第8話患者十号の部屋
魔術師の物語である。
若いころはマスコミも取り上げられるほど活躍をしたらしいが、今は幸せホームにディケアで通うほど高齢であり、引退をしていた。それでも過去の輝かしい時代が忘れられず写真や小さな道具を身辺に置いている。彼の唯一の楽しみは月に一回、ホームの入居者の前で演じることである。毎回、内容は異なる。
今回は消える箱と言う演題であった。人が一名は入る大きなダンボール箱が準備されていた。
五十名ほど入るホールはしわくちゃのお年寄り観客で一杯になった。しわがれた拍手に魔術師は胸に手を当て、頭を下げた。
彼は一世一代の魔術だと称し、この箱から中の人をほかの場所に移動させると魔術だと説明をし、この箱の中に入る勇気のある方はおられないかと聞いた。
私はホールの片隅で様子を観察していたが、五名の年寄りが手を上げて演題に上った。
一人だけ女性が混じっていた。
四名の男性のお年寄りには見覚えがあったが、女性だけが見覚えのないお年寄りであった。
五名はスピーカーの大音響の中、観衆に見守られ、演台に上がった。
ダンダンと言うドラムの大音響の中を最初のお年寄りがダンボール箱に入った。ドラムの音を止め魔術師が扉を開けた。箱の中は空であった。ホールがどよめいた。
あっちこっちで消えたと言う声が混じった。
人々の視線はホールの中を見まわした。
時間がたつにつれ、ざわめきは大きくなった。長年の休業で腕が鈍ったかと演台の上を歩き回る魔術師の態度も観客の不安を煽った。
三分もほど過ぎ、やっと魔術師の手が庭の松の木の根元を指差した。
観客の視線が一斉にそこに動いた。消えたはずのお年寄りが松の木の根元を照らす外灯の下に立ち、両手を振っていた。もちろん周囲は薄暗くなっていた。
観客は驚いたのはもちろんである。ホールの空気を振るわせる拍手が沸き起こった。
同じようにして三名の男性がダンボール箱に入り、ダンボール箱の中から姿を消し、ホールの後ろや演台の左右に姿を現した。
背後で全体を眺めている私は魔術師の仕掛けを見破っていた。
ところが最後に箱に入った老婆の時に予想もできないことが起きた。
彼女も前の男性四名と同じように観客の目の前で魔術師に手を取られ、ドラムの大音響とともにダンボール箱の中に入って行ったはずである。ところが魔術師は彼女がダンボール箱の中に残っていることを忘れたように一人で軽々と箱を撤去してしまったのである。
不思議なことに箱の中には人がいる気配もなく、老婆はダンボール箱とともに、この世から消えてしまっていたのである。
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