第22話 『探偵王女とルーン卿』
「背中、洗ってくださいませんか」
「な、何言ってんだ、そんなの自分でやれよ」
ルロイは急に焦ったふうに怒り出した。頭ごなしに叱られる。
シェリーはしょんぼりと肩を落とした。
ともすれば、すぐに、こうやって忘れてしまいそうになる。
もう、自分は王女などではないのだ。誰も部屋にバスタブのお湯を運んできてはくれないし、湯船に薔薇の花を浮かべてもくれない。石けんの良い香りにうっとりすることもなければ、湯上がりに身体が冷えないよう、大きなガウンでくるんでくれる侍女もいない。
顔を伏せて、揺れる水面に映る自分の顔を見つめる。
「ごめんなさい。これからは何でも、自分でしなくちゃいけないんでした」
「別に怒ってるわけじゃないぞ。洗ってやるとか、そういうのはだな、これは、その……何というか、男のケジメってやつをつけてからだ」
「はい、分かってます」
気を取り直し、周りを見回す。ルロイの姿はどこにも見えないのに、声だけが焦った風に聞こえてくる。なんだかおかしかった。くすくす笑う。
身体を泉に沈めると、ちゃぷん、とかろやかな水音が夜空に跳ねた。
「冷たいけど気持ちいいです」
せっけんをぷくぷくと泡立てて、顔を洗い、髪を洗って、泡を肌に滑らせて身体も洗う。汚れを落としたあと、ぱちゃぱちゃと手で水しぶきを飛ばして泉に遊ぶ。
「楽しい」
「何やってんだよまったく。こっちの気も知らないで」
ぼそりと苦々しくぼやくルロイの声がした。
「ごめんなさい。あんまり嬉しかったものだから」
シェリーはルロイの傍へ行きたくなって、泉から上がった。
「こんな綺麗な泉で水浴びできるなんて夢にも思っていませんでしたから」
「もう終わったんだな?」
「はい」
「じゃあ水から上がって火に当たれ。暖まったら帰ろう」
「はい、でも」
「でも何」
「ルロイさんは水浴びなさいませんの?」
「俺のことはどうでもいいだろ。行水なんていつでもできる」
やけに突き放した返事が戻ってくる。乱暴な口調で、何だか怒っているみたいだ。
でも、ルロイがそんなに怒りっぽいたちではないことは、シェリーにも分かっていた。きっと待ちくたびれているだけなのだろう。ここはちょっとしたいたずらを仕掛けて、ルロイの苛立つ気持ちをほぐして差し上げなければ。
シェリーはぴたりと岩に身を寄せ、息を殺して、ルロイの背後から忍び寄る。
そう言えば、昔読んだ女の子向けの宮廷ロマンスにも、こんな話があった。宮廷の侍女たちや年若な貴族令嬢たちの間でいま大人気の、『探偵王女とルーン卿』というどきどきわくわくロマンス小説だ。
作者名はパドニーノ男爵夫人──と呼ばれてはいるが、実は正体不明だという。いったい誰が書いたのか、その正体をめぐってさまざまな憶測が飛び交っていたことを、ふいに思い出した。
「宝石を盗んで逃げた盗賊を追っていたおてんば探偵王女のアンが、森で出逢った謎の旅人を、盗賊と勘違いして忍び寄るシーンみたいです」
そのシーンでは、相手を盗賊だと勘違いをした探偵王女アンが、後ろから忍び寄って、剣をつきつけ、勇ましくもこう
岩の向こう側で、焚き火の赤い炎が躍っている。ぱちぱちと薪の爆ぜる音が聞こえた。
ルロイが身を起こす気配がした。やっぱり。どんなにこっそりと近づいても、すぐに気付かれてしまう。
「シェリー、火に当たるんならこっちへ……って、うわあ!」
「ルーローイー、さんっ」
シェリーは一糸まとわぬ姿でルロイの背中に飛びついた。ルロイは身をのけぞらせ、ぎょっとした顔であわてて目をそらした。
「ふ、ふ、服は!?」
「うふふ、びっくりしました?」
なぜか、びっくりしたにしては、鼻を押さえ、尻尾をばたばたさせて、右往左往している。何か反応がヘンだ。
なぜそんなにも動揺されるのか、さっぱり分からない。シェリーはきょとんと小首をかしげた。
「わ、わかった、分かったから背中に、あの、あれじゃなくて、その! 当たるから! 早く服を着てくれ。着た? もう着た?」
「今からですけれど」
「早く!」
「はい」
シェリーは少し驚かせすぎたかな、などと思いながら、着替えを置いた場所へと戻った。身体を拭くために、かごの中のタオルへと手を伸ばす。
指先が、かごの持ち手にこつんと当たった。
かごは岩から転がり落ち、ころころと跳ねて、川の流れにぱしゃんと落ちる。
「あ」
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