『夢の花綵』「夢うつつ夢うつつ」13
あなたがあの男に逢いに行ったことは気づいていた。あなたが眠っているあいだにクローゼットを開けた。バッグに札束が入っていた。気に入りの靴に雪を踏みしめた跡があった。おれは亭主の浮気を確かめる妻のような振る舞いを恥じはしなかった。それでもあなたがここに戻ってきた現実を素直によろこんでいた。みっともないほどに嬉しかった。あなたをこの腕に取り戻したのだと思えた。
あの明け方にあなたはおれに何かを言おうとした。けれど言わせなかった。言われたところでおれの決意は変わらない。それでも、それをあなたに言わせたくはなかった。
しばらくは、ふいに近づくと緊張した。あれだけのことをしたのだから当たり前だ。神経戦になるのは覚悟していた。あなたは仕事に出たあと依頼人に朝食を御馳走になると知らせてきた。おれに触れられたくないのだとわかった。幾度かそんな言い訳が続いて、ある夜おれのベッドに這入ってきた。そして処女でも抱くような素振りでおれにくちづけし、そっと覆いかぶさってきた。
おれは逆らわなかった。あなたに酷く責められてもいいと思っていた。けれどそうはされなかった。あなたはとてもやさしかった。
思えば仲直りのやり方をおれたちは知らなかった。
幾晩かそうやって過ごし、おれはまた出張に出たところ、あなたは珍しくやってきた。近場で来てくれたことはあるけれど飛行機に乗ってまでは初めてだった。あなたはおれを欲しがってくれた。今まで痛んだのだと苦笑したあなたにおれはようやく謝った。隣の部屋に教授がいるので声を我慢するあなたは酷く苦しそうにしていたけれど、おれは聞かれてもいい、いや、聞かせてやれと思っていた。
出勤したおれへ、本当にそれでいいのですかと教授が尋ねた。彼の意向通りなのですね、と。おれは首肯した。銀縁眼鏡の向こうのひとみにはやりきれなさが覗えた。教授には何もかもわかっていたはずだ。あの男をあなたから引き離したいと願うおれの気持ちを。おれがそのことをあなたに相談したはずがない事実も。
それでも了解されたのは、おれが研究センターに必要な人間だったせいでなく、あなたという特別な夢使いが〈外れ〉ることだけは断じて許されなかったからだろう。
あなたはおれのために戻ってきたのではなかった。それも、おれにはわかっていた。あなたの弟子、あなたの叔父、あなたの師匠のために戻ってきたのだ。血の絆、夢使いの師弟の絆のために、あなたはこちら側にとどまったのだった。
それに、おれにはおれで野心があった。この国の夢使いの歴史、その総てに触れたかった。それのある場所も知っていた。
研究センターを国掛りにする計画はその後いくども話しが出た。地方の博物館もいくつか名乗りをあげた。うちみたいに歴史のある大学も安泰とはお世辞にも言えなかった。そうこうする間に、あの〈家〉が国立大学に史料を預けるはなしが飛び込んできた。
おれと教授はほとんど戦にでも出るようにして乗り込んだ。
彼女はおれに助けを求めた。
この家からあれらを持ち出したくないと。
あのひとに、とてもよく似ていた。
そう口にする前に、彼女から話した。暗いところで立っていると親戚に幽霊みたいで怖いって冗談みたいに言われると。そう言って俯きかげんで微笑む面差しすらもあのひとに生き写しで、中高の貌は夕闇に花のように浮かびあがった。
叔父はわたしたち親族を恨んでいなかったかしらと呟いた。おれは何も言わずに彼女の横顔をみた。
わたしは叔父を知りません。でもわたしを見るとみなが叔父のはなしをする。わたしは死者に囚われて生きている。
彼女の声は、あのひとと違った。まぎれもなく女性のそれだった。けれど細く頼りない声はときとしてあのひとの喘ぎ声を思い起こさせて、ひそかにおれは息をとめた。
あなたは研究センターにも滅多なことでは顔を出さなかった。すでに高名な夢使いである事実を愧じていた。そこまでの力はないと。たまたま依頼人に恵まれただけだと。その道をつくったのは師匠と、叔父のおかげだといつも難しい顔で謙遜をした。
いや、それはきっと密かな反撥だった。
だからだろうか。あなたはいっときあまりよくない客筋をもった。奇妙な充実と隣り合わせの焦燥に身を置いて、あなたは少しも楽しそうではなかった。あの男と出会って、あなたはあなたらしさを取り戻し、息を吹き返したのだろう。
それをおれが嫉妬と独占欲から断ち切った。
あの男の言うことは正しかった。そして教授の問いかけもまた。
おれが、あなたを地獄へと向かわせたのだ。
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