第20話Vanishing Point 2
メッセージが始まって15分、そろそろ今日の説教の核心部分になる頃だった。博美の携帯が振動した。 職場でも教会に行っていることはみんなに話してあるし、日曜日の午前中は電話しないようにも言ってある。ごそごそと鞄の中から携帯を取り出そうとした博美に横にいた明日美が、耳元で
「お母さん、礼拝中は電源ごと切っておいた方がいいよ。宣伝メールとかもあるからさ」
と言いながら母が取り出した携帯の着信元を覗き込む。
「あ、寺内のおばあちゃん」
しかし、着信元を示す表示はメールでも単なる電話番号でもなく、寺内の義父の名前になっていた。とは言え、普段かけてくるのは圧倒的に義母だから、明日美もすぐ祖母からの電話だと思ったのだろう。
何か緊急な用事でもあるのだろうか。寺内家の人間なら、博美が今教会にいることをよく知っているはずだ。だからこれはそれを押してまで電話をかけてくる用事だということだ。
博美はすばやく携帯を持って礼拝堂を出、着信履歴から寺内の実家の番号を選択する。
「もしもし」
「もしもし、博美ちゃん?」
「ええ、何ですかお義母さん」
電話がつながると、いきなり衛の母の慌てた声が聞こえてきた。しかもどことなく涙声である。
「す、すぐに帰ってきて。衛が……死んだの」
マモルガシンダノーーそう耳には確かに聞こえてはいたが、博美はその言葉の意味を理解できずにいた。ほんの数時間前まで一緒にいて、一緒に出てきた。連休だからこっちに帰ってくると言った博美に、
『なら、早めに仕事を片づけてお前の帰ってくる昼過ぎには戻ってくるよ。一緒に買い物に行こう』
と言っていたのに。
「とにかく、今すぐウチに来て。徹が迎えに行ってるから」
「はい」
帰って来いの言葉にとりあえず返事だけをした。博美は携帯の着信を切って、力なくその腕をだらんと伸ばしたまま礼拝堂に舞い戻る。
「博美ちゃん、どうかしたの?」
戻ってきた彼女が顔色もなく立ち尽くしているのを見て、中野牧師の妻絵里子が声をかける。
「衛が……」
その時、マモルガシンダ、そのただの文字の羅列が一気に博美の中で衛が死んだという言葉に変換された。
「いやーっ! 衛!!」
博美はそう叫びながら、わなわな床に崩れた。
「博美!!」
「博美ちゃん!!」
絵里子や博美の父が慌てて彼女に駆け寄る。
「衛君がどうしたんだ!」
「衛が、衛が死んだって……お義母さんが早く帰ってきて欲しいって……」
博美のその言葉に礼拝堂が一気にざわめく。すると、
「じゃぁ、すぐにいってあげなくちゃね」
と言った絵里子の隣に座っていた中野が、すくっと立ち上がり、
「安藤先生、『あれ』はまだあそこに?」
と言った。
「ええ、ちゃんと置いてありますよ。まさか『あれ』を使うことになるなんて思いませんでしたが」
と安藤が答えると、
「じゃぁ、私が行きますから、先生は礼拝を続けて下さい。さぁ、博美さん私と一緒に寺内さんのところへ行きましょう」
その言葉に顔を上げ不思議そうに中野師を見る博美に、
「私は寺内さんのご両親にご相談があるんですよ。寺内さんのところへ連れていってもらえますか」
と優しい笑顔でそう返した。
博美と中野は博美の父の運転する車で急遽寺内家に向かった。
「博美ちゃん!」
寺内家に着くと、衛の姉、君枝が彼女らを迎えてくれた。
「事故? 今朝はあんなに元気だったのに……」
「ああ、最近時々衛の所に行ってくれてたんだってね。会社で倒れてて……会社の人が発見したときにはもう、死んでたそうよ。心筋梗塞だって」
「心筋梗塞……」
間に合わなかった。あんなに膨れ上がった衛を見た時、こうなることを怖れて、糖尿病や高血圧、高脂血症などの生活習慣病の対処法の本を読んで必死に勉強していたのに……こんなことになるんだったら、仕事なんかかなぐり捨てて、衛のアパートに押しかけて一緒に生活してしまえば良かった。博美はそう思った。
「さっき徹から連絡があったの、もうすぐ警察から帰ってくるわ。で、相談なんだけど、博美ちゃんが喪主になってくれないかしら。本来ならお父さんなんだろうけど、お父さんにあの歳になって息子の喪主をやらせるのはさすがにつらくて……」
だが、続く君枝の『喪主』の言葉に、博美は俯きながら頭を振った。
「寺内に籍のない私がやるなんてそんなことできないよ」
そうだ、私は名前こそ寺内だが、寺内の人間ではない。
「でも、聞いたんだけど、そろそろ衛とよりを戻そうって話出てたんでしょ?」
「……」
博美が口ごもっていると、中野師が君枝に頭を下げた。
「寺内さん、はじめまして。私は、教会の中野と申します。その寺内さんの告別式の事でご相談があります」
「何でしょうか」
「寺内さんは生前教会での告別式を希望しておられました。これを見て下さい」
中野は、一通の書類を取り出した。それは内容証明郵便で、中身は衛の『遺書』だった。そこには貯金などの財産を博美と明日美に相続させること、葬儀を教会ですることなどが書かれていた。
「実は、今月末のペンテコステに、彼は受洗を予定していました」
「私、聞いてない!」
その言葉に、君枝ではなく博美が反応する。
「ええ、博美さんをびっくりさせようと、内緒で洗礼準備会をしていましたからね。それに、寺内さんはここ半年ばかり、祈祷会にはちゃんと出席していたんですよ」
確かに祈祷会は平日だが。休日まで仕事に勤しんでいた衛が祈祷会に出席する時間があったなんて……そう言えば、祈祷会のある水曜日は、ノー残業デーだとちらっと言っていたことを思い出す。
『今の世の中、おいそれと仕事をさせてもくれないんだよ。何かというと時短だと言われる。だから、働きすぎなんて心配しなくて良い』
そう言っていた衛。
「衛、祈祷会で寝てなかったですか」
思わずそう聞いてしまった博美に、中野は軽く吹き出すが、すぐ真顔になって、
「いいえ、博美さんも解ってると思いますが、祈祷会は礼拝に比べて出席者は少ないし、それぞれ一言は祈りますからね、寝てなんかはいられないですよ。それに、寺内さんは本当に救いを求めてましたよ。灯台下暗し、得てして家族が一番その方の救霊に疎いものです」
といった。
「私は……私は彼の家族じゃありません」
家族という言葉に博美は頭を振りながらそう返した。
「今は、でしょ? 寺内さんは、ペンテコステの受洗が終わったら、その上であなたに『もう一度一緒になって欲しい』と言うとおっしゃってた。私はその日が来るのを本当に楽しみにしていたんですよ」
それに対して中野は、博美の肩を軽く叩きながらそう言った。
そう言えば衛は最近、ふと黙り込んでしまうことがあった。博美が心配して声をかけると、何故か赤い顔をして
『心配しなくて良い』と言ってそっぽを向く。あれは、もしかしたら祈っていたのではなかったのか。衛が信仰を持ち始めていると思ってもいなかった博美には、その変化に気づきもしなかったのだが、そう言えば言葉の端々に聖書のみことばに似たニュアンスがあったような気がする。普段、全員が信者の中で暮らしている彼女には、そういう考え方をするのが当たり前で、特に気に留めもしなかったのだ。まさに、『灯台下暗し』だ。
衛の『躓きの石』になっていたのは他でもない自分なのだと気づいた博美は、次の瞬間その場に泣き崩れた。
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