第12話愛しているからこそ

 子供は博美自身が体調に気を配ったこともあったが、さしたることもなく出産を迎えた。

 ただ、全く順調な訳でもなかった。博美の血圧は陣痛を迎えてからいきなりあがり始め、出産直前には167になった。そして、帝王切開も視野に入れようとした矢先、ほどなく博美は女の子ー明日美を産んだ。

「とにかく無事に生まれて良かった。けれど、出産直前の血圧の急激な上昇。これは、明らかに妊娠中毒症の兆候だよ。妊娠中毒症は、第一子より第二子、第三子と、出産を経るほど重くなる傾向があるから、いいね」

鹿島は、博美にそう言って今一度念を押した。


 そして、明日美が生まれて一年近くの日が経とうとしていた。博美は出産後から未だ衛の夜の誘いを断り続けている。

 衛には明日美に手がかかるからそんな気にはなれないと言っているが、彼女の本心は別のところにあった。


 博美は出産後、重度の妊娠中毒症のもたらす弊害を調べた。出産した直後、けろっとしてしまう場合も多いが、中には重篤な症状に陥って、植物状態や死に至るケースもある。

 特に、最初に妊娠中毒症に罹った場合、その子供を出産後間を置かないで次の子を妊娠すると、重症化する場合が多いという。

 もちろん、出産直前の血圧上昇は衛も知っていて、既に鹿島は衛にも釘を刺していたから、夫は避妊具を用意して待っていることも知っている。鹿島に頼めば経口避妊薬も処方してくれるだろう。

 だが、そうして万全を期して夫婦生活が、『快楽だけの性』のような気がして受け入れられないのだ。『夫婦のコミュニケーション』として重要なのかもしれないが、肉の欲に駆られているような気がする。『生めよ増えよ地に満ちよ』の聖書の言葉に逆らっているように思える。最後までいかず外に出してしまったために、神様の罰を受ける者がいた架所を思い出す。

 そして、そのことを薄々感づいているのかもしれない衛が自分に対して、

「いいよ、別にエッチがしたくて博美と結婚した訳じゃねぇから」

とささやく言葉も、博美の心をチクチクと刺し続けたのだった。


 夫婦のつながりは性行為だけではない、それは博美にも解っている。でも、衛が選んだのはなぜ自分なのだろう。もっと他に相応しい人がいるはずだと思ってしまう。

 そして、博美の口からは明日美のその日の様子以外の言葉はなくなった。衛も博美に無理には話しかけなくなっていった。帰宅時間は徐々に遅くなり、新婚時代には決してしなかった休日出勤もするようになり、博美は明日美と二人きりで過ごすことが多くなった。


「ほら、テラさん、家に着きましたよ」

忘年会の日、衛は俊樹ともう一人北村冴子という女性に支えられて帰宅した。

「すいません、わざわざありがとうございます」

「いえいえ、テラさんにはいつもお世話になってるっすから」

そう返す俊樹の呂律も些かあやしい状態だ。

「堀木さん、大丈夫ですか?」

博美が心配してそう尋ねると、

「俺? 俺は大丈夫っすよ」

俊樹は博美の言葉に敬礼して答えた。一方冴子は

「私がこれから送りますから。では寺内さん、失礼します」

と、衛ににこやかにほほえんだ後、ちらりと博美を見た。衛に向けた視線とは対照的な刺すようなもので、その視線に博美はうっすらと寒気すら感じた。

 

 それから寺内家に、博美がとると無言で切れてしまう電話がかかってくるようになった。衛が家にいるときにはかかってこないので、博美が怯えているのが衛には今ひとつ分からない。

「俺がいる時にかかってきたら、間髪入れずがつんと言ってやるから」

と言って笑ってやることしかできない。


 そんなある休日、衛たちは近くのショッピングモールに買い物に出かけた。久しぶりの買い出で心なしかいつもより会話も弾む。

 しかし、そんな衛の表情がある一点を見て固まった。衛は、

「なぁ、ちょっと用ができたから、そこの〇×ドーナツで待っててくれるか。すぐ戻ってくる」

と言うと博美の返事も聞かずにはしっていった。博美は追いかけたい衝動に駆られたが、明日美のベビーカーを押していてはそうもいかず、仕方なくドーナツ屋に向かった。程なくして衛も合流したが、何か落ち着かず、心ここにあらずだった。


 そして、それから三日経った日の午後、衛のいない寺内家の電話が鳴った。

「はい、寺内です」

「奥様ですか」

「どちら様でしょうか」

何か宣伝の類だろう、そう思いながら博美は相手の名前を聞いた。

「私、北村冴子と申します」

「ああ、主人の会社の? 主人はまだ会社ですけど」

今日は普通に朝出勤して行ったのだ。博美は首を傾げながらそう答えた。

「今日は奥様にお電話いたしました」

「私に? 何かご用でしょうか」

ますます訳が分からなくなっている博美に、冴子はいきなりこう切り出した。

「奥様、ご主人と……衛さんと別れていただけませんか?」

と……


「それ、どういうことですか!?」

「それは、自分が一番お解りなんじゃないんですか。今のままじゃ、同居人と変わらないって」

「何でそれを……」

「彼の腕の中で聞いたと言ったら?」

震えながら聞いた博美に冴子は笑みを浮かべているのが判る口調でそう返した。

「衛の腕の中で?」

「そうよ。私があなたにヤキモチをやいたら『焼くな、博美とは子供が生まれてから一回もやってない』ってはっきり言ったわ。でも、妊娠中だってご無沙汰だったんでしょ? 健全な男がそれで保つと思ってるの?」

 その後も冴子は少し話を続けたが、博美はもう何も耳には入ってこなかった。『健全な男がそれで保つと思ってるの?』という言葉が耳に纏わりついて離れなかったのだ。



―*―*―*―*


 その日、衛は帰宅したとき、自宅に灯りが点っていないことに気付いた。実家にでも行ったんだろうか……そう思っていると、近くに住む糟屋という年輩の女性が声をかけてきた。

「明日美ちゃん調子悪いの?」

「朝は元気だったんですけどね」

糟屋の質問に衛は首を傾げて答えた。

「夕方ものすごく泣いてたからもんだから。でも、子供なんてそんなもんよ。朝元気でも急にぐずりだしたと思ったら熱だって事多いから」

「そうですか。ありがとうございます」

そうか、明日美の調子が悪いのなら病院にでも連れて行ったのかもしれないな。そう思いながら玄関の鍵を開け、家の中に入って、部屋の電気を点けて一瞬にして血の気が引いた。


衛が見たもの―それは、明日美が部屋の隅でうつ伏せになっており、少し離れたところで、博美が真っ暗な中呆然と座り込んでいるというものだった。


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