『夢の花綵』「夢うつつ夢うつつ」19

 俺は午前中いっぱいベッドから起き上がれずに朝食を食べそこなった。ところが彼は軽いジョギングのあと健啖ぶりを発揮して俺のぶんまで腹におさめたと笑った。

 昼過ぎに依頼人の病室で俺たちははなしを聴くことになった。彼女の年の離れた従兄がやはり夢使いで、その勧めで夢見式があってすぐ〈外れ〉た日の落ち着かなさ、師匠が強制連行されたときの周囲の大人たちの言葉などを子供だったときの感じ方と、今現在だけでなく、娘時代に考えたことなども交えながら話してくれた。

 彼女の師匠は無事に帰されたものの、その後は夢見式しか仕事をしなくなったそうだ。〈外れ〉た彼女は師にあわせる顔がなく、師匠のほうでも彼女を街中で見かけると避けるようであったらしい。毎日学校へ行くのに師匠のお宅の前を通るのが怖かった、と口にした。申し訳ない恥ずかしいという気持ちだけでなく、じぶんだけ逃げて、恨まれてはいまいかと考えたと呟いた。それを尋ねることも出来なかったし、謝る機会もなかったと。師匠が軍人に連れて行かれたと知ったとき、もしもじぶんに夢使いの素養があると師匠が話したら、いったいどうなってしまうのかと眠れなかったと。師匠は何も言わないでくれたのでしょうに、と。親の言いつけに従って夢使いの師匠と関わりのないことにして安心した幼いじぶんを誰が責められるのかと自身で煩悶したと。

 俺はそれなりに夢使いの蒙った戦争の惨禍というものを学んでいたつもりでいた。書物も幾つかは紐解いた。そのなかには、特異な能力を解明しようとした人体実験という忌まわしい歴史もあった。だから始まりから予測していた。恐らくは、と彼女は囁くような声で口にした。従兄はその犠牲になったのではないかと……。

 その瞬間、彼だけが、俺のごく些細な異変に気づいてわずかに身じろぎした。俺はそれを見て思わず腰をあげていた。それは唐突にすぎた。話しを中断してしまっていた。同席するのではなかったという後悔の念に苛まれながら謝罪の言葉を述べようとした俺へと、そのひとは出会いのときにこの髪を見たのと同じ表情で話しかけた。

「あなたが夢使いだとすぐにわかりました。従兄がいなくなり師匠も亡くなって、その後はこの街で専業の夢使いを見たことは一度もありません。たまに、よそからひとがやってくるだけ……。もうずっと昔のことになりますが、隣町からわざわざ車で夢見式を執り行うためにやってきてくれるひとがいて、私はそのひとにもう一度はじめから修行をしてみないかとも言われました。でも、断りました。何故だと思いますか」

 突然そんなことを尋ねられ、俺はどうこたえていいものかもわからず突っ立ったまま、ただ、わかりませんとこたえて馬鹿みたいに首を横にふった。すると、

「教職に就いていましたから」

 あ、という声を漏らしたのは俺だけだった。彼女は目尻をさげた。

「夢使いは公職につくことは許されません。今はそれについて色々な意見があるようですが、あの当時は誰もそんなこと言いだしませんでした。だから、あのまま夢使いであったなら先生になれなかったと考えると、私はあのとき〈外れ〉てよかったと自分自身をゆるすことができるように思いました。もしかすると、あなたのような方にはおわかりにならないことかもしれませんけれど」

 呆然として老婦人の顔を見つめた。わかるともわからないとも、こたえようがなかった。それなのにどうしてか、ただこの混乱をそのままに受け止められていると感じた。その気持ちをも、察せられていた。

 俺は、息を吐いてゆっくりと椅子に座り直した。そんな俺を依頼人はいつものように温かなひとみで見守ってくれていた。彼の表情はうかがえなかった。いや、あえて俺を視ようとはしなかったのに気がついた。俺はそこで、何か小さな違和感をおぼえたはずだ。けれど、次の瞬間にはすぐにそれを忘れた。何故なら、依頼人が彼女のほうを見て、初めて担当をもったクラスの級長が僕でしたね、と目を細めたからだ。

 依頼人が、僕というのを初めて耳にした。そこで彼女は、新米先生をよく助けてくれたわよね、と続けた。あとはしばらく昔語りが続いた。彼はそれがいつのことか何年生だったのか、といったことなど世間話をするような調子で尋ねながらメモをとっていた。

 俺はようやく、ただの用足しのような顔をしてそこを出た。そして本当に、それは先ほどの懼れから来る逃避ではなく、生理的欲求に従ったものだった。


 手洗いを出て戻ってくると彼がちょうどドアを閉めたところだった。

「ホテルへ戻ります。いずれにしても、地区担当が足運ぶようになるでしょうし」

 ああ、とうなずきながら考えた。いずれにしても、というのが引っ掛かる。率直に、先ほどのはなしの「価値」というものを問うていいものかもわからなかった。むろんそれを判断するのはじぶんではないという弁えはある。だが、この二時間に満たない会見のために彼を遠くまで呼び出して、果たしてそれでよかったのだろうかと悩ましくもあった。たぶん、そういう心中を読んだのだろう。彼が、いくつか糸口になりそうな件があって早く文字起こしして連絡いれたいんで、と口にして微笑んだ。

 それを聞いてほっとした。彼の仕事についてよく知ろうとしなかった俺の、後悔そのものを掬いとられたように思った。彼はそのまま俺をみて、夕飯までホテルで書き物してるから適当に呼び出して、と続けた。叔父を思い出したとつぶやくと、彼はなんとも言いようのない複雑な表情を見せた。センター発足の立役者である叔父が異国で紛争に巻き込まれて亡くなった際、叔父はきっと政治家になるために「外れ」たに違いないと彼にだけは話した。弟子には言わなかった。彼女はそれをしっている。俺以上の確信をもって。

 それからほとんど聞こえないくらいの声で、まだ痛むのかと尋ねられた。俺には彼のほうが余程苦しそうに見えた。だから、なんでもないような顔ができているといいと願いながらかぶりを振った。

左手に襲い来る「苦痛」については、何が引き金になるのか予測はついている。わかってはいる、頭では。だが、耳を塞ぐのが難しいように防ぎようがないときもある。

 彼はその癖毛をかきあげ、さっき、反応してごめん、と俺の顔をみないで言った。こちらが謝罪すべき場面で先に頭をさげられて、どうしたらいいかわからずまた頭を揺らすしかなかった。そんな俺に、今日は本当にありがとうと彼が低い声で囁いた。役に立ててよかったと心の底からおもった。

 そうしてドアをあけると、依頼人たちのはなしは花が咲く盛りであった。

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