『夢の花綵』「夢うつつ夢うつつ」29

 教授から呼び出しをくらう。花冷えのキャンパスを足早に横切った。職員は彼女をのぞいておれよりすべて年上という資料館からこちらへ来ると、学生たちが文字通り眩しくみえた。新入生は十代か。まだそのころ、あなたを知らなかった。反射的にそうおもう。

 教授の気に入りのソファに腰かけてコーヒーを飲んでいると、端末に悪友から飲みの誘いが入った。気分じゃないと断るが、折り返し、海外におまえと同じ苗字の映画監督がいるが親戚か、と尋ねられた。故郷を出ていった叔父だとすぐわかった。奴は電話口でわらって続けた。

「やはりな。小さな賞を獲ってる。夏の大作と並ぶとかすむだろうが単館上映ならいけそうな好い映画だ」

 情報を送ってもらう約束をとりつけて切ったところで教授があらわれた。いつもと違ってやけにぱりっとした形をしていた。

「これからひとに会うんですよ」

 尋ねもしないのにこちらの表情を読む。おれは何もそれについて返さなかった。

「彼女の調子はいかがですか」

「無事退院して仕事にも復帰しています。いまは術後すぐ、ベッドの空きがないとかで追い出されるんですね」

「それはよかった。医者不足らしいですからね」

 なんとなしに互いに噛み合っていないような気がした。すると教授がこちらを気遣うような目で嘆息した。

「あなたずいぶんと窶れましたね。そんなに仕事抱え込んでると死にますよ?」

「大袈裟な」

「過労死って言葉があるでしょう」

「あちらは二千年だとか歴史のあるせいか何事も余裕がおありです。ここにいたときよりルーズに仕事してますよ」

「そうは見えませんが」

 硝子越しの両目になにもかも見透かされているような気になる。転ゼミするときも、この眼にヤラレタ。あなた、やりたいことやったほうがいいですよ。どうせひとは死ぬんですから、そのあいだは好きになさい、となんでもなく諭されて素直になった。

「……眠れないんです」

「欲求不満ですか」

「教授」

 わざとらしく凄んでみせたが相手はまるで意にとめず続けた。

「泣き言をいわれても困りますね、覚悟の上でしょう。あんなひとを手放したんですから無理もない」

 言葉にひっかかりを感じた。

「私に、あのひとの声を聞かせたくせに」

 教授はおれを睨んだ。なにを言われているのかは理解した。と同時に、じぶんが何をしてきたのかもわかった。こないだの話しが研究のことだけではないという事実も。

 教授は視線を落として吐息をついた。

「……あなたも彼も、なんのかんのと自信がある。しかも互いに相愛で。だから他人のことなど目に入っていなかった。それはそういうものですから憾んでいるわけではありません。ですが、私にもそれなりの意地と立場というものもある。彼の叔父に頼まれもしました。あなたは苦労して例の男のアドレスを探っていったようですが、私は彼をそちらに送り出したくはない。〈外れ〉られては困ります。ですから来年、あなたはこちらに戻ってこなくてもかまいません。いえ、戻ってこないでほしい」

「……それは、正式な辞令ということでいいんですか」

 声が震えないでいられたのが不思議だった。教授は首をふった。

「本音ではそれくらいの暴君ぶりを発揮したいですが、そうもいきません。会議にかけます。あなたの要望書もちゃんと提出しますからその点は安心してください」

 おれはしずかに頭をさげた。願った通りになったのだ。丁寧に礼をいうべきところだったはずが、何も言えなかった。

 それから苦笑を押し隠すように煙草に火をつけた。ここは禁煙ですと叱られもしない。教授のついた溜息がひたすらに重くるしかった。だから火をつけたばかりのそれを消して立ちあがる。

 学生時代、あなたのことが知りたくて、それまでいたゼミからこの教授のところへとうつったのだ。今こうしてそこを出ていくのも正しい道なのだろう。

 長いあいだお世話になりましたと深く頭をさげた。来週また来ますけど、とつけたしておれはわらった。教授はわらわなかった。同じようにこうべを垂れた。


 おれはコートを肩に羽織って歩いた。見かけない顔、先月にはなかったポスター、案内などを見るともなしに目にいれる。もう一本煙草を喫ってからいくか、とポケットに手を突っ込んだ瞬間だった。

 遠くにあなたを見た。

 おれの知らないスーツをきて、きちんと畳んだコートを脇に抱えて案内所でものをたずねていた。あなたは案内嬢があなたを見あげてはにかんだのに気がつかない。いや、気がついた。少し首をかしげるようにして相手を見て、何か、たぶん名前を名乗った。それから互いに頭をさげあっている。

 あなたは痩せたようだった。でも、あなたに似合う綺麗な青い服をきてにこやかに微笑んでいる。あなたは、おれがいなくてもわらえるのだ。当たり前だ。

 教授ともう、寝ているのかもしれない。

 あなたに限ってそんなことはない、と否定したがるじぶんに呆れた。あなたはおれと一緒だったときはここに滅多に訪れなかった。それがどうだ、教授と付き合いはじめたらすぐにここに顔を出している。しかも案内嬢をあんな笑顔で誑しこむくらい積極的に。

 おかしかった。

 おれは、あなたがいなくて今にも死にそうになっているのに。暗闇で足をとられ海に引きずり込まれる夢に魘されて眠れず、新しい職場では遠巻きにされ、あの資料館に陣取る気難しい一族にも煙たがられているというのに。

 おれは、あなたの幸せを願ったはずだ。おれといては、おれがあなたを雁字搦めにしてしまうと。

 なのに、あなたが元気で幸福そうにしているのを見た瞬間、気がおかしくなりそうなほどあなたを憎んだ。息があがった。おれは無意識に煙草の箱を握り潰していた。指の先が白い。気がふれているようだ。

 あなたは、そんなおれに気がついた。

 あなたが息をのむ音が聞こえるようだった。その全身で、何故ここにいるのか、と叫んでいた。おれは、あなたにだけは知らせなかった。四月からもここに来ることを。だから今、あなたは心の底から愕いている。幻でも見たような顔つきで。

 そしてすぐ、あなたらしい鋭敏さで察した。おれがそれをあなたにだけ秘密にしたのだと。あなたは逡巡していた。それがどういう意味なのか、どういう態度をとるべきなのか。あなたは、あなたの思うままのことを基本的はあらわさない。とても素直なひとなのに。いや、素直だからこそ。

 おれは歩き出した。あなたはまだ、そこに立っている。あなたの迷い、気後れ、そして少しの押し殺したよろこびも感じた。たぶん気のせいではない。あなたはおれの姿をみて歓喜した。おれはあなたが教授と寝ていないと判った。そう考えるじぶんに辟易しながらも、おれもあなたを見てじぶんが嬉しがっているのを知る。悟られてはならない。冷静さを取り戻す。いや、違う。おれは、あなたに復讐をしたいのかもしれない。

 だからあなたを見ないでその横を通り過ぎた。 

 あなたは、おれを振り返ることも出来ずに立ち尽くしていた。


 教授の図りごとにおれたちは無様に嵌まっていた。わかっている。おれも、あなたも愚かではない。でももう、流れはおれたちの手のなかにない。

 あなたはきっとあのソファに腰かける。教授はコーヒーをさしだす。あなたはそれを受け取って煙草の吸殻をみる。あなたの様子が違うことに気づいた教授にたずねられる。嘘のつけないあなたは、じぶんだけが知らなかったと漏らすだろう。いや、それすら愧じていえずに黙り込んだままかもしれない。教授はやさしく重ねてたずねる。でなければ、あなたの機嫌がよくなるようなところに行こうとでも誘うのか――……。


 バーで潰れたおれを、おまえこないだからおかしいぞと腐しながら友人が安宿へ担いで行ってくれた。おかしいのはとうにわかっている。


 あなたと別れたのだから。


 映画の予告をみた。

 あれは、おれとあのひとのはなしだ。それがわかった。舞台はずっと西の果てで、性別も逆転していた。大陸の西、その海沿いの街にやってきた風変わりな女教師とその隣家の家族のはなしだった。それでもあれは、おれの家族とあのひとのはなしだった。


 あのひとが死んだときもこうだっただろうか。いや、あのときはなんでもない顔をして過ごしたはずだ。勘ぐられる訳にはいかなかった。多少荒れたのは思春期のせいだと言い訳できた。喧嘩をふっかけられたときはすかさず殴り倒した。多少殴られもした。一方的になりすぎては怪しまれるから。その程度には冷静だった。

 あのひとはおれに何かを特別に与えようとはしなかった。受け取ったものは山ほどある。けれどそれはおれへと授けられたものとは言い難かった。なにもかも、おれがただひたすらに奪った。それでいて、あのひとの内側にじぶんが入りこめたとも思えなかった。他の男女と寝ているのをおれに隠そうともしなかった。だからといって、おれがその他大勢の相手と同じだとも考えなかった。自惚れていた。


 朝一番の列車でもどった。シャワーを浴びて、なにくわぬ顔で職場へと向かう。彼女が心配そうにおれを見る。おれは、何も言わせたくない。声をかけてくれるなという障壁をはる。こういう態度はハラスメントの一種だと頭ではわかっているがやめられない。父親がいっとき、こうだった。叔父の家が荒れているあいだの我が家の不気味な沈黙と喧騒を思い出さずにはいられない。おれはひそかに彼女の察しの良さをうらむ。プライヴェートにからまなければうまくやれるのだ。のみこみも早く手際もいい。外国語にも堪能だ。古文書の扱い自体にも慣れている。おれが教えられることは何でも、瓶の水をうつすようにそっくりそのままに伝えたい。けれど、おれの内面に触れるのだけはやめてほしい。うっとうしい。そう考えるじぶんが何よりも煩わしい。


 弟は、こういうおれを嫌った。

 ひとつ違いだったが、おれのほうが早く背が伸びた。上背と腕力はものをいう。成績もおれのほうが僅かばかり優った。彼はいま、父祖代々と同じく官庁に勤めている。

 弟は叔父が嫌いだった。その映画が公開されるといって観にきたりはしないだろう。それでも知らせだけはいれた。返事はかえってこなかった。


 だが、柄にもなく、おれは家族を呼びたいとおもった。そう考えて電話をした。数年前に手術をした父は思っていた以上に元気な声ではなした。母は、ところどころ少し涙声だった。妹も連れて来られそうか尋ねたところ、今は車椅子でも旅行しやすくなったからと弾んだ声が返ってきた。姉にはメールを送った。この国に戻ってくるのはひさしぶりだと返事があった。何年も頑張ってきたぶん今度の大型連休は絶対に休みをとる、と。


 肝心の叔父と連絡をとるのは容易ではなかった。配給会社から連絡を回してもらったがいつまでも電話もメールも来なかった。ああいうことがあったのだから、それも仕方ないという気もした。おれなら顔を出しづらい。たとえ成功しようとも。


 叔父のその他の仕事はネットで調べがついた。別名義でコマーシャルの仕事をそれなりの数でこなし、いくつか賞をとっていた。店長から電話がかかってきたとき尋ねたが、さすが現役よく知っていた。あのひとの死後コンビニをよその人間に譲って元いた広告業界に復帰した。そこですでに数年が経つ。

「しかし久しぶりですね、ご活躍のようで、おれの番号なんてとうに消されてるもんだと思ってましたよ」

 おれの揶揄にも店長は以前と変わらぬ態度で返してきた。

「そういう憎まれ口が叩けるなら安心したよ。娘に連絡してやってくれって頼まれてな」

 おれはおしだまった。

「俺も、今回ばかりはお前のほうが心配だ」

「あのひとを甘やかしてばかりいたくせに」

「そりゃ、あっちのほうが可愛いんだからしょうがあるまい?」

「で、その可愛いひとに連絡いれたんですか」

 おれの声は尖っていたが、本音はあなたがどうしているか喉から手が出るほど知りたかった。ところが、

「いや」

 強い否定がかえってきた。おれは続きを待った。

「あいつはここでじぶんをしっかりと立て直すときだ。手助けは要らない」

「……おれと違って信用されてますね」

「そういうはなしじゃないよ。信用というなら、お前がいちばんに信用信頼されていた。あのひとにな」

 互いに長身痩躯の麗人を思い浮かべていた。

 目を伏せた。おれは、間違っていない。間違っていないはずだ。鼻の奥に痛みが襲いきた。おれはそれをこらえた。店長の前で弱みをみせたくはない。みせるわけにはいかない。愛するひとを失ったひとの前で、泣くわけにはいかなかった。

 店長は、お前の叔父さんとやらの件は任せてくれと請け合った。かつて鳴らした業界人らしくどうにかしてくれそうな勢いがあった。面と向かって口にすることは生涯なさそうだが尊敬していた。

 まあ、あちらもおれにそんなことのたまわれても困るだろうともおもった。

 端末をポケットに落とし込み資料館の庭をみた。そろそろ八重桜も散って橘の芳香が漂う季節だった。

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