『夢の花綵』「夢うつつ夢うつつ補遺」8
しばらくして教授とあなたの弟子は連れだって帰り、いや、より正確にいうと、彼女を迎えにその恋人がきて、つまりあなたのおとうと弟子がやってきたのだが、まあそれは今、話すことではないかもしれない。あなたと彼の関係もまた、いずれ機会があれば語ることもあるだろう。ただ、あいかわらず驚くほど口数が少なく、それなのに妙に礼儀正しく畏まった様子で、あなたは彼に比べると随分と柔和で打ち解けやすく、女性的といってもいいほど優しげな印象を与えるのだと今さらに気がついた。
はたして昔からそうだっただろうか。立ち居振る舞いの美しさに魅了されたのはよく憶えている。と同時に、ふとしたときにのぞかせる頑なさや依怙地な態度にそそられた。さすがにこれは滅多なことでは口にしないけれど。
そういえば、あなたはこの四月から、若い女性の依頼人たち、要するに女子大生やOLといったひとたちと食事を共にしていたそうだ。世にいうレディースセットというのは自分にはちょうどいい量だった、とあなたは笑った。打ち合わせと称して食事代はじぶんが払い、既定の額で依頼を受けたと。つまり、儲けはほとんどない仕事だ。それでも必要なことだった、と。
あなたはきっと、変わったのだろう。
以前は高額の支払いをする依頼人を幾人も抱えていた。今も彼らと切れているわけではないだろうが、かつてほとんど縁のなかった依頼人の仕事をしはじめた。文字通り、「食べる」ために。
弟子に叱られたから、と漏らした。皮肉っぽい笑みを浮かべていたけれど、あなたはそのとき素直にそれを受け入れたのだろうと想像できた。
おれは少し、父親と話した。父はあなたの来歴、名誉教授だった祖父の名前など聞きだしていた。それから、あなたの弟子が何者なのか率直に尋ねられた。店長の姓を名乗ったのだと知れた。おれは隠さずそれを伝えた。すると、面影がある、と父は懐かしそうに目を細めた。面識があったわけではないが、と断って、知らぬものはない人物だったとつけたした。意外なことに、彼女の説得にすぐさま同意してここへ向かうと決めたのは母でなく父だったそうだ。
おれはおれで、じぶんは官僚に向かないと長いこと思ってきたはずなのに研究センターの基礎を固めたと評価された事実や教授や店長、そしてあの会の発起人であるあなたの叔父からもらった言葉についても考えていた。いや、以前もそれらを考えなかったわけではない。ただその意味を受け止めかねていた。今なら、もしかして今なら、おれは何かをしっかりと自分のものにできるかもしれない。
その後、家族を駅まで送りながらホテルへ荷物を取りにいった。その足で食料をしこたま買い込もうとしてやめた。宣言したようにおれが全部作り置きしてもいいのだが、きっとあなたはそれをたいそう喜んでくれるいっぽうで、もし食べられなければまた気に病むだろう。しかも、おれにも食べ物にも罪悪感をもちながらそれを隠匿し、あらわにしないことで蝕まれるにちがいない。
たぶん、おれたちは長いこと、こうした些細な行き違いを「快楽」として分け合ってきたのだろう。
おれは家の鍵をまわして入り、この家に小声で、ただいまを言った。また世話になると言い添えて。
ひとの気配のなくなった家はでも、おれのよく知っている場所だった。帰り際に手際よく片付けをしてくれた姉にあらためて感謝してダイニングを見渡して深く大きな吐息をついた。ようやくにして、帰ってきた、という気がした。
おれは少し考えてから、資料館へと連絡をいれた。彼女はこころよく了承してくれた。彼女も先ほど帰ってきたということで、おれにはゆっくりしてきてくださいと勧めてくれた。素直にそれに甘えることにした。
あなたはまだ眠っていた。
おれはベッドの横に膝をつき、あなたにそっとくちづけた。
目を、覚まさなかった。
それだけでなく、うるさそうに頭をふっておれに背を向けた。無意識に唇をひらいてこちらの舌を迎え入れ、さらに抱きついてくるような可愛げはまるでなかった(あまり言うと気を損ねるので秘密にしているが、寝惚けているときのあなたは本当にそんななのだ)。
憮然としたおれはその鼻を抓んで無理やり起こしてやろうかと考えたが、そういう子供じみた仕返しは堪えた。あとで思う存分、つれない仕打ちを囁きながらあなたの形のいい耳をいたぶってやればいいのだ。
そう考えて溜飲をおろし、おれは本を片手にそろそろ茜色に染まりはじめたベッドに寝転んだ。さすがのあなたも腹が減ったら起きるだろうと思いながら。
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