『パラドックス・ゼロ』~異世界からの侵略~

あまぶり

第一章「崩れる日常」

第1話「境界のC」

「来てくれて……ありがとう……」


 それが彼女の、最期の言葉だった。














 "カチリ"という小さな音と共に、時計の針が設定された時刻と重なったことを告げる。その瞬間、小さなハンマーが両脇のベルを一心不乱に叩き、強烈な目覚まし時計の音が狭い部屋に響き渡る。


「うぅん…」


 そんな目覚ましの爆音を聞き、布団に包まった人物が気怠そうにもそもそと体を動かす。その拍子に、近くに積まれていた本の山─より正確に言うなら漫画の山─が雪崩のごとく崩れ落ちる。


 その中の一冊が布団の中の住人に直撃する。


「…いて」



ああ…もう朝か。

毎朝時間ぴったりに俺を起こしてくれるのは優秀だと思う。

それはもう、うんざりするくらいに…

だけどね。

それで起きれれば誰も苦労しないわけで…

俺は当然のようにアラームを消し、再び夢の世界へカムバックする訳だ。



「おやすみ…」


 しかし、そんな漫画本のダメージはその人物を起こすには不十分であった。彼は目覚ましを一瞬で消すと、何事も無かったかのようにもう一度深い眠りへと落ちていくのだった。


 が、そんなことが許されるはずもなく。何の前触れも無く、部屋のドアが乱暴に開かれる。


「おら寺義~とっとと起きろ~!」


 そしてズカズカと入ってきたのは幼馴染の美少女─

 ではなく、エプロン姿のオッサンである。


「あと5分だけ寝かせて…」


 寺義と呼ばれた彼は、尚も布団から出てくる気配を見せない。

 

「ほら、お日様だ」


 そんな姿を横目に、異様にエプロンが似合っているオッサンは問答無用と言わんばかりにカーテンを開ける。カーテンレールの軽快な音と共に、眩しい朝日が部屋へと差し込む。


「あと10分…」


「おおそうか。じゃあ目覚めのキスすんぞ?」


「起きるっ!!起きたって!!」


 布団の住人へと成り下がっていた寺義は、今までの態度が嘘のように一瞬で布団から出て立ち上がる。そんな寺義の様子を見て、オッサンは軽くため息を吐く。


「最初からそうしろ。支度してさっさと降りてこい。朝飯だ」


 そう言うと、エプロン姿の男性は部屋を出ていった。


 そんなエプロンの似合うオッサンの本名は『粕見 厳嶄(かすみ げんざん)』

 

 いつも適当そうな表情をしており、歳は41。しかし鍛えているのか体格が良く、顔立ちも良いため実年齢より若く見える。


「ってか、煙草吸った後すぐ部屋入ってくるなよな…」


 加えて、ヘビースモーカーで日常的に煙草をくわえている。今朝も一服した直後であったため、部屋にはまだ煙草の独特な匂いが残っている。寺義は少し不機嫌そうに手を鼻の前で振る。


 彼の名前は『粕見 寺義(かすみ てらよし)』。あだ名は"カステラ"である。


 "そのあだ名はあまりにも安直すぎる!"と、彼自身は良く思ってはいないようだ。年齢は17で公立高校に通う学生である。


 付け加えるのであれば、厳嶄は彼の里親であり、孤児院にいた所を引き取った経緯がある。


「おら寺義!!さっさと来いや!!あと10秒で来ないと朝食納豆ゼリーにすんぞ!」


 一階からドスの利いた声が届く。その内容を理解した瞬間、寺義は猛烈な勢いで部屋を出てドタドタと階段を下る。


 寺義が一階に着くと、先ほどの生活感溢れる空間から一転して、古風なカフェテリアが視界に広がる。


「納豆ゼリーはやめろって!」


 厳嶄の仕事は料理人であり、家の一階がカフェに改築されている。そのため一階は風情のある昔ながらのレンガ造りとなっている。レンガは全て黒色を使用しており、独特な雰囲気を醸し出している。


 広さはテーブル席が三つ、カウンター席が五つという小さな店であり、そのカウンター席が寺義たちの食卓兼用となっている。料理の味は美味しいと評判であり常連も多い。


「ハァ…間に合った」


 寺義は軽く息を整えながら自分の定位置であるカウンター席に座り、視線を前方のカウンター奥へ向ける。その視線の先では、厳嶄が背中を見せるようにして鼻歌交じりに朝食を作っている。


 具材が中華鍋の中で跳ねるような音を立て、料理の煙が立ち上る。食べ盛りの寺義は思わずカウンター越しに身を乗り出す。すると、香ばしい料理の香りが鼻を通り抜ける。


 それはこれから出来上がる料理の味を容易に想像させ、寺義は思わず笑みを浮かべる。

しかし、そんな上機嫌な彼を一瞬でに不機嫌にする声がかかる。


「チッ…行儀悪いわね」


 その声の主は、寺義の席からわざわざ一番遠くのカウンター席に座っている制服姿の少女である。面倒くさそうに片手で頬杖を突き、蔑むような視線を寺義に向けている。


 彼女は『粕見 紫音(かすみ しおん)』。


 厳嶄の実の娘であり、年は寺義と同じ17。整った顔にスラッとしたスタイル。茶髪をツインテールにしているその姿は、"見た目は"確かに美少女と言えるであろう。


「頬杖してるお前に言われたくないね」


 しかし、寺義は敵意すら込めた視線を紫音に返す。これほどの美少女を前に、まして食事を共にしようとしているにも関わらず、異様に不機嫌な寺義の態度は第三者が見れば不思議に思うかもしれない。


 しかし寺義のそんな様子は、粕見紫音という少女を良く知る者からすれば無理も無い話である。


「あたしはアンタと違って絵になるから問題ナシ。わかる?」


 さも当然という態度で言い放たれた紫音の発言。その意味を理解した瞬間、寺義の眉間に皺が寄る。



こんな可愛い女の子と暮らしてるなんて羨ましいと思うかもしれない。

だけど断言しよう、俺は全然嬉しくない。

それどころか、むしろ地獄だ。

中身が最悪すぎる。

コイツの性格は、一言で言うなら外道。

他人の不幸を喜ぶタイプだ。

中身は悪魔だ間違いない。



 短い時間で彼女の性格を再確認した寺義は、皮肉たっぷりに言い返す。


「本当に素晴らしい性格してんな」


「あっそ。言うことそれだけ?一人で起きれないお寝坊さん」


 そんな寺義の反撃にも、紫音は何事もないかのように受け流す。そんな態度が余計に寺義の苛立ちを増加させる。



この言い草…!

コイツはいちいち人の神経を逆なでしないと気が済まないらしい。

なんで朝からこんなヤツと一緒に食事しなきゃいけないんだ!



「はいはい。すいませんねお寝坊さんで」



俺はだいぶ昔に学習した。コイツとは張り合わない方がいい。

口ではかなわない。

コイツと喧嘩すると心が折れる。

なんせ中身が悪魔だからな。

見た目とのギャップが酷いなんてもんじゃない。

この見た目に騙されて精神をズタズタにされた男子を何人見たことか…

マジで同情するよ。



「お?喧嘩か?仲良しで結構だな」


 睨み合う2人を余所に、厳嶄はスラスラと料理を並べる。厳嶄の様子から、二人の口喧嘩は日常的な光景であることが伺える。


「ほら朝食だ。さっさと食ってさっさと学校行ってこい」


 カウンターに並ぶのは中華。酢豚に小籠包、餃子と炒飯。どれも出来たての湯気を上げている。


「うまそう!!いただきますっ!!」


 料理を見るや寺義は紫音のことなど忘れたように、すぐさま箸に手を伸ばす。そんな寺義の様子からも厳嶄の料理の腕が確かなことがわかる。


 そのため、カフェとして評価が高いことも納得ができる。シックな雰囲気のカフェであるのに、中華を出しているというミスマッチな点を除けば。


「ふん。食い意地張っちゃって。意地汚い」


 料理を満足そうに食べる寺義を見て、紫音はどこか不満そうだった。
















「ご馳走さま」


 寺義は食べ終わった食器を片付け、駆け足で部屋に戻る。そして制服に着替え、これまた急いで家を出る。


「気を付けて行って来い」


 厳嶄の見送る声を背に、店のドアを勢い良く開け放つ。来客を知らせるためのベルの音を聞きつつ、店の前に立て掛けている自転車に跨る。


「行ってきます!」


 その言葉と共に、寺義はペダルを思い切り踏み込む。何をそんなに急ぐのか、学校に向かって立ち漕ぎで爆走を始める。


「よし、アイツはまだ来てない」


 本来、寺義の家から学校までは自転車で普通に漕いで片道15分はかかる。その道を彼は6分半で駆け抜ける。そんな彼の登校の様子を疑問に思った厳嶄が、寺義本人に「競輪選手にでもなんのか?」と尋ねたことがある。


曰く─



"違えよ!

アイツと同じ時間に登校したくないからだ!

登校の時間くらいはあの悪魔を見たくない!"



とのことだった。


「ハァハァ…今日もぶっち切って…やったぜ」


 いつもの如く、彼は6分程度で学校の駐輪場へと到着していた。その表情は息を荒げながらもどこか満足げだ。当初は単純に紫音から逃れるために自転車をかっ飛ばしていたが、現在の彼は純粋に自転車の爽快感を楽しんでいる節もある。


 実際、彼は最近になってクロスバイクを手に入れ、今日もその愛機で通学路を駆け抜けていた。最早、彼自身も気づかない内に自転車が趣味になっていた。


「お、粕見じゃん。おっす」


 と、自転車の鍵をカチャカチャと厳重にかける寺義に背後から声が掛かけられた。


「おう」


 寺義が顔だけ向けると、そこには一人の男子学生がいた。

 

 彼の名は『山霧 寛司(やまぎり かんじ)』。クラスメイトからは通称ヤマカンと呼ばれたりもする。


 特徴的な丸い眼鏡をかけ、なにやらキャラクターの描かれたシャツを制服の下に着込んでいる。以前に寺義はそのシャツについて質問し、「お前にはまだ早い」との回答を受けていた。


 それ以来、寺義は深く追求しないことにしている。


「ま~たそのチャリ飛ばしてきたのか?」


 寛司は呆れたように笑った。


「まあな、タイム更新だ」


 そう言いながら寺義は満足そうに寛司に向き直る。そんな様子に寛司は鼻で笑って見せる。


「事故んなよ」


 寺義も飛ばし過ぎには注意していたが、改めて言われると危機感が足りなかったようにも感じた。


「まぁ気を付けとくわ」


「ならいいけどよ」


 と、そこにさらに別の声がかけられる。


「よっす!おはー!」


 底が抜けるように明るい声に、寺義と寛司の二人は声の主が誰かをすぐに理解した。


「ああ。おはよう」


「よお」


 二人が向いた先には活発そうな笑みを浮かべる制服姿の少女がいた。


 彼女の名前は『狩屋 綴美(かりや つづみ)』。友人からはもっぱら"つづみん"と呼ばれている。


 彼女は男子顔負けな程に運動神経が高いことで有名である。しかし、本人はそんなことよりも身長の低さを気にしており、日々隠れて身長を伸ばす努力をしているようだ。


 黒髪をポニーテールにしてるのは背を少しでも高く見せたいから、とのこと。気さくな性格でどんなヤツとも打ち解けられるタイプ、とは寺義の言葉である。


「あ!それがこの前言ってた新しい自転車?」


 綴美は寺義のクロスバイクに気づくと、興味深そうに近づいていく。


「まあな、中古だけど」


 そんな様子に気を良くしたのか、寺義は少し上機嫌な笑みを見せる。


「へ~、なんだか高そうだね」


「例のバイト代で買ったのか?」


 寛司の質問に、寺義は苦笑いを返す。


「いや、まぁ…そうなるか。実は一日のバイト代の代わりに中古の貰ったんだよね」


「え?てことはそれ、神織さんの?」


 綴美の言葉に、寺義は「そうそう」、と短く答える。


「でもさ、中古って言ってもクロスバイクだろ?一日分のバイト代なんかででよく貰えたな」


 不思議そうな寛司の表情を見て、寺義は微妙な顔になる。


「それがさ、最初はタダで譲ってくれるって言われてさ。さすがにそれは申し訳ないから、その日のバイト代の代わりにしてもらったんだよね」


「マジかよ。あの人やっぱ変わってんな」


 寛司は少し驚いたように目を広げた。


「神織さんて、寺義くんに凄く親切だよね~」


 一方で綴美は何の邪気もないように寺義に向き直って笑顔を見せる。その何気ない一言を聞いて、対照的に寛司は険しい表情になる。


「大丈夫か?何か裏があんじゃねーのか?」


 眼鏡の奥から訝しむ視線を送る寛司を見て、寺義も難しい表情になる。


「う~ん…理由を聞いても、"恩は恩で返さないといけないから"って良くわからないこと言うんだよな」


「なんだそりゃ?」


「まあいいじゃん!きっと親切な人なんだよ!」


 純粋過ぎるともいえる綴美の発言に、寛司は飽きれたようにため息をつく。


「あのな狩屋、理由がない親切ほど怪しいものはねーんだよ。お前は呑気すぎだし、もっと人を疑うことを覚えたほうがいい」


「なによそれ!どういう意味!」


 綴美は怒ったように寛司に迫る。が、身長差から見下ろされる形となってしまい余計に不機嫌さを増した様子だ。


「そのまんまの意味だって」


 対して寛司からは、プンスカという効果音が聞こえてきそうな様子で必死に見上げてくる綴美は、どこか小動物のように見えた。


 そんな様子に、無意識に笑みを零してしまう。それがさらに綴美の怒りに油を注ぐ。


「ちょっと!なに笑ってるの!?」


 綴美は怒り心頭といった様子である。しかし、その容姿からどこか可愛らしく見えてしまう。寺義も二人の様子を見ていて笑いがでそうになるのを抑えていた。


「まあいいじゃん。そろそろ教室行こうぜ」


 そのため、早々に話を切り上げることにしたのだった。綴美と寛司の口喧嘩は結局教室まで続き、寺義は終始板挟み状態であった。
















「遅いじゃないか粕見寺義」


 教室に入り、自分の席に着席した寺義に背後から声がかかる。


「はいはい。おはようさん」


 寺義は挨拶を返しながら椅子を回して振り返る。そこには髪をオールバックにセットした男子学生の姿があった。


 彼の名前は『首麗 因果(しゅれい いんが)』。


 冗談みたいな名であるが、これは確かに彼の本名である。寺義を含めクラスメイトは彼をインガと呼んでいる。


 両親が学者であり、そのため名前を著名な物理学者から取ったらしい。本人もまんざらではなく、将来は研究者を目指しているとのこと。


「そうだ粕見、知っているか?明日から我が国が誇る世界最大の粒子加速器、GHCが運転を開始するぞ」


 因果は拳を握りしめ、どこか興奮気味に語りかける。


「ああ…そういえばニュースで見たな」


 寺義はそんな様子を気にした素振りも見せず、昨日たまたま見ていたニュース番組の内容を思い出しながら呟いた。その何気ない一言は因果の熱をさらに増長させることになる。


「さすがは粕見と褒めてやろう!この実験の重要性を理解していたか!!」


「いや…だからテレビでちらっと見ただけで…」


 寺義の言葉は最早因果には届いていない様子だ。


「まずだな、この加速器の何が凄いかと言えばその出力だ。従来型では一点に収束できるエネルギーに限界があった。しかし!このGHCは違う!仮に高次元空間があるとした場合、その証明を間接的に─」


 因果の熱は最高潮に達したようで、一人で語り出してしまう始末である。そんな様子に、寺義は諦めたような表情となる。



ああダメだ…

こうなったインガは止まらない…

もう俺なんか関係なしに一人で語り出しちゃってるよ…



「粕見、この科学バカはほっとこうぜ」


 と、そこに先ほどまで綴美とモメていた寛司が割り込んで来た。寺義の机に腰掛け、片手でボールペンをくるくると回している。寺義にしてみれば救いの手である。


「インガの話は長いからね」


 さらに綴美も同意の声を上げる。どうやら口喧嘩は一息ついたようだ。


「そうだ。明日英語のテストだよな?」


 一人で語っている因果を余所に、寺義は思い出したように声を上げる。その発言に、露骨に顔を歪める寛司と綴美。


「うわ~。思い出させんなよ」


「六割以下は追試でしょ?やだな~」


 そんな二人を見て、「こいつら勉強する気ゼロかよ…」と白い目を向ける寺義であった。



まぁつづみんは勉強全般が苦手だからな…

寛司のヤツもパソコン関係以外は弱い。

インガは理系科目は学年トップレベルだけど…それ以外はからっきしだ。

そういう意味では俺は普通だ。

全科目が平均ちょい上くらい。

まぁ普通だな。



 その後も寺義たちはしばらく駄弁っていた。その時─


 ゆっくりと教室のドアが開く。入ってきたのは紫音だった。その足取りは上品なお嬢様とでも形容すべきもので、一挙措それぞれが落ち着いた優雅さを醸し出している。


 そんな雰囲気に教室の全員が自然と注目を向ける。クラスの全員が一種の憧れのような視線を送る中、寺義だけが敵意を露わにする。


「…紫音か」


 寺義が露骨に不機嫌そうな視線を送っていると、不意に紫音と視線が交差した。


「あらおはよう」


 もしこれが家であれば、舌打ちの一つでも飛んで来ようものだ。しかし、紫音から返ってきたのはなんと穏やかな笑みである。


 それを見て、寺義のこめかみには無数の青筋が浮かぶのだった。その胸中に満ちるのは視線の先に映る少女への憎悪である。



アイツ…優雅に席に着きやがって…

今日も見事に猫を被ってやがる。

それなのにクラスの奴らは全く気付いていない…中身は悪魔だってのに。

俺がいくらアイツの本性を話そうが誰も信じやしない…



 粕見紫音という少女は、自宅と外での態度が全く異なる。学校においては、横暴な態度は一変し清楚な少女へと変身を遂げている。


 気品溢れる身のこなし、持ち前のルックス。学校では正にアイドルかのような扱いを受けている。


「わぁ~紫音さんだ。今日も素敵だなぁ」


 それを代表するように、綴美が羨望の声を上げる。それを聞いた寺義は大きなため息を吐いてから、綴美に半ば諦めを含んだ視線を送る。


「つづみん、アイツの本性知ったらそんな事思わないはずだよ…」


「とか言ってさ、あの紫音ちゃんと暮らしてんだろ?羨ましい。てか許さん」


 寺義のささやかな抵抗は空しく、今度は寛司が寺義に嫉妬の声を上げた。その目は本気で妬んでいるようで、寺義は再びため息をつくしかなかった。



寛司もダメだ。

みんなが騙されてる…

だが覚えてろよ!

いつか化けの皮剥いでやるからなっ!!



 寺義は心の中で紫音への対抗心を再度燃やすのであった。


















 そうして学校が終わり、放課後となる。運動部の活動が始まったのか、グラウンドには掛け声やボールが跳ねる音が響き始める。そんな中、寺義はそそくさと荷物をまとめ校舎を後にする。


 彼は部活に入ってない、所謂帰宅部である。彼が部活をしていないのは色々事情があり、一つにはバイトをしているということが挙げられる。



オッサンには迷惑かけっぱなしだからな。

生活費くらいは自分で稼がないと。

オッサンはああ言ってくれたけど、そうもいかない。

今日もバイトだ。



 そう意気込んで寺義はクロスバイクへと跨る。一度、寺義は厳嶄へ生活費としてバイト代を渡そうとしたことがあった。その時の厳嶄の顔は、今でも寺義の中で克明に刻まれている。



"ふざけんな寺義!!いいか!?二度とこんな真似するな!!"



 そう叫ぶ厳嶄の表情は激しく怒っていたが、なにより寺義からは悲しそうに見えた。


 それ以来、寺義は彼にバイト代を渡すことはしなかった。しかし、このままでいいはずがない、そう思う寺義は自分のために使うと嘘をつき、今もバイトを続けている。


 その貯金は卒業と同時に厳嶄に渡そうと思っているのだった。尤も、彼も年頃の学生である以上、一部は漫画等に消えているのはご愛嬌である。


「今日は早く着けそうだ」


 クロスバイクを漕いで向かうのは街の外れにあるボロい鉄筋コンクリート製の建物。寺義はいつもの道を駆け抜ける。


 まずは急な登り坂。「よし」、という呟きと共に寺義は立ち漕ぎのフォームを取る。自転車を左右にダンシングさせ、一気に駆け上る。


 坂の終盤になると、寺義の額には汗が滴る。そして最後の追い込み、歯を食いしばり息を荒げながら頂上へと到達する。一度も足を付かずに一気に登りきる、それが寺義の自分ルールであった。


「…ふう」


 そして次は下り坂。坂の頂上からは下に向かって緩やかな下りカーブが見え、少し先には海が見える。見える建物はほぼ全てレンガ造りであり、そのオレンジ一色の光景は美しい。これには理由が存在する。


 寺義の住んでいる街は中規模の港町である。約20年ほど前までは財政赤字に陥っていた小さな街であったが、都市再生計画によって一転、急速な成長を遂げた場所でもある。

 

 当時はニュース等でその異様な回復について財源等の不透明さが報じられることもあったが、最近では観光産業へ特化したことによるものとして、メディアで取り上げられることは無くなった。


 そのような経緯があり、この街は再生の際に都市計画が決められていて、観光産業の充実として港に映えるレンガ造りの建物を主体に新たに発展した。


 つまり見渡す限りほぼ全ての建物がレンガ製である。寺義の家も学校もレンガ造りである。例外は都市計画前に建てられ、今も現存する建物だけである。


「よし!」


 寺義がペダルを踏み込むと、自転車は寺義もろとも重力で加速していく。寺義はここで一気にスピードに乗る。その瞬間に感じる潮風は心地良く、寺義はその爽快感に身を委ねる。登り坂での疲労が一気に吹き飛ばされる気分になる。


 その先は平地であり、寺義は悠々と目的地に到着する。到着したのはオレンジ色の中にポツンと建っている灰色の建物。レンガ造りが大多数である中、鉄筋コンクリート製は一際目立つ。寺義はその前に自転車を止め、鍵を掛けてからドアをノックする。


「こんちは~。バイト来ました」


「あ、今ちょっと…いや、まあいいか。入って」


 中からの返事を聞いた寺義はドアを開けて建物に入る。相当年期が入っているのか、ドアの蝶番が耳障りな音を出す。ここまでで既に入りたくない場所であるが、中はもっと凄まじい様相である。


 建物の中は倉庫のようになっており、作業台や工具が散乱している。さらに、床には得体の知らない電子部品やら薬品やらが所狭しと転がっている。


「おっと!まって寺義君!足元注意!!そこにあるのを踏まないで!!」


「いや…踏むなって言われても…」


 文字通り足の踏み場もないんですけど、と寺義は小さくぼやく。


「そのビンには神経系に影響を及ぼす液体が入っているんだ。誤って踏んだ場合、3日ほど痺れて動けなくなるよ?」


「そんなものこんなとこに置いておかないでくださいよ!!」


 そんな寺義の本気の叫びに「ごめんごめん」と笑いを返す妙齢の女性。


 この白衣を着た長身の女性は『神織 真理(かみおり しんり)』。

 

 年は25で、大学院を短縮で卒業したとのことである。特徴的なのは髪が灰色という点である。色素が抜ける年齢でもないので、不思議に思った寺義が「その髪似合ってますね。染めてるんですか?」と尋ねると、「まぁそういうことにしておいて」と曖昧な返事が帰ってきたのだった。


 しかし実際、灰色のショートカットは彼女に似合っており、美しい女性であることは間違いない。ただし、その住居には美しさの欠片も見当たらない。


 また、彼女は寺義の雇い主であり、職業は自称天才発明家。バイトを雇えるだけの経済力があるようだが、何をやっているのかは寺義でさえわからない。寺義はいつも適当に散らかった機材を片付けたり、掃除したりしている。要は雑用である。


「そういえばあのバイクはどうかな?」


 真理は特に悪びれた様子も無く、入口付近にやってきて青色の液体の入った試験管を拾う。


「あ、凄く速くて乗りやすいですよ。今日も乗って来ました」


 試験管に注意を向けていた寺義は、一瞬遅れて返事を返した。それを聞いた真理は「それは良かった」と人の良さそうな笑顔を見せる。


「でもホントに貰って良かったんですか?すごく高そうだし」


「フフ、君は本当に真面目だね。いいんだよ。どうせ私はもう乗らないからね、私が持っていても腐らせてしまうだけ」


 そう言って真理は白衣のポケットに試験管を仕舞い、建物の奥へと戻っていく。その後姿を見ながら「でも」と言葉を続けようとする寺義。そんな彼に、真理が向き直る。


「それに自分で言うのもなんだけど、この研究室(ラボ)を片づけるのは、あのバイクと等価くらいには重労働だと思うな」


 真理は両手を広げ、部屋の中の有り様を眺める。つられて寺義も辺りを見回す。確かに、至る所が物置のような有様であり、一言でいうなら"カオス"である。これを整頓するのは骨が折れる作業であるだろう。


「…確かに」


 思わず納得した寺義を見て、心理はニッと笑みを見せる。


「さて、バイト君。早速片付けをお願い」


「了解です」


 そうして寺義は今日も混沌とした自称研究室を掃除するのであった。






















 バイトが終わると彼は家に帰り、即行で布団へ潜る。今日も粕見寺義の1日は終わった。


「明日も学校かぁ。もう寝よう」


 強烈な眠気によって視界は直ぐにブラックアウトする。そして彼は意識を手放した。


 明日も、今日のような普通の毎日が普通にやって来ると信じて。


 しかし─


 この時の彼はまだ知らなかった。


 これから認識する信じ難い世界を。





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