『夢の花綵』「多分、夢のように」2
しかしながら。
その娘は娘で、つまり俺の妻だった女は父親を憎んでいるわけではなかった。あの女が本当に恨んだのは俺のほうだ。要するに、俺は妻に嫉妬されていた。自分の出来なかったことを仕出かしたから。
俺の大胆さに。
不届きな振る舞いに。
あの女は嫉妬と羨望のまなざしを向けた。今でも、向けている。俺の前で泣いてみせたのは、自分の不甲斐なさのためだっただろう。
今さらだが俺はあの女のそういう気の強さに惹かれていた。誰もが羨む美貌でも楚々とした風情でもなく、内に秘めたなりふり構わぬ激しさに欲情した。が、それは俺のためのものではなかったわけだ。だから、それはそれで構わない。俺はそれをあいつに伝えるつもりはない。
離婚した俺は広告代理店を辞めて、あの男の事務所があるビルの一階、そこのコンビニエンスストアの店長に納まった。辞めると告げたとき同期の悪友はなんだ起業するんじゃないのかと心底呆れた。ついで慰謝料や何やかやで金が要るだろうデザイン会社つくるからお前の名前貸せと親切ごかした。渡りに船とはよくいったもんだ。金はまったく邪魔にならん。
だが俺は、正直にいうと隠棲したかった。疲れ切っていた。今になって気づいたがどうやらそうらしい。やれやれだ。
店のほうは母校にバイトの募集をかけたらやけに綺麗な顔した頗る出来のいいのがやってきた。そいつに仕事をまる投げし、俺は惰眠を貪った。これは余計な話だが、そいつが夢使いの相方だ。よくもまあ、あの朴念仁を射止めたものだ。そればかりは感服しないでもない。むろん褒めはしなかったがな。
俺はといえば、餓鬼みたいに飢えていた。妻と別れて気兼ねしなくなったともいう。
あの男と同じコロンをつけた。誰も気にはしない。同じ香りを身に着けながらそれが互いに違うものになる。その愉悦をとことん味わった。お互いに。体温の高まりを分け合いそれぞれのにおいを奪い合うように貪った。それらが混じり合いひとつになるまで。
あの男は俺の首に絡げたネクタイを片手で引き、こういうのもオフィスラブというのかな、と俺の上に跨って苦笑しながら、切なげに眉をひそめて問うた。俺はこたえられなかった。我を忘れてただ腰を突き上げていた。外遊から帰ってきたと電話一本で呼び出され、土産だといってアンティークのカフスボタンと高価な時計を渡された。一度結婚したことのある男には指輪では物足らないだろうと微笑んだ男の頬を掴み、くちづけて後はもう、わけがわからなくなった。
舶来物のスーツを台無しにしてくれて、とあの男は荒い息のまま俺を睨んだ。その目尻には愉悦に零れた涙の跡があった。
枷を嵌められたい。首輪で繋がれたい。
俺は、あの男の奴隷だ。
白状するが、俺は、ああいう「顔」に弱いだけだ。たまにそう、思う。それだけのこと、それだけのことだ。多分。
あるときのこと。
写真を撮って、マスコミに売ったらどうなると脅すと、あの男は哂いもせず口にした。
君は、言わない。
俺を信じてると?
君は私のものだ。私は、君の裏切りを許す気はないよ。秘書にしてやると言ったのを拒んだのは君のほうだ。何が欲しいのか言ってごらん。
愛していると言わせたかった。俺だけだと誓わせたかったが、あの男は頑として首を縦に振らないでいる。あんなによがり、俺を幾度も乞うたくせに、亡くなった妻を今でも愛していると嘘のような言葉をくりかえした。俺を自分のものだと言い、しかもあんなに高価なものを惜しげもなく投げ与えておきながら、その身体さえ俺の好きにさせるくせに、こころだけ許さないなんてあるものか。
いつだったか腹立ちまぎれに、貴方の奥さんはこんなことまでしてはくれなかっただろうにと最中にぶつけてやった。すると、あの男は俺の無様な嫉妬に可愛いことをいうと目を細めた。俺の顔を下からとっくりと眺めながら、妻は私のこどもを生んでくれたと口にした。
裸になっているときだけは俺を視ていると感じた。女のように目を閉じなかった。こんな俺のからだを見て面白いように興奮するのが可笑しかった。
それから、確かに娘がいなければ君とこういう関係になることもなかっただろうねと顎を反らした。俺の羞恥と狼狽、痛烈な悔恨とただならぬ歓喜を、あの男はすみからすみまで隈なく味わっていやらしく腰を揺らした。仰のいた白い首を絞めつけて殺してやりたいと思った。俺の腕のなかで死ねばいい。たしかに俺は、その瞬間、幸福だった。
だが、終わって後の呟きは俺を凍りつかせた。
あの女は夢をくれた。この視界でもっとも馨しいそれを。
あの男の妻は「夢使い」だった。この視界に夢をもたらす、不思議の力をもった者だ。
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