寿司だけがない世界

森山たすく

寿司だけがない世界

 この世界には何でもあった。美しい自然も、豊かな文明も、輝ける未来も。

 ただ、寿司だけがなかった。


 始まりは、ある冒険家が発掘した古文書だった。ぼろぼろになったそれの、辛うじて読み取れる部分には、『寿司』という文字が記されていたという。


 この世界にかつて、今とは違った文明があったということは知られていた。けれども永い時という断絶は探究者を拒む。『寿司』という文字は、そこへたどり着くための重大な鍵になると思われた。


 各国の王は、『寿司』を手に入れるため躍起になった。ある国の王は、それが食物であるということを突き止めた。すると別の国の王が、それを再現できた者へ大きな褒美を与えるという触れを出した。

 平和だった世界の均衡が崩れていく。――いや、決して平和だった訳ではない。停滞の中で微睡まどろんでいたに過ぎないのだと、人々は気づき始める。


 誰もが『寿司』を欲していた。暗澹たる世界に『寿司』さえあれば救われると信じていた。ある場所では『寿司』の情報が高値で売買され、凶手たちが暗躍した。またある場所では『寿司』を知らない者たちの手で像が作られ、多くの人々が巡礼に訪れた。


 そして今僕は、多くの犠牲と引き換えに、ここにいる。励ましあった仲間の姿は既になく、傷ついた体を引きずりながら、薄暗い倉庫の中を手で這うようにして進んでいた。


 小さな箱。

 蓋を開けた時、輝きを目にした気がして涙が零れた。家族や友人、仲間――大切な人たちの顔が浮かんでは消えていく。指先を差し入れた時の柔らかな感触に、人肌の温もりを思い出した。

 目が霞む。もう僕にも時間は残されていない。無我夢中でそれを摘み、口の中へと運んだ。


「ああ」


 噛めば、少し鼻をつくにおいと共に、また涙が頬を伝った。それは僕の聞いていた『寿司』とは違っていた。何もかも、遅すぎたのだ。


ずし……」


 それでも、旨かった。

 僕の意識は絶望ではなく、新たな可能性を見た喜びの中で薄れていった。


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