『夢の花綵』「降りしきる花と見まがう夢」
はつ恋 1
夢のようなひとが、わたしの目の前にあらわれた。夏の昼下がり、清冽な白い花が降るように。光を遮るほどの薫香とともに。
あれは父親との面会日、小学生最後の夏休み、その日は朝から気持ちがざわざわした。パパのことは好き。ママよりも実はずっと好き。一緒にいないからだってことくらい想像できた。しかもママはわたしがパパのほうを好きだってわかってる。だからこそなんていうか、すごくめんどくさい。ママはわたしが喜んでも面白くないし、かといっていやいや会うのも心配する。
ママは女優顔負けの美人で、そのせいかまわりに甘やかされて育ったひとで、大学在学中にパパと出会ってすぐ妊娠してあたしを生んだ。なんていうか、実にケダモノっぽい。前にパパにそういったらむずかしい顔をして、孕ませたほうが獣っぽくないか? ときいてきた。けどパパのは計算はいってるとおもうって言ったら唸られた。中り。大あたり。
あんまり感心した顔をするから、娘にむかって孕ませたとかいわないでよ、しかもその当人にむかって、デリカシーにかけると文句をいうと、パパはさも楽しげにわらった。パパってほんと下品なんだからって頬をふくらますと、上品なやつだってすることするんだよ、逆にあんなことするときまで上品なやつは信用するなよと真面目な声でこたえた。不精髭の横顔を見あげながら、なんとなく、どうしてかわからないけど少し、悔しかった。
パパとママは離婚した。パパの「浮気」が原因で。
ふたりは必死に隠しているけれど、わたしは知ってる。その相手を。
パパは娘に平気で下ネタをはなすひとだけど、それだけは知られたくないとおもってるみたい。バカだなっておもう。
よくいえば純情なのかもしれない。わからない。たいていの男の子と同じでパパも実はバカなのかもしれない。それは嫌だなっておもうけど。でも、パパがそのひとに惚れ抜いているのはわかる。
わたしはひとの秘密を暴くほど無礼じゃない。なにしろ夢使いになるのだから。
そう、わたしは夢使いになる。
そのひとは、夢みたいなひとだった。
なんていうか唐突で、謎めいていて、いまにも消えてしまいそうにはかなくて、それでいて清冽で、とても綺麗だった。
初潮の血の穢れをあの白い手で洗われた。怖いくらいに恥ずかしくて、それでいて不思議な昂揚があった。あいにくママが旅行に出ていない日で、パパは珍しくうろたえていたように見えた。あたしは無垢と情緒不安定を装ってあのひとに甘えた。なにも出来ないふりをした。じっさい怯えてた。初潮を迎えたことでなく、誰かを欲しいと願うつよい衝動に。だから彼女を引きとめて泣いたのは演技じゃなかった。
それまでわたしは十分におとなびたこどもだと信じてた。祖父が政治家で親は離婚、自身の夢使いの素養、そしてその修行がそれを後押しした。難しい家のむずかしい子だからめんどくさそうな雰囲気はまとわないよう気をつけた。明るくて素直なイイ子でいるのが務めとおもってきた。もちろんそれこそが屈託だってことくらい知ってた。でもしょうがないじゃんって開き直ってた。人生面白おかしく生きたほうがいいもん。
ふだんそうおもってることを隠さないわたしが泣きじゃくる姿にパパが折れた。噛んで含めるようにして言うことを聞かせようとするのを諦めたようだった。母親が帰ってくるまででいいから一緒にいてやってほしいと頭をさげるのを、彼女の胸にはりついたままそっと窺っていた。
今でも思い出してはため息を吐く。
あのひとのまとっていた香音の残響、その眩暈をおぼえるような美しさに。
ママが帰ってきて、わたしの異変にすぐ気がついた。そして、あのひとがお風呂に入っている隙に囁いた。
「あなた、あのひとは人妻よ。好きになっても無駄。早く諦めなさい」
仰天して飛びのいた。ママは滅多に喫わないタバコに火をつけて脚をくんでソファに座り、わたしを見た。
「年が離れすぎてるとか同性だとかはどうでもいいわ。でも不倫はおよしなさい」
「ママ、でも」
「でもじゃなくて。それにね、初恋なんてものは実らないほうがいいの」
マスカラの塗りたくられたまつげを伏せて煙をはきだしたママは、いつもと違うひとみたいだった。喫いさしに残るルージュが汚らしい。薄化粧のあのひとが、とても清潔におもえた。わたしはなんでか知らないけど苛立って声をあげた。
「ママなんて、パパしか知らなくて、すぐ結婚したくせに!」
「……そうね、でもそれで幸せよ。初めて好きになったのはじぶんの父親だったから。どんな男に告白されようと、父のほうがずっと、好い男だったもの。その点、あなたの「パパ」は優秀だったわ。それでその男たち二人に裏切られたけど、幸せよ。わたしには、あなたがいる」
ママは誇らしげに微笑んでいた。
敵わない。そう、おもった。
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