第16話 強さの所以


 

 ◇

 流海は、ゴキブリの件を忘れようと煙草をふかす。

 数分後、携帯電話を操作して、掛けた。


――イナミ、起きてるかな。


「お久しぶりでございます」

 

 とたんに流海は十代のころを思い出し、咥えていたマルボロを落とした。

 電話の相手、宮田みやた啓馬けいまに向かって――

「おまえ、『アイ』――」

「誠に申し訳ございません、現在電話に出られないため発信音の後にお名前とご用件を、二十秒以内でお願い致します」

 

 どおりで変わらないわけだ、と肩透かしをくらい、同時に苛立った。


――アプリじゃないな、声を録音できる機種かよ。どこで手に入れたんだ。


「イナミを庇って、夜の交差点で後ろから刺されて、死んじまえ」

 流海は二十秒かけて言って、きる。そしてまたマルボロに火をつける。


――この十年で変わったのは、あたしだけかも。


 そんな哀愁をもって朝の空を見る。青空に数人の友人の顔が浮かび、それぞれの個性的、いや、病的な性格を逡巡した。

 

――へらへらのっぽのヒカル(別名、ダークマター)。


――イナミにぞっこんの宮田(別名、ツンデレ要員)


――ことなかれ主義の百地(別名、灯った事のない昼行燈)。


――そして麒麟児、玉緒(別名、天才的なお人良し)。


――どいつもこいつも、才能と努力を兼ね備え、人間性を疑う変人ばかりだな。


――あたし(別名、劣化遺伝子・姉)も同じ穴のムジナか。


 流海は頭をかいて、バイクに向かった。


――とりあえず、駅に向かうか。

 

 ◇

 裕也は夢を見ていた。

 音だけの夢。


 かつーん。

 足音より高い、竹の音。

 

 どん。

 太鼓の重い響き。


“人の世の 初めにありし カムの意思”

 聞いたことのない、中性的な声。


 それらがおりなす、奇妙な世界。


“触れるもの 見えるものを 灰とせむ”

 かつーん。

 どん。


“我はヒオウ。ぬしは人か、真っ当か”

 かつーん。

 どん。


“あわれ外道、非道であるか。悲しかろう、苦しかろうて”

 かつーん。

“我は人となり、主はカムとなれ。今生一切こんじょういっさい、あまねく屍は主のわざ、我は見るのみ”

 どん。

“おお。逃げるなかれ、恐れるなかれ”

 どん、どどん。

“森羅万象、全ての正義は主にあり”

 かん、どん、どん、どん。

“主は太極たいきょくに至りて、世を無極むきょくへ返せ”

 どん。

 ど、ど、どど――。

“主は神なり、正義なり。万能なり、全てなり”

 かつん。

“親殺し”

 どん。

“咎めなし、人でなし”

 ど、どん。


 ◇

 朝、午前六時。

 玉緒アキラは境内の清掃を終えて、道場へ向かった。毛布と、ミネラルウォーター、手紙を持って。


 雀の囀りが朝の道場内にも聞こえていた。

 弾けたサンドバッグ、大の字で眠る草薙裕也。

 裕也はイビキもなく、すやすやと眠る。

 玉緒は毛布を掛け、彼の傍に紙とペットボトルを置く。


 文面は簡潔だった。


『起床後、道場の掃除をしたのち水を飲むこと。鍛錬はご自由に。朝食は家で』


 それだけだった。玉緒アキラは神棚に一礼して道場から出る――


 とたんに手にしびれが走った。

 両手に電流を流されたような痛み、そして、震える。


 玉緒は歯を食いしばって耐えた。


――お姉ちゃん、雅也君、落ち着いて。


 そう念じて道場から出て、お堂を通り、階段を降りて境内に向かう。

 石畳に足をつけるとしびれは収まった。玉緒は息をつく。


――こんなところを見せたら、裕也くんに嫌われる。


 頭を振って深呼吸をする。桜を見上げ、舞い落ちる花弁をしばらく眺めていた。

 幾分か気持ちにゆとりができ、朝食を手伝おうかと思った。

 玉緒は視線を感じ、境内の入り口を見た。


 背の高い、アジア系の女性が立っていた。

 玉緒はお辞儀をして言った。


「おはようございます」


 返事は無かった。


 ヒュン――と玉緒の顔、右を風のが通り過ぎる。


 玉緒は、改めて女を見た。


 身長は玉緒より高く、足も長い。髪は短い。服装は長いコート、裾は膝まであり、見える足は細い。低いヒールを履いている。両手はだらんと下げているが、手元まで袖があり隠れている。

 

 玉緒は顔が気になった。端正だがガムを噛んでいるかのように口を動かせ、つんとした目。

 玉緒を睨みつけていた。


「何か御用ですか」と玉緒は問うが、女は返事をしなかった。


 かわりにまたもヒュン、と風切り音がする。

 玉緒は首を左に傾ける、

 右耳に、何かが通り過ぎる音。

 

 女は、ぺッ、と唾を吐き出して言った。中国語と片言の日本語を混ぜた言葉。


「ユァンライルゥツゥ……殺気で大氣たいきを歪められたら、手元が狂うネ。私、二度も〝シャン〟を外した事、初めてヨ」

 

――中国語? 拳法使い?

 玉緒は女に向かって己の身体、右側だけを向ける。


 女は仁王立ちしたまま言った。

「玉緒アキラだったネ? 私のこと警戒しすぎヨ。中国人イコール拳法使いは間違いヨ。ほぼ一部だけネ……私とか、ネ」

 

 玉緒は右側だけを向けたまま。


 流れる時間、ざわめく桜。


 女は右手を突き出し、言った。

「連射アンド命中率アップ、ネ」

 

 ヒュヒュ――玉緒は足を使い、女を中心に弧を描くように動く。

 玉緒を追いかけるよう女の右拳も動く。

 風切り音は途切れることなく続き、玉緒は見た。


――右拳に何かを握りこみ、指で弾いている。


 玉緒は懐に入ろうと思うが、予測したように風切り音が鳴り踏みとどまる。


 その繰り返しを続け、女は左手も突き出し、言った。

「ちょこまか五月蝿うるさいネ。攻撃力アップ、ダブルでいくカ」

 

 両手から音が鳴る。

 ビビッ! ビ! 

 ビビビ――ランダムで鳴る音。風切りとは呼べない、重い音が鳴り続く。


 玉緒は距離を取り回避し、考える――


――カムイではない。おそらく羅漢銭らかんせん内氣ないきを込め、指を外氣がいきで強化して撃っている。まるで機関銃。魅入みいれから空歩くうほで詰める、いや、弾切れを狙う。


 女は右手を下げ、左手のみ玉緒に向けた。


――弾切れ。好機。

 

 玉緒は踏み込む。女の懐に潜り込み、右の掌底を当てようとしたが――


――否、右から零距離射撃! 狙いは私の顔面!


 掌底を止め開手かいしゅで女の攻撃を掴み取る。

 すぐ玉緒は後ろに跳んだ。

 汗が噴き出た。背中にも、顔にも。


 玉緒が距離を取る前に掴んだものは――太く、硬い寸鉄すんてつ


「どなたか存じませんが」と玉緒は言った。「朝から挨拶も無し、物騒なことを」


 女は「アイヤー!」と声を上げ、笑った。「惜しかったネ。当たってたら言い訳ができたヨ。でも……なんか楽しくないヨ。私、降参するネ」


――降参? 言い訳? 


 女は両手を天に上げ、振り返り、階段の下に向かって言った。

「鯨波、私、降参ヨ! やっぱり強いネ!」


 玉緒は礼をしてから女に歩み寄った。彼女に寸鉄を差し出す。

 女は受け取り、ニコニコと笑って礼を述べた。

「シエシエニィア。撃った〝シャン〟は、お賽銭ネ。ぜんぶ桜に当てたヨ。加減したから、被害も無いヨ」

 

 玉緒は、しかし、と言った。

「どうして止めたのです。技量はあなたの方が上、勝敗はまだ決まっていなかった」

「ハハ。私が本気になるイコール玉緒もカムイを出す、ならどっちか死ぬ道理。もし私が生き残っても、家族に殺されるネ? 自殺行為は嫌いヨ。今日は楽しくバトルしたかっただけネ。なのに――」

 

 言葉を切り、女は階段の下に向かって叫んだ。

「チュンツァイ! 情けない男ネ!」

 玉緒は階段の下を見た。

 ジャージ服にタオルを巻いた禿頭の男が、一段ずつ上がって来る。

 その男――鯨波団吉に向かって玉緒は声を掛けた。

「団吉さーん。もう少しで半分ですよーっ」


 ◇

 鯨波団吉は、階段の中腹で膝に手をつき、動かなくなった。


 玉緒と女――レンと名乗った――は、仕方なく彼の元まで階段を降りた。

「せ、先生」と鯨波が息をきらして言う。「負けたってツラじゃねぇですが、本気でやったんですかい?」


 蓮は鯨波の足元に〝シャン〟を撃つ。

 ビビビッ―—鯨波は悲鳴を上げて足をじたばたと動せた。

 

 撃ち終えて蓮は声を張り上げた。

「ファンスーラ! 私、降参したヨ! 女に〝負け〟と二言は無い、これ私の信念! 文句があるなら掛かってくる、それが任侠、男の道理!」


「へ、へい! 失礼しました!」

 頭を下げる鯨波。玉緒はまじまじと彼の足元を見た。石で作られた階段に五円玉が十数枚も突き刺さっていた。


――小銭とは思えない貫通力。手加減されたとはいえ、もし避けずに防御していたら。


 玉緒の表情が曇る。

 蓮は、やれやれ、と言った。

「玉緒、こいつは私に依頼してきたヨ、面子のため勝てば良し、負けても口実にできるからとにかく戦ってくれってネ。鯨波とは、知り合いネ?」

 

 蓮に向かって玉緒は「はい」と言った。


 蓮は右手をぐっと引き上げる。すると突き刺さった五円玉が彼女の手に戻った。蓮は小銭を数えながら続ける。

「むちゃくちゃなオーダーだヨ。でも私、断れなかったネ。だって鯨波、私の常連ネ。鯨波、シャンハイ・パオペイから依頼をされたネ。連中のオーダー、断るイコール……」

 

 再び玉緒の両手が震えた。強く握り、歯を食いしばった。

 風が吹く。突風だった。


「ほらネ」と蓮は言った。「殺気を全開にした玉緒、怖いヨ。相手の技量を知る、これが勝つ常識アンド生き残る常識ネ。鯨波も見習うヨ」


 鯨波は汗を拭いつつ、ですがね、と言う。

「先生は傷一つないってのに……無理ですか、玉緒嬢とやり合うのは」

 その問いに蓮は鼻で笑った。

「愚問ネ。もうバトルする余裕無いヨ。玉緒は生き死にの世界に入ったネ……イコール命懸けヨ。この場合、問題は相性ネ。私、玉緒との相性が悪いヨ。だから降参したネ。ミンバイマ?」

 

 鯨波は、はあ、と返事した。


 蓮は「バトルの道理、知らないカ?」と言ってコートを脱ぐ――階段に置かれたコートは、がしゃん、と音を立てた。

 

 玉緒は、暗器かと思いつつ蓮を見て、息をのんだ。

 蓮は薄いタンクトップを着ていた。玉緒は、その肉体に見惚れ、感じた。


――百戦錬磨。


 蓮の腕には古い銃創や刀傷が無数にあったが、なによりも肉の付き具合が異常に思えた。二の腕から背中まで硬さとしなやかさを重ね合わせた、無駄の無い筋肉。肘から手に向かうほど引き締まっていき、ところどころ血管が浮き出ている。

 胸こそ豊かで女性に違いないが、腹は出ておらず、割れた腹筋がシャツ越しにもわかる。

 大里流でいう外氣がいきの鍛錬や筋肉トレーニングをしても、果たしてここまで作り上げるだろうか、と玉緒は唾を飲んだ。


――生半可な覚悟ではできない。女性がここまで鍛えるなら内氣ないきを湖面のように整えなければ。そのあと発狂寸前の苦行、数えられない修羅場を超えていく。私とは住む世界が、違う。


「この体を見せると私に喧嘩売るヤツ、少ないヨ」と蓮は言った。「玉緒は小さい。もし玉緒が素人なら、私も嘗めて掛かるヨ……でも玉緒は武術家、しかも絶対退かないネ。私だけでなく、みんな苦手。これが玉緒の強い

理由ヨ」


 鯨波は、わかった、と声を上げる。

「柔よく剛を制す。玉緒嬢はそれで強いと」

 

 蓮は首を横に振った。

 彼女は玉緒に手を伸ばした。ゆっくりと。

「すこし違うネ。私、大きい。玉緒、小さいイコール……」


 そう言いながら伸ばされた蓮の手は、玉緒の顔面に寸止めされる。

 蓮は拳を、玉緒の顔面に振り下ろす形になる――


「さっき出会ったばかりだけどネ、これが玉緒の強さアンドネ。道理は鯨波、自分で考えるヨ。連中に言い訳するなら、今、私の言ったこと、降参した理由を意味深くして済ませるネ……私が狩るから無駄かもネ」

 

 コートを拾い上げ羽織る蓮は、玉緒に言った。

 笑顔だった。

「私、これから連中とやるネ。もしゲームなら死亡フラグ、デッドエンド確定ヨ? 断りたいけどそういう商売、選んだ人生だからネ。玉緒ならわかるネ?」


 玉緒は、蓮の笑顔に対し精一杯の作り笑いで返す。

 蓮の笑顔、声に玉緒は毒気を抜かれていた、そして優しさと寂しさを感じ――


――死を受け入れている。なのにまるで、友達の家に遊びに来て、名残惜しく帰る子供のよう。


 蓮は背伸びして言った。

「ガチンコでやらずとも、玉緒は噂通り強いってわかったネ。生き残ったら改めてしたいヨ。私、太極拳、八卦掌が好きネ。大里流は心意六合拳の流れを汲んだって光子ひかるこが言ってたヨ」


「ヒカルちゃんのお知り合いですか?」

 絞り出すように玉緒は問う。

 蓮は微笑んで頷く。


 玉緒は、思いをそのまま声にした。

「私にも、手伝わせて下さい。中井との決着をつけたいのです」


 すると蓮はしばらく口をつぐみ、やがて親指で地面を指し、軽快な口調で言った。

「玉緒、ビェシャォカン〝パオペイ・ベイビー〟」


――ヒカルちゃんの癖に似ている。まさか、蓮さんもあいつらに? 復讐をするため、鍛えた?


 蓮は、玉緒の立つ段の二つ下を降り、振り返りざまに右拳を出した。


 バシッン――


 玉緒も鯨波も、桜の花弁すらも蓮の拳には当たらない。空気、大氣たいきだけを弾く音。


 玉緒も、蓮に向かって右拳を繰り出す。


 パァンッ――


 蓮は、笑って声を上げる。

「良い鳴拳めいけん! 次が楽しみネ!」

 

 玉緒は右手を戻してから頭を下げ、言った。

「私、もっと精進します。蓮さん、御武運を」


「ウォーツータオラ。ザイジエン!」

 そう言って蓮は階段を降りて行った。

 玉緒はその姿を見送り、心で誓う。


――ありがとう。私は知らずに殺気を漏らしていました。きっと昨日から感情を抑えられず、自覚も無く。私の武、私の信念が揺らいだ未熟な証です。蓮さんはそれを知って、教えてくれた。国、流派、生きる世界は違えど尊敬し、鍛えます。また会える日を。


 ◇

「とはいえ、事態が……」玉緒は顔を上げて鯨波を見た。

 彼は汗浮かべながら、ため息交じりに言った。

「すまねぇな。因縁付けるつもりはもう、さらさらねぇんだ」

「でしょうね」と玉緒が言う。「いつぞや、裕也くんたちに組を潰され、幾度も報復し、返り討ちされたのに。もう歯向かうとは思えません。蓮さんほどの武士もののふを使いにした真意、中井たちの思惑、教えていただけますか?」


 鯨波は、ああ、と言いながらポケットを探った。

「先生も言ったが、昨日、俺のところに依頼が来てな……神社まで連れて行け、玉緒嬢たちを襲えと……断る理由がほしくて先生に頼んだんだ。そしてこれだ」

 

 彼が取り出したのは志士徹の免許証だった。


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