシートベルトをかけた。その時に港に忘れ物をしたことに気付いた。

 港に向かう車の中で雪子はランドセル膝に抱え、ずうと歌っていた。

 強い地震で地面が揺れた。そして津波襲来を知らせる放送も流れた。だが勝男は高い堤防もある、大丈夫だと油断した。

 港での用事を片付け、沖に響く大津波の大音響に、ただ事ではないと気付いた時には遅かった。車を走らせても走らせても背中から大きな茶色の波が、牙を剥き出し襲って来る。

 人家などひとたまりもない。

 映画のシーンに紛れ込んだ訳ではない。現実に起きている出来事なのである。

 逃げ切ることは出来なかった。

 小さな車は津波の濁流に飲み込まれ、濁流にもてあそばれ沖に流された。


 一年前のことである。

「お兄さんは、もう少しで中学校2年生か。いいな」と雪子は呟いた。

 雪子の母と兄は津波が街を襲う時高台にある小学校にいて無事だった。

 津波の日と違い、海は穏やかで静まり返っている。小さな小魚が海面を泳ぎ、さざなみに太陽の光が乱反射しキラキラと輝いていた。

 雪子は母や兄と一緒に地上で見た花火のことを思い出した。

「まるで花火のようね」と言った。

「母ちゃんと兄さんも、あの花火を見ているかな」と隣の父に聞いた。

 雪子は海底の車の中に閉じ込められたまま津波に巻き込まれた時と同じ姿で赤いランドセルを膝の上に抱え座っている。皮膚は透き通るように白い。蝋人形になり、朽ちることなく悠久の孤独の中にいた。

 父の勝男はすでに白く朽ち果て返事はできるはずもなかった。運転席の床に転がるシャレコウベは娘を道連れにしたことを後悔した。

シャレコウベは父のなれの果てであった。

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