Episode22
夕方になると、ビルの谷間の路地にはほとんど陽の光が差し込まなくなる。
ただでさえ昼間でも暗くて薄気味悪い場所なのに、これではきっと誰も近寄ってこない。
イチコはあえて一人きりになれそうなところを選んでここにいる。
実は、路地裏喫茶からはそんなに離れていない。
家を出た後、途中何度もカオリに会って話をしようと思ったが、やっぱり勇気が出ず、諦めて引き返してきたのだ。
両親に心配をかけたくはなかったし、かといって宛があるわけでもない。
路地の一番隅っこで、イチコは座ってうずくまっている。
イチコは麻薬に手を出していた。
今から二週間以上も前、帰ろうとしていたら、見知らぬ若い青年の三人組に囲まれた。強引に迫られたせいで断ることも出来ず、その場で大麻を吸引することになった。
麻薬が、誰にでも気持ちのいいものであるとは限らない。三人の目の前で、イチコは思い切り嘔吐した。
最悪の気分で家へ戻ったが、強烈な依存性だけは体に残った。
それからはあっという間だ。
体の疼きを止めるために、若い青年の三人組……そのリーダーである鈴木という男に金を渡して、大麻をもらう日々。調べたところ、普通の大麻にはあまり依存性がないということだったが、彼らが売っていたのは改良した新種だった。
自分の貯金を使い果たし、親の金を盗み取ってその日その日を凌ぐようになった頃、突然、鈴木たちが姿をくらました。
彼らがいなくなってくれたのは心底嬉しかったが、すでにイチコは身も心もボロボロになっていた。禁断症状が、たちまち精神を犯していく。
結局我慢できなくなり、イチコは鈴木たちを探し始めた。しかし、いくら歩き回っても、彼らの姿は見当たらない。
気が狂いそうだった。
正気を保てなくなって周囲に迷惑をかけてしまう前に、イチコは家を飛び出した。
……ずっと大麻を吸っていないせいか、体はいよいよおかしくなり始めている。
身体のあちこちが痙攣を起こし、一日中、身動きをとれずにいる。時折心臓の鼓動が激しくなって、呼吸すら危うい。パニックに陥らないように、なんとか必死に堪えている。
立ち上がろうにも足が震えて、まともに歩くことができなかった。
これじゃあ、もうどこにも行けそうにないな……。
イチコは自嘲する。
このままここで野垂れ死んでいくのかと思うと、無性に悔しくなってくる。悲しいことに、こんな状態でも頭の中は麻薬のことでいっぱいだった。哀れで、見捨てられてしまった子犬のようにに悲しい。
そんな風に、イチコが涙を呑んでいると――、
「大変そうね」
不意に、声をかけられた。
顔を上げてみると、正面に知らない女がいる。
……偶然、通りかかったのだろうか?
凝視してみて、女の体が宙に浮いていることに気づき、イチコは驚いた。
「……あんた、誰?」
格好は、死装束を身にまとっている。ストレートに整えられた黒髪の上に、おあつらえ向きの天冠。いかにも、ありがちな幽霊といった感じ。
「カオリの母よ。よろしくね」
幽霊の 女が気軽い口調で言った。
カオリの母親はすでに死んでいる。幽霊と言うには、確かに、理屈は通っているように思えるけど……。
イチコは、自分がとうとうおかしくなって、幻覚を見るようになってしまったことを胸中で嘆いた。いよいよ死が間近なのかもしれない。
カオリの母親だと名乗る幽霊の女は、イチコの隣にストンと腰を下ろした。顔は、カオリの面影がないでもない。
「あたし、きっと頭がおかしくなっちゃったんだ……」
曲げた膝に顔を埋めて呟く。
「幻覚だってそんなに悪くないわ」
幽霊の女はにこやかに笑って、
「ほら、話し相手くらいにはなるでしょう?」
慰められている気がして、イチコは少しだけ気持ちがほころんだ。
「……そうかもね」
「あら、元気が無いのね」
幽霊の女は心配そうな顔をした。本当に母親みたいな接し方をされる。
「カオリと会わなくていいの?」
痛いところを突かれた、と思う。ちょっぴりぶっきら棒になる。
「喧嘩中、だから」
「またまた嘘ばっかり」
「……あんたに何が分かるっていうの」
幽霊の女は、ふふん、と鼻を高くして、
「あなた、麻薬に手を出したんでしょう」
ドキリとした。
全部、お見通しのようだ。見られていたのだろうか。
いいや、そもそもこれは自分の妄想のようなものなのだから、幻覚を通して、イチコは懺悔がしたいだけなのかもしれない。
ハハハ、と卑屈な笑いがこみ上げる。
「あたし、相当参ってるな……」
幽霊の女は、家族のことが心配なので、時々地上へ降りてきて店主とカオリの様子を覗っているのだという。イチコを気に掛けたのは偶然らしかった。
「カオリとお友達のあなたを、できれば助けてあげたいけど」
幽霊の女が親身になって言った。
「なおしてくれるの?」
ダメ元で訊いてみる。
「それは、できないわ」
幽霊の女は首を振った。当然だろう。
でもね、と付け足される。
「紛らわすことはできる」
「紛らわす?」
ピンとこない言葉だった。
麻薬による禁断症状を、彼女と一緒いれば、ある程度払拭することができるのだろうか。
「私、これでも生前はピアノを嗜んでいたのよ」
そう言って、幽霊の女は再び宙に浮いた。
「そうなんだ」
イチコは曖昧に頷く。
幽霊の言いたいことは、何となく理解できる。ピアノを通して、イチコの中毒の気を逸らすつもりなのだろう。
「よければ、私と一緒にピアノを弾いてみない?」
手を差し伸ばされる。
思えば、イチコがずっと欲しかったのは自分への理解者だ。
本当のことを誰かに話す勇気がないうちは、こうして、幻覚の幽霊に頼っていくしかないのかもしれない。一人きりになって、孤独に押しつぶされてしまわないようにするために。
それに、改めてカオリと会うには良い機会だ。
これを断ってしまったら、次はもうない気がする。
躊躇いつつ、イチコは幽霊の手を取った。
「……あれ、体が動けるようになってる」
「どうやら、峠は越えたみたいね」
本当に生死の境をさまよっていたらしい。
二人は、路地裏喫茶へ向かう。
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