花散里 その二
これというほどの身支度もせず、目立たないようにして、先払いもなく、忍びで、中川のあたりを通った。するとささやかな家の木立などが、風情ありそうに繁っている奥から、美しい音色の筝の琴を、和琴の調子に整えて合奏し賑やかに弾いているのが聞こえた。
光源氏の耳にふと、その琴の音がとまった。
門からほど近い住まいなので、車から少し顔をさしだして門の内を覗き込むと、桂の大木の梢を吹きすぎる風が青葉の匂いを伝え、その匂いから、ふと葵祭の頃を思い出した。
あたりの様子が、何とはなしに風情があることから、たしかに以前ただ一度だけ通った女の家であったと気づく。するとふいに気持ちが動いて、あれからずいぶん時が過ぎたので、女は覚えているかどうかと気がひけながらも、行き過ぎにくそうにためらっていた。
ちょうどそのとき、ホトトギスが空を鳴き渡った。その声が、さも、この家を訪ねてみよ、とそそのかすように聞こえたので、車を押し返して、例によって惟光に歌を託して、内へ遣わした。
をち返りえぞ忍ばれぬほととぎす
ほのかたらひし宿の垣根に
寝殿らしい建物の西の角部屋に、女房たちがいた。その女房の声に惟光は聞き覚えがあったので、わざと咳払いして反応を見定めてから、光源氏の歌を伝えた。
女房たちは若やいだ気配がして、誰だろうと訝しがっているようだった。
ほととぎす言問ふ声はそれなれど
あなおぼつかな五月雨の空
わざと、とぼけてわからないふりをしているのだと惟光は見てとったので、
「よろしい。〈植ゑし垣根もえこそ見わかね〉ということでどうやら家を間違えましたかね」
と言って外へ出て行くのを、女は、人知れず心の内では、恨めしくも心残りにも思うのだった。
確かに、ほかに通う男ができていたとしたら、こんなふうに用心するのは当然のことなので、さすがにそれ以上はどうすることもできなかった。
光源氏は、これくらいの身分の女では、筑紫に下った五節の舞姫がなかなか可愛かったが、とまず思い出した。どんな女に対しても心の休まる暇がなくてご苦労なことだ。
こういうふうに、長い年月を経ても、一度でも逢った女のことは、忘れない性質なのでかえって、それが多くの女たちにとっては、物思いの種になるのだった。
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