第19話 一日の重み
そこには男女二人の子供がいた。
女の子は汚れ一つない服を着てベンチに座り、男の子は泥だらけの服で彼女の前に立っていた。
女の子の髪は長く、前髪でほとんど目は隠れている。
「なにしてるの」男の子が話しかけた。声変わりのしていない高い声。
「……誰が?」少し遅れて女の子が答えた。自分が話しかけられたと思っていなかったみたいだ。声を出す前、そこにいることに今気付いたかのように男の子を見た。
「きみだよ。だってきみしかいないじゃん」
「……外に、いるの」緊張で震える声。
「知ってるよ。じゃなかったらぼくは話しかけられないよ」
「お母さんが、外に、たまには行きなさいって……。だから、外にいるの」
「いつも家にいるの?」
「うん」女の子は頷いた。長い髪が揺れる。「いつも、本を読んでる」
「へえ、凄いね」男の子は感嘆の声を出した。「どんな本を読んでるの?」
「いろいろ」
「そっかぁ、いろいろかぁ。僕は漫画くらいしか読まないよ。あとは図鑑かな。図鑑とか好き?」
「……よく読む」
「他にはどんな本を読むの?」
「小説とか……」
「かっこいいね」
女の子は膝に載っていた手をきゅっと握り、さらに俯いた。その顔はカーテンのように垂れ下がった前髪で見えなくなった。
「どうして」
「なに?」
「どうして、わたしに、話しかけるの?」
「一緒に遊ぼうと思って」
「なんで?」
「一緒に遊びたくない?」
「あっちに……」女の子は膝に手を載せたまま指をさす。その方向には五、六人ほどの子供たちが集まっていた。「あっちに、たくさんいるじゃない。わたしじゃなくても……」
「一人でも多い方がいいよ。その方が楽しいっ!」男の子は大げさに腕を広げた。
「つまらないよ」
「え?」男の子はきょとんとした。
「わたしがいても、つまらないよ」
「なんで?」
「運動とか、得意じゃないし……」
「関係ないよ」男の子は言った。「運動が得意だから遊ぶんじゃないよ。遊ぶことが好きだから、遊ぶんだ。きみだって本を読むのが好きなんでしょ?」
女の子は頷く。
「本が好きだから本を読むのと、遊ぶことが好きだから遊ぶのは同じじゃない? ぼくは勉強ができないけど、図鑑を読むよ。きっとそれと同じ」
子供らしい考え。
ただ目の前の女の子を、仲間に入れたい一心なのが伝わってくる。
微笑ましいくらいだ。
「わたしと遊んでもつまらないよ。みんなそう言うもの」
「ああ! もうっ!」
男の子はついに痺れを切らし、おもむろに女の子の手を掴んだ。女の子は倒れそうになりながらも、なんとかその足でバランスを保った。
驚いた女の子がついに顔を上げた。
「遊びにつまらないなんてことはないよ。楽しいから遊びなんだよ。これは絶対っ。遊ぶんだから、絶対に楽しいに決まってる」
男の子は女の子の手を引いて、歩き出した。
遅れながらも彼女はそれについていく。
「みんなが誰かなんてぼくは知らないけど、ぼくはきみと一緒に遊べたらきっと楽しいと思う」男の子は女の子に笑いかけた。「だから、ぼくはつまらなくない。大丈夫、みんな走って、泥だらけになって、笑うだけなんだから。余計なことなんて考えられないくらいにね」
子供たちの集まりに、その二人も混ざった。女の子は相変わらず緊張して顔を伏せがちだったけれど、男の子に手を握られ一緒に走り回っているうちに、顔を上げ、いつしかその顔は笑顔になっていた。
これは俺の記憶。
伊澄と出会ったときの、今まで忘れていた遠い記憶。
底に沈み、埋もれてしまった記憶。
俺にとって十数年のうちのたった一日の数時間の出来事だったけれど、伊澄にとってこの出来事は十年もの長い時間忘れられないものだった。伊澄にとって特別な一日で、俺にとっては些細な一日。
この日がなければ、伊澄がこのあとに俺を待つ日々はなかったのだ。彼女の時間を、俺は奪ってしまった。俺がいなければきっと、別の誰かのことを思う日々があっただろうし、俺を捜したいがために勉強をすることもなかったはずだ。俺が遠くの土地へ行ったことを知り、剥がした涙も、なかったはず……。
けれど、いくらそんなことを思っても過去をなかったことにはできない。
俺たちが生きているのは、今なのだから。
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