階梯と車輪9
「彼氏に連絡しなくて平気?」
こちらの問いに、彼女は怪訝そうな顔をしたあと表情を強張らせた。その瞬間、僕は悟った。彼女の待ち人が恋人ではないことを。
「……彼氏じゃないからべつに平気。不倫、だから」
指先で目じりの涙をはらい、呆けたままの僕に続けた。
「あちらは結婚してるの。そんなに驚くほど珍しいことじゃないでしょ?」
僕を見あげた瞳はまだ濡れていた。何を言うともなく口をひらきかけたところで、
「なにも言わないで」
「けど、君がこれだけの用意をして……」
「だから相手は結婚してるって言ったじゃない。べつにこれが初めてじゃないし、それにしょうがないでしょ。そのへんは割り切らないと」
「割り切るって、じゃあ相手はどういうつもりで君と付き合って」
遊び、という言葉が喉まで出かかって、さすがに引っ込めた。けれど彼女は平然と、おそらくは飲み込んだ言葉を見透かしてこたえた。
「知らないわよ」
「知らないって」
こちらが声をあげるところではないとわかっていたが止まらなかった。知らなくてどうすると問うたのに、彼女は静かに僕を見た。その顔には涙もない。まして僕に対する憤りもなかった。それでも彼女は口にした。
「……あなたに、あたしの何がわかるっていうの?」
「それは」
僕が、あのとき彼女に返した言葉だった。僕たちふたりはその「ことば」を真ん中におき、向かい合う。お互いの目に相手をうつし、彫像のように固まって。
ただし今回、さきに動いたのは彼女のほうだった。あのとき席を立ったのが僕のように。
「悪いけど、帰ってもらえるかな。あたしが甘えて来てもらったのがいけなかったと思う。余計な迷惑をかけてごめんなさい」
そう言い終える前に僕の荷物を部屋へと取りに戻っていた。僕はそこで動かず、動けないまま、その華奢な後ろ姿を目にした。
「最終電車ギリギリだね。タクシー使うか、駅の向こう側にならホテルもファミレスも漫画喫茶も何でもあるから、購い料のなかから支払って。夢は、いらない」
「それは」
「いらない」
髪を揺らすほど拒絶された。
「夢なんて、いらない。どうせ夢から覚めたら何も残らない。あたしの日常は何も変わらない。慰めなんてなくていい」
何も、言えない。言えないで、いた。
渡された荷物を胸に受けとめたまま、喉に、鼻の奥に、眼の裏にせりあがるわけのわからない熱い塊を懸命にのみこんだ。薔薇の香りだけが場違いに甘く、花弁の白さを際立たせ、彼女の濡れた頬を思わせた。たぶん、彼女は泣いていない。泣いてはいない。
僕は彼女の顔を見ることができないまま、さよならを言って扉をしめた。返事は聴こえなかった。
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