階梯と車輪25
焦ってドジ踏みました。転んだだけ。心配ない。囁きを拾いとろうとする頭を両手に挟まれて壁に押し付けられている。油断した。片手にはまだ携帯電話を握り締めていたわたしに反撃の手はない。ほとんど身長が変わらない相手とこんな近くで接するのは初めてのことだった。その現実に驚いてすぐ雨のにおいに気をとられた。髪の先から零れ落ちた整髪料の香りに混じったそれが血のにおいを消した。むき出しの肘とあご、それと掌に擦過傷がある。血の出たままの頤に触れると痛がるように頭を引き、かわりにわたしの着ていた服に手をかけた。
あなた、プライド高すぎ。そういうとこがそそる。
そそると評されたのは人生初めてのことだったが、わたしとて言われっぱなし、否、やられっぱなしでいたわけではない。
泥臭い。
そう言って力いっぱい押しのけた。ふたりのあいだに僅かながら距離ができ、そこに空気が入りこんで初めて、互いのからだの熱を意識した。
「とにかくシャワーで血と汚れを流して。黴菌が入る」
「そんな、おおげさな」
「けど、ゾンビみたいだ」
きょとんとした顔をした。まあ、わからないだろう。電話をおいて振り返ると、彼はおとなしく靴を脱いだ。フローリングに素足の跡が残るのを見た。靴までずぶ濡れとは雨音も強いはずだ。そう指摘する前に、彼自身さすがに冷静になったらしい。汚してすみませんと頭をさげた。ほっとして背中を向け、どこに救急箱をしまったか思い出そうとしたところで後ろから抱きつかれた。
「もう逃げない? おれがシャワー浴びてる間に出て行ったりしませんか?」
「……ここはわたしの家ですから」
両腕を引き剥がしながらそうこたえたつもりが、風呂場へと引きずられた。じぶんの頬にも腕にもうっすらと血がついているのは察していた。だが、着替えはともかく救急箱の在り処は探しておきたくて口にすると、こんな掠り傷なめときゃ治りますと呆れたようすで返された。シーツや服に血がつくのが面倒で嫌なのだと言い出しかねるわたしをよそに、ひとの家の風呂場になんの躊躇もなくさっさと入る裸の尻を見ただけで気がうせた。
いっそ、本当に逃げてやろうか。
不穏な気配を察したのか、伸びてきた腕に引き入れられる。次の瞬間、服を着たまま冷たいシャワーを頭から浴びせられた。
服についた血はお湯で洗っちゃダメだって習いましたよ。
呟きとともに流水が去り、再び唇を合わせようと近づいた顔を今度こそ片手で押さえた。
話しをするんじゃなかったのか。
彼はわたしの手首をつかみ、そのまま足の間へと導いた。彼のと同じようになっていた。無遠慮なやり方に腹を立てたが、続くことばには赤面した。
あなたおれのこと好きでしょう。あんな顔して逃げておいてここだってこんなで今さら話しとかふざけてるんですか。
ふざけてないと返す口を塞がれて、何故この俺が切羽詰った顔をせねばならないのか考えていた。お行儀よくパジャマなんて着込んじゃってと辱められて、まさか師匠からの手向けだなどと説明する義理もない。俺には俺の暮らしがあるはずなのに、その何もかもをこの手が剥き出しにする。さらには熱に浮かされた顔つきで目を伏せて口をこじあけようとする男は憎らしい。だが、握られたそこは気持ちと裏腹に、否、逆らうように反応し、布越しに擦られるもどかしさと慣れぬ愉悦に腰が揺れた。
このままでは流される。
理性の警告はだが、今となっては威力はない。下着ごと引き下ろされて屈まれた。俺はその快感を知っていた。拒絶の声は、彼をただ煽るだけだった。
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