階梯と車輪27
その瞬間、背が軋むほどに抱きしめられた。息苦しさに喘ぐ唇を追い、頬を掴まれて貪るように口腔を荒らされた。愛撫と呼ぶには一方的にすぎ、それでいて切なさがます。ただたんに自身の欲望が解放されることを希う激しさとは違う。そう感じて戸惑った。だが狭い浴室で男ふたりが抱き合うのは窮屈で仕方ない。せめてベッドへ行くべきだと頭で思うが猶予もないほど切羽詰っていたのは彼のほうだ。
そうして縋りつかれて思い当たる。
彼は、置いていかれた子供なのだと。
好きだと言われなかったと告げたほんとうの意味を。くりかえされた言葉は、それをこそ望んでいるのだと。ここまで追いかけてきたのは情熱や無鉄砲、店長のいう図太さのせいでなく、ただただ不安だったからだと。
だから。
名前をよんだ。
はじめて、その名を呼んだ。
彼は動きをとめてこちらの顔をのぞきこむ。荒い息遣いをおさめようとして出来ず、肩を上下させながら。
もう逃げない。ここにいる。
そう告げたが、彼は意味をつかみそこねたような表情でいた。無理もない。俺は説明するのが下手なのだ。自身の感情を、気持ちを、うまくひとに伝えられたためしがない。
それらは取り扱いがむずかしい。まるで夢のはかなさに似て、たしかにそこにあるのに、いつでもこの指の間から零れ落ち、ひたすら地を目指しておりていく。そうして取りこぼし、地へとおりていくものを俺はいつもただ虚しく見つめるだけだ。
「魘」はいい。俺の髪に触れ指に絡み爪で弾くことが容易だ。よく聴こえ、よく響き、よく残る。わかりやすく、扱いやすい。
けれど夢の正体はそこにはない。
おそらくは、俺はきっと鈍感にすぎる。
小さく些細でこまごまとした、揺れのある、定まらぬ、あの震え、俺にはとうてい拾い尽くせぬ香音のはかなさこそが、夢の正体であろう。だからなのか、師匠は、俺が「魘」を取り扱う手つきを褒めたことは一度たりともない。それを叱ったこともないが、いつも難しい顔をして吐息をついた。
ここって……
問いかけに引き戻される。行為のあいまに気を散らしては不審に思われても仕方ない。それに、こことはどこなのか、やたら難しい言葉を口にしたと今さらに気がついた。
そばにいると言ったつもりだ。
視線をずらした。目を見て言うべきことだが気恥ずかしさには勝てなかった。すでに俺の吐き出したものを飲み込んだ相手に、そしてそれを拒み通さなかった自身にも呆れていた。俺はいくどか嫌だと言った。離せともやめろとも声をあげたはずだ。しかし、殴ってでも抵抗しなかったのは欲望に負けただけのことではない。まして口に含まれる愉悦のゆえでなく、好きなくせにとくりかえされて気持ちが挫けたせいだ。何もかも知られ、からだの中心までも彼の手と口に思うさまいたぶられ、ウソのつけなさに諦めた。ごまかしようがなかった。
それで今さら告白も何もあったものじゃない。なのに、察してくれと懇願するはずが視線の熱に煽られて、俺はさらに間抜けなことを囁いた。
足らない。
え。
そんなに欲しがるならくれてやるから大人しくしろ。
主導権を握られるのは好かなかった。さきほど俺の余裕のなさを存分に味わい、愉しんで、思うさま奪い尽くした相手に快楽だけを与え、いい気分で終わらせてやる気は毛頭ない。
俺は、彼の腕を掴んで立ち上がらせた。まだ視線の定まらない様子なのをいいことに、その耳に舌を這わせながら告げた。
明日足腰立たなくなるのを覚悟しとけ。
むろん反論も抵抗も聞かずに引きずっていく。そうして狭いベッドに押し倒すと、彼は俺を渾身の力で抱きしめた。
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