噺拾いと拾われる物語

久環紫久

第1話「ドラゴンの見る夢」

 ワカドカ国を南方に進むと、竜の渓谷がある。連なる山々が寝そべった竜の背のように見えるから——だったり、そこは竜が住まう渓谷ゆえにそう呼ばれるとされたり——伝聞は確かにそこに多くあるようだった。

 木々の鬱蒼と生い茂る山道を行けば、その渓谷は姿を現した。まるで早朝、陽がのぼるように現れた荘厳たるそれは、一目見ただけでワトの心を躍らせた。

 背の方で木々がワトの背中を押すようにさらさらと葉を鳴らす。

 ふう、と息を吐いて、額に浮かんだ汗を袖口で拭った。あちい。体に合わずぼわっとしたサイズの大きな身の丈を全て隠すくらいのコートを着て、頭にニットのような帽子を被ったワトは休憩をしようとそこに腰を下ろした。

 ちょっと休憩、と呟いてリュックを下ろす。その中からドイルの木から作られた水筒を取り出して一口水を飲んだ。全身に染み渡る。生き返ったような気がした。

 ワトの眼前に広がるのは岩山と、所々にオアシスのようにある深い緑の木々だった。一応ここは活火山が点在する場所であり、もしこのタイミングで地震でも起きて噴火でもしてみようものなら、ワトの体は流れ出る溶岩に飲み込まれ、跡形もなく消えてしまうだろう。

 そんなことになりませんように、とメツナ神に願掛けをして、ワトは立ち上がった。

 ついに『竜の渓谷』に足を踏み入れた。ぞわぞわと全身に鳥肌の立つ感覚があった。これがたまらない。ワクワクが心臓を銅鑼のようにゴンゴンと叩き鳴らす。これがたまらない瞬間だった。そして、これからがワトにとって幸せな時間の始まりだった。

 今回自分が拾うお話は一体どんなものなのだろう。考えても考えても様々な憶測が頭の中を飛び交ってまとまらず、脳が作り出していく空想の世界がワトの中で膨らんでいく。

 不安定な足元を捻挫しないように踏み外さぬようにと飛ぶように進んでいく。ゴロゴロと転がったこの大小様々な石、岩たちは、どれほど前に噴火したときの忘れ物だろう。聞いた話ではかれこれ三百年ほど昔に一度大噴火があったらしい。ここにある活火山が連携を取ったようにドンドンドンと溶岩を吐き散らしたらしいが、その名残だろうか。

 それにしても、所々にある木々の命の強さに感動を覚えた。これほど、育生していくのに大変な環境に置かれながらも、地下にある少ない栄養をその根からしっかりと吸収して葉を見事な緑色にして広げている。

「すごいなあ」

 ワトがぽつりとそう漏らした。エノを連れてくればよかった、と思う。彼女の描く絵はまるでその風景を切り取ってしまったかのような美麗さで、細やかな部分まで彼女の筆が描きだしている。彼女なら、きっと今の自分が見ている風景を、あっという間に白い紙の上に映し出すことが出来るだろう。

 話を聞くだけで、知るだけで、思い描くだけで満足ではあるけれど、時折、記憶に刻んだ景色を自身の中のみならず、何か形に残しておきたいと思うことも多かった。けれども、エノはワト以上に自由人であるから、今どこにいて、何をしているのか見当がつかない。いや、何をしているかは見当がつく。絵を描いているのだ。こうして、ワトが何か話を拾いに行くように、エノは何か風景や人物を拾いに行っているのだ。

 急勾配になっている道なき道を進む。ずるりとポーの革で作られたブーツが滑った。危ない! と手を前に突き出してどうにか体を叩きつけぬように止まる。

「もっと体力つけなきゃなあ」

 ぱんぱんと手やぼふっとしたコートについた砂屑を払って落し物がないか確認する。ぎゅうぎゅうになったリュックはその質量を減らすことなく、今もワトの背中にある。一度それを下ろして、周りを見て確認するが、問題はなかった。よしよしともう一度リュックを背負いなおして再び歩く。山と呼ぶそれは登りながら近くで見てみれば岩が重なってできているのが分かった。

 一心不乱に登っていると、目の前に木々の生い茂るポイントがあった。あそこで小休止しようと決めたワトの脚が心なしか早くなる。あと少し。あと少しで木陰で休める。

 もう少し。もう少しで足を休めることが出来る。

 と、その時。今まで止まることなく地を踏みしめていたワトの右足が宙に浮いた。あれ、と小首を傾げた時にはもうワトの体はぽっかりと空いた穴の中をごろごろと転がっている最中だった。うわわとワトの悲鳴が穴の中を反響していく。

 ごろごろごろごろと転がって、数十秒ほどで終着点にたどり着いた。ワトはぐへっと息を漏らして干からびたアガサガエルのように突っ伏していた。

 全身を打ってひどく痛い。肘や膝を摩りながら辺りを見渡したが、どうやらここは洞窟のようになっている中の、広場のように開けた空間のようだった。頭上には大きな穴が開いていて、空が見える。しかし空を飛べないワトはそこから出ることはかなわない。その穴から光が差し込んで、宝石の原石たちがきらりきららと輝いて明かりの代わりになっている。穴よりも空間のほうが広いから鉱石たちが照らしていても辺りは少し薄暗かった。

 その原石たちに目を奪われていると、ぐららと地が揺れた。もしかして地震かとワトは身構えた。

「どけ」

 揺れが収まって短く、空間を一杯にするくらいの声がした。重たくて、ずしりと鼓膜を揺らす声だった。どこからしたのだろうと辺りをもう一度見渡して、ワトから数メートルほど離れたところに目が見えた。大きな目だ。ワトの頭ほどもある。いや、もっとあるかもしれない。爬虫類の目だった。

「どけと言っている」

 ごめんなさい、と頭を下げてワトはその揺れた地から滑って、本当の地に降りた。今までワトが尻をついていたところはその目の持ち主の背中だったらしい。

「もしかしてあなたがドラゴンさんですか?」

 ワトはきらきらと原石以上に目を輝かせていた。目の前にいるのは伝承にも多く記される存在――ドラゴンだった。竜の渓谷は、伝聞の通り竜の住まう渓谷だったのだ。岩のようなごつごつとした固い皮膚に、ワトよりも大きな爪、蛇や鰐のような長く伸びた口元、そこに光る数々の牙、そして今はぱたりとまとめられているが、広げればこの空間を全て覆うであろう翼。伝聞にある竜の姿形と一致していた。

「もしかせずともあなたがドラゴンさんですね?」

 ふふふとワトは笑った。

「先ほどは失礼いたしました! 初めまして、僕はワト。ワト・シナハと言います! 伝聞拾遺使でんぶんじゅういしという仕事をしておりまして、今日はあなたのお話を聞かせていただきたく、ここまで参りました! いやあ、まさか本当にドラゴンさんが存在しているだなんてここまで来たかいがありました! こうして出会えるなんてとても恐悦至極、感謝の極みですよ!」

 鼻をふんふんと鳴らして鼻息荒く拳を握るワトの姿があった。

 その姿にドラゴンは驚いた。なんなんだこの人間は。

「お前は儂が怖くないのか」

「ドラゴンさんは怖いのですか?」

「え」

 ワトは小首を傾げてドラゴンに質問を返した。

「いや、儂は別に怖くないが。儂はドラゴンだから、中には怖いと思う者も多いだけで、別に儂自身が怖いことはない、と思うが……」

「そうですよね! それにもしドラゴンさんが怖い方だとして、万が一僕のことを飲み込んだとしても僕は満足です」

 にこにことワトは言い切った。

 なんだこいつ——というのがドラゴンの素直な感想だった。生まれてこの方、竜の渓谷を出たことがないが、いつだってここにやってくる人間たちは自分の姿を見ては逃げて去って行く。果たしてこいつは逃げて行った連中と同じ人間なのか、と疑問に思えてきた。

「それで、さっそくなんですが、ドラゴンさんのお話を聞かせていただけませんか?」

 ドラゴンの目の前でワトがそう言ってその場に腰を下ろした。会って間もないというのに何を言い出したかと思えば何か話せという。わけがわからなかった。

「話、と言われても、何を話せばいい」

「なんでもいいですよ! 人を食ったとか、村を燃やしたとか!」

「儂はそんな物騒なことはせん!」

 咆哮が空間を揺らした。きいいいんと鼓膜が騒ぐ。ぐらぐらと岩壁が揺れた。ワトは初めてドラゴンの咆哮を受けた。全身を押しつぶすような圧力があって、圧倒される。

「すごい……! すごいですよドラゴンさん! もう一回今のやってもらってもいいですか!!」

 立ち上がったワトはさっき以上に目を輝かせて、パンパンに膨れたリュックを漁ってペンと紙を取り出した。

 目を歪ませてドラゴンはワトを見た。

「お前は一体何者だ」

「ワトです!」へへとワトが笑う。

「そうじゃなくて」ワトがうーん? と考える。

伝聞拾遺使でんぶんじゅういしです!」

「人間か?」聞かずにドラゴンが尋ねた。

「人間です! 僕、そんなに変な格好してますか?」

「頭が変だ」

「失礼です! でも、初対面のドラゴンさんにまで言われちゃうとそうなのかな……」

「他の者にも言われたことがあるのか」

「はい、幼馴染とか、知り合いには度々言われます。お前は変だって」ワトは困ったように苦笑いした。

「ならば変なのだろう」

「そうなんですかねえ……まあいいや、それでドラゴンさん! お話を聞かせてもらえませんか?」

 どういうことなのだ。話とは、いったいなんだ。ドラゴンは困った顔をした。

「お前は儂に話せというが、儂は今まで独りだったのだ。何も話すことはない」

「両親はいないのですか?」

「知らぬ。恐らく竜という生き物は、独りで生きるものなのだ」

「なぜ?」

「独りで生きるものだから、と言ったろう。他の竜の在り方は知らぬ。が、儂はそうして生きてきた」

「じゃあ、どうしてここにいるんですか?」

「ここしか知らぬからだ」

「ここから一度も出たことがないのですか?」

「ない。出る必要がない」

「ご飯とかは?」

「そもそも儂は飯を食わぬ。魔力で補える。ここはマジックスポットなのだ。ここにいれば腹は減らぬ」

 へえ、と目をぱちくりさせてワトは紙に何か書き込んでいる。

「これで十分か?」

「いえ、まだまだです!」

 はあ、とドラゴンはため息をついた。目の前のこいつは一体何を話せば帰るのだ。

「ドラゴンさんは夢とかありますか?」

「夢とはなんだ」

「希望です。願望とか、何かこうしたい、というものはありますか?」

 ふむ、とドラゴンは目を閉じた。願望、か。気恥ずかしいものならあった。が、それは今叶っている。

「一度、人と話してみたかったのだ。それはもう叶った」

「僕なんかでいいんですか?」

「お前以外は話しかける前に逃げた」

 ありゃりゃ、とワトは頭を掻いた。

「もうひとつ、あるが……」

「教えてください!」

「嫌じゃ」

「どうしてですか!」憤慨したようにワトが鼻を鳴らした。

「また来たら話そう」

「わかりました」

 意外と物分かりがいいのだな、とドラゴンは目を見開いた。

「必ず来ますから! その時はちゃんと教えてくださいね!」

 ワトはリュックを背に負いなおしてそれじゃ、とすたすたと歩いていった。洞窟の通路のほうまで歩いていくと、一度振り返って、「絶対ですからね!」と念を押した。なんとなく、ドラゴンが笑ったような気がして、ワトは満足して再び歩きだした。ドラゴンはその背中を見ていた。すぐに見えなくなってしまったが、それでもずっとワトの歩いていった方向を見続けていた。その方向から足音がたつりたつりと足音が響いている。洞窟に響くその足音が遠くなっていった。

 遠く小さくなっていく足音を聞きながら、果たして、彼はもう一度ここに来るだろうかと考えた。いくら今まで見てきた人間たちとは違うと思えども、誰がもう一度好き好んでここにやってくるというのだ。

 ドラゴンは知っていた。ここは人間にとって住みやすい場所ではない。他の動物もそうだ。活火山でいつ噴火するかもわからないし、何か食糧があるわけでもない。それに、ここに好奇心でやってきてはこの姿を見てどこか自分の住処に逃げ帰っていく。

 遠くなっていくワトの足音を聞いて、少し寂しくなった。初めて会話をした。自分とは別の生き物と初めて言葉を交えた。それは思っていたより、心を充足させるものだった。なんだかわからないが、心臓の近くで厚みのある何かがそこに溢れていくような感覚があった。なのに、ワトが去って行ったとき、今までに感じたことのないほど、体から何かが抜けていく気がした。エネルギーのような、自分のこの巨大な体を支えるものが、自分の体のどこかに穴が空いてしまったかのように見えないけれども消えて行ってしまうような、不思議な感覚だった。

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