Episode29

店長とカオリが一階で話をしている間、ユズキはリビングのキッチンで洗い物をしている。


食器をかたずけていると、外でインターホンが鳴った。


ユズキが、裏口へ回るためにリビングを出ていく。


部屋はシンと静まりかえり、キッチン台に置いてあるカオリの新しい包丁がひとりでに動き出して、床に落ちた。


包丁の刃の先から、薄汚い身なりの女――怨霊がヌッと姿を現す。


テーブルの端に腰を落とし、怨霊はニヤリと笑みを浮かべた。


怨霊は、包丁にとり憑いた幽霊だ。


暴力的な交際相手の男に刺し殺されたことがきっかけで包丁に恨みが残り、それから適当な女に乗り移るようになって、世の男を片っ端から刺し殺して回っている。


巷で騒がれている連続通り魔事件の犯人もこの怨霊だった。


警察がいくら捜査してところで、幽霊を捕まえることはできない。怨霊にはすべて都合がいい。


見知らぬ少女のプレゼントとして贈られた新しい家先で、次のターゲットはすでに決まっていた。


この家庭の父親――路地裏喫茶の店長だ。


彼の娘に乗り移り、そののままいきなり、背後からブスッと刺し殺すなんていうシチュエーションが頭の中に浮かぶ。


ついでに、今出て行った少年も一緒に殺してしまおうかしら……。


怨霊がそんなことを考えていると、


「ねえ、あなた」


突然、目の前に現れた人影に声をかけられた。


相手は、見知らぬ女だった。頭の上に天冠があり、顔はどことなく店長の娘に似ている。


「あなたも幽霊なの?」


女はすでに死んでいるらしかった。


娘の母親なのだろうか。ということは、店長の妻ということにもなる。


「どうしてここに? 私、気になるわ」


幽霊の女は嬉々として言った。


怨霊は答える。


「ここに来たのは、偶然よ。今から、店長を殺すところなの」


「まあ」


幽霊の女は驚いた顔をした。


「私は怨霊だから。男は……みんな死んじゃえばいいの」


怨霊は呪詛のように呟いた。


「……それに、あなた、一人じゃ寂しいでしょう? すぐに旦那と話せるようにしてあげるわ」


「それは……」


幽霊の女は僅かに言いよどんだが、すぐに苦笑して首を横に振った。


「確かに、先に死んでしまったのは寂しいけれど、こうして二人の生活を見守ってあげられるだけでも、私はいま十分幸せよ」


ふん、つまらない返事だ。


怨霊は鼻であしらった。善良な意見を聞いたところで、自分のやることに変わりはない。


幽霊の女が悲しげな表情で言う。


「あなた、復讐にとり憑かれているのね」


何をいまさら、と怨霊は心の中で毒づく。


すると、幽霊の女はいきなり思いついたかのようにキッチンへ移動し、床に落ちていたカオリの――怨霊のとり憑いた――包丁を手に取った。


「な、何する気」


慌てて立ち上がる。


幽霊の女は、自信ありげに微笑んで、


「あなたを正気に戻すには、もとの怨念を断ち切ってしまえばいいと思うの」


まかせておいて、と幽霊の女は言う。


断ち切るって言ったって、どうやって……怨霊は訝しんだ。


包丁の刃を折ったりでもするつもりなのだろうか。普通の女性が素手を使っても、それは至難の業だろう。包丁は、簡単に曲がるほど軟にできてはいない。


ところが、


「私たち、きっと仲良くなれるわ」


幽霊の女はそう言うと、おもむろにコンロの火をつけた。


包丁は鋼だ。料理用の火の温度では到底溶かすことはできない。しかし怨霊は、何だか嫌な予感がする。


火の中に包丁が差し込まれる。


「ちょっと、やめてよ!」


抗議しようとした瞬間、燃えるような熱さが怨霊の体を襲った。耐え難い痛みに悶えて絶叫し、リビングの床をのたうち回る。


幽霊の女はなおも火の火力を上げた。


怨霊はもはや声も出なくなり、足をバタバタさせながら意識が遠のき始める。


これは……もはや包丁が折れるとか、溶けるだとか、そういうことに関係なく、死んでしまいそうなくらい苦しい。


自分が徐々に自分ではなくなっていってしまうような気がして、怨霊は恐怖で涙が出てきた。


頭の中身が炎で焼き切れていく感覚に陥りながら、やがて体は動かなくなっていき――。






数分後、幽霊の女が火の中から包丁を取り出してみると、包丁は壊れていなかったが、そこら中に焦げ目や切っ先に欠けができていて、とても使い物になりそうな代物ではなくなっていた。


包丁は、幽霊の女がしっかりと新聞紙の中に包んで、路地裏の薄暗いゴミ捨て場へひっそりと捨てた。


その日以来、この町に切り裂き魔が現れることはなくなったという。








別の日。


イチコがピアノを弾きに裏口からカオリの自宅へ上がってみると、


「あら、こんにちは」


カオリの母ではない、見知らぬ清楚な女性の幽霊が廊下でペコリと頭を下げてきた。


「……あ、どうも」


いつから住み着くようになったのか。思わずお辞儀を返してしまう。


「今日から私もピアノを教わることになったんですよ」


「はあ、そうなんですか」


どうやら、幽霊の女の知り合いらしい。


……あれ、この人、どこかで見かけたことなかったっけ?


イマイチ釈然としない様子のイチコに、幽霊の知り合いが一人増えた。

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