第65話 善行の下請け

 シェリルがエリオとアリシアを部屋から追い出す。表面上はエリオ達に仕事に戻るように言っただけだ。しかしエリオ達はシェリルから、すぐに出て行け、入ってくるな、と言わんばかりの威圧感を覚えて、少し慌てて部屋から出て行った。

 シェリルが立ち上がる。アキラはまた抱きついてくるのかと思ったが、シェリルはそのままアキラの向かいに座り直した。そして真剣な表情でアキラに尋ねる。

「アキラは私にしてもらいたいこととか、何かありませんか?」

「唐突だな」

「いつもお世話になっておりますし、こんな良い物を頂いたので何か返せることはないかと思いまして。私に対してでも、私達に対してでも構いません」

 シェリルの表情からは、価値のある物をもらって喜んでいるようなものは感じられない。そこにはある種の必死さが漂っていた。

 アキラは少し考えたが、特に何も思いつかなかった。

「今のところは特にないな。何か他に頼み事ができたらその時に頼むよ」

 普段のシェリルならばアキラにそう言われればそれで引き下がる。しかし今回は違った。シェリルが真剣な表情で食い下がる。それはもう懇願や哀願に近い態度だ。

「本当に何もないんですか? 何でも良いんです。簡単なことでも、無理難題でも、取りあえず言ってみてもらえませんか?」

 シェリルはアキラから受けている恩を僅かであっても返さないと不味まずいと考えている。しかしその具体的な手段や内容はシェリルには思いつかない。

 シェリルは諦めてアキラに直接聞くことにした。アキラからの要求ならば、シェリルが勝手に考えて実行するよりも、アキラの不興を買う可能性は低いだろう。高い見返りになる可能性も高くなる。

 アキラに見捨てられたくないシェリルは、それが実行可能なことならば、それが相当困難なことであっても実行するつもりだ。仮にアキラが、全裸でつくばって足をめろ、と言えばシェリルは何の躊躇ちゅうちょもなく実行しただろう。

 シェリルの気迫はアキラにしっかり伝わっている。しかしその理由まではアキラにも分からない。急に何か頼めと言われても、アキラにはすぐに答えられなかった。

「そう言われてもな……」

 何でも良いからシェリルに頼まないと簡単に引きそうにない。それはアキラにも分かった。

 アキラがシェリルの気迫に気圧けおされながら考え込む。肩をめ、その程の頼みではシェリルは納得しないだろうと思い、考え込む。シェリルの気迫はシェリルの目的に対して少々逆効果であり、アキラが簡単なことを気軽に頼むのを困難にしていた。

 しばらく考え続けていたアキラが、思いついたことを試しに言ってみる。

「そうだな。それならスラム街の子供に真面まともな食事と読み書きとかを与えてくれ」

 シェリルはアキラの返事を聞いてきょとんとする。そして不思議そうにアキラに聞き返す。

「……そんなことで良いのですか?」

 それを実行したとしてアキラに何の利益があるのか。シェリルには全く分からなかった。

 アキラは逆に少し意外そうに話す。

「俺としては無理難題を押しつけたつもりなんだが、それがシェリルにとってそんなことなら頼むよ。内容の規模と質はシェリルの判断に任せるけど、現実的な範囲で上を目指すってことで頼む」

 シェリルが真剣な表情で答える。

「分かりました。できる限り努力します」

「ああそれと、俺に言われたからやっているとか、そんなことは口外しないでくれ。何でそんなことをするんだって聞かれたら、適当に誤魔化ごまかしてくれ」

 シェリルがしっかりとうなずく。

「分かりました。絶対に話しません」

 シェリルにはアキラがそのようなことを頼む理由は全く分からない。アキラが好き好んで善行を勧めるお人しではないことぐらいシェリルも知っている。アキラがシェリルに頼んだことは、間接的にアキラに利益を与えるものでもない。善行で名前を売るつもりならば、アキラの名前を隠す意味がない。

 しかしシェリルにとって重要な点はそこではない。重要なのはアキラがシェリルに無理難題だと考えていることを頼んだということだ。つまりシェリルがそれを実行すれば、アキラに対する十分な見返りになるのだ。

 シェリルは万難を排し、確固たる決意を持ってアキラからの頼みを実施することを決めた。

 アルファが思案する。アルファにはアキラがそのようなことをシェリルに頼む理由が分からない。アルファはアキラを常に観察し、評価し、基本的な行動原理などを把握し、アキラの行動を管理しようとしている。

 今のアキラの行動は、アルファのアキラに対する人物評価とかなりずれている。アキラのことをより深く理解するために、アルファにはアキラの行動の理由を把握する必要があった。

 アルファの内心を欠片かけらも感じさせない態度で、些細ささいな疑問を尋ねるような態度で、アルファがアキラに不思議そうな表情で尋ねる。

『ねえアキラ。何でそんなことを頼んだの?』

『何て言えばいいんだろうな。えっと、スラム街の子供に食事と知識を与えるのは善行だろう?』

『まあ、一般的にはそうでしょうね』

『俺がそれをシェリルに頼めば、間接的であっても善行をすることになって、俺の不運も多少は改善されるかもしれないって思ったんだ』

 つまりアキラは善行を下請けに出したようなものなのだ。悪行を唆すのは悪行だろう。ならば善行を唆すのは善行だろう。つまりアキラは、シェリルに善行を唆すことでそれで自分の不運が少しでも良いから改善されないものかと考えたのだ。

 求めるものが幸運という迷信やオカルトめいたものであることを除けば、アキラは実に利己的に動いていた。

『アキラの名前を出さないように頼んだのは?』

『俺の名前を出すと、後で面倒くさいことになりそうだからだ』

 アキラが自分の名前を伏せるようにシェリルに頼んだのも、後の厄介ごとに巻き込まれるのを避けるためだ。無償で誰かを助け、助けた相手に名を告げずに去っていく。そのようなよくある美談を、名前を教えないのは他の多数の人間から無償で助けを求められるのを防ぐためではないか、などと解釈する程度にはアキラはひねくれていた。

 アキラは不用意な善行から生じる全ての厄介ごとをシェリルに押しつけて、あるかどうかも分からない利益を得ようとしている。シェリルに無理難題だと説明した理由も似たようなものだ。

 アルファは急にアキラが心変わりして善行に目覚めた訳ではないことを知って安心した。アキラの行動がアルファの人物評価から外れたものではなかったからだ。アキラが多少利己的である方が、アルファもアキラの行動を制御しやすいのだ。だからアキラに急に善人になってもらっても困るのだ。

『なるほどね。納得したわ。効果の程は疑問だけれどね』

『別に効果の程は大して期待してないよ。ちょっとした思いつきだし、効果がなかったとしても、俺に実害はないしな』

『それもそうね。まあ、仮にアキラが急に善行に目覚めたとしても、自分の命と引き替えに誰かをかばって死んだりしなければ構わないわ。私にはアキラしかいないのだから、アキラがそんな無理をするのは嫌よ?』

『俺は無関係な人質を見捨てる程度には非情なんだ。そんな真似まねはしないよ。アルファも知ってるだろう?』

『そうだったわね』

 アキラは地下街でレイナを人質に取られても武器を捨てなかった。アキラは自身の非情さを認識している。

 しかしアルファは知っている。アキラがシェリルの拠点で、シズカを害する示唆の発言をした男を躊躇ためらわず撃ち殺したことを。都市に向かうモンスターの群れを撃退する緊急依頼をアキラが一度断った後、サラとエレナが防衛戦に参加していることを知って、アキラが急に緊急依頼を1人で受けたことを。

 仮に人質に取られたのがシズカ、エレナ、サラのいずれかだった場合、アキラは人質を見捨てたかどうか。アルファには判断がつかなかった。


 シェリルの私室に戻ったアキラは、またシェリルに抱きつかれていた。アキラは用事が済んだので帰ろうとしたのだが、シェリルの勢いに押されてそのまま部屋に連れ込まれたのだ。

 アキラへの見返りに関する当面の心配事が片付いたシェリルは、持ち前の聡明そうめいさからシェリルに無理難題を押しつけたアキラの微妙な後ろめたさに気づき、強気の笑顔でアキラを部屋に連れ込んでいた。

 シェリルはアキラに抱きついて心身の疲労を回復させていた。アキラにその自覚は全くないが、アキラはシェリルの精神のり所となっている。アキラと連絡が取れない日々の間にシェリルに掛かった精神的負荷は相当なものだったが、1時間ほどアキラに抱きつくことで普段の聡明そうめいさを取り戻す程度には回復していた。

 聡明そうめいさを取り戻したシェリルの頭の中では、2つの異なる思考が争い続けていた。

 1つはアキラに対し更なる一手を画策してより深い関係になるべきだという案だ。今のアキラが比較的流されやすい状態にあることはシェリルも把握している。雰囲気に流されていけるところまで行き、そう簡単には切り捨てられない程度までアキラとの関係を深めておきたい気持ちがシェリルにはあった。

 根拠のない勘のようなものだが、シェリルにはアキラから一度しっかり手を出されさえすれば、分かりやすく身贔屓びいきされる程度の仲に成れる気がしていた。

 もう1つはそろそろ引き時であると考え、このままアキラに抱き付き続けるという案だ。好きに手を出して良いと宣言している同世代の異性が抱き付いているにもかかわらず、アキラはシェリルに手を出していない。単純にアキラがシェリルに欠片かけらも興味がないのか、手を出すといろいろ厄介ごとが増えると考えて我慢しているかは、シェリルには全く分からない。

 いて深い関係をアキラに迫り、万一アキラから不興を買っては意味がない。アキラがシェリルに抱き付かれることすら嫌がるようになれば、シェリルの精神安定に多大な悪影響が生じることになる。それはシェリルも嫌だった。

 アキラはシェリルがいろいろ考えていることに何となく気付いていたが、考え事の内容までは分からないし、気にもしていない。徒党のボスであるシェリルにはいろいろ思案することが山ほどあるのだろう。そうと考えてシェリルの考え事に然程さほど興味を持たなかったからだ。

 アキラがシェリルと雑談しながらスラム街の情報などを得ていると、再びノックの音がする。アキラとシェリルが音の方向を見る。ノックの主はそのまま部屋に入ろうとはせずに、部屋の主の返事を待っていた。

「開いてるわ」

 シェリルが返事をすると、扉を開けてアリシアが入ってくる。アキラと仲が良いことを他の人間に誇示することは、シェリルにとって徒党のボスの地位を維持するためにも、他の徒党への武力面での抑止力としても、重要な意味がある。アキラもそれは理解しているので、シェリルを引きはがそうとはしなかった。しかし多少の気恥ずかしさはあったので、アキラは視線の先をアリシアから部屋の別の方へ向けた。

 シェリルはしっかりアキラに抱き付いたままアリシアに尋ねる。

「また何かあったの?」

「そうではなくて、もうシェリルの入浴時間だけど入らなくて良いの? 入らないなら他の人を入れてしまうけど」

 アリシアはシェリルに彼女の入浴時間を告げに来たのだ。

 シェリル達の拠点には浴室がある。それを皆で交代で使用しているのだが、徒党の人数に対して浴室の数や大きさは全く足りていない。拠点に一つしかない浴室は掃除や湯の交換時以外は常に誰かが使用している状態だ。徒党の人数が増えつつある状況では複数名で湯船にかっても徒党の人間全員が毎日使用するのは難しい。

 そのような使用状況の中で、シェリルは徒党のボスの強権で毎日1時間ほど風呂に入っていた。シェリルの部下達が浴室の掃除をして湯を張り替えた後に、1人で広めの湯船にかっていた。スラム街の子供としてはかなり贅沢ぜいたくな生活だ。

 そのシェリルも流石さすがに何時でも好きな時間に風呂に入ることは避けていた。不可能ではない。やろうと思えば可能だが、部下達の不満は間違いなく高まる。そのためシェリルは毎日決まった時間に風呂に入るようにしていた。

 その入浴時間になってもシェリルが風呂に入っていないため、アリシアがシェリルの様子を確認しに来たのだ。シェリルが何らかの理由で風呂に入らないなら、アリシアはエリオと一緒に入った後で他の人に使わせるつもりだった。

 シェリルはいつの間にか過ぎ去っていた時間に少し驚きつつ返事をする。

「もうそんな時間? 分かったわ。入るからちょっと待っていて」

 シェリルはアキラから離れて自室に置いてあるシャンプー等の用意を始める。浴室に置いておくと一瞬でなくなってしまうためシェリルの自室に置いてあるのだ。

 アキラがつぶやく。

「風呂か……。俺も帰って風呂に入るか」

 アキラは1週間ほど風呂に入っていないことになる。治療の過程で体を拭かれたりはしていただろうが、風呂に入っていないことに違いはない。アキラが帰るために床に置いてあるリュックサックに手をかけた時、アルファがアキラに伝える。

『アキラ。どこに帰るつもり?』

『どこって、泊まっている宿だよ』

『アキラの入院中に先払いの宿泊費の分の日数は過ぎたわ。帰るどころか泊まるところから探さないと、アキラの泊まる場所はないわよ?』

 アキラの動きが止まる。アルファの言うとおり、既にアキラが泊まっていた宿の宿泊期限は過ぎているのだ。アキラが宿に置いていた私物も、予備の弾薬等も含めて全て宿屋の物となっている。

『……今から宿探しか。まあ探せばあるだろうけどさ』

 既に日は落ちている。宿屋のそこそこ良い部屋は全て埋まっている可能性もある。シャワー程度しか設置されていない安値の部屋や、一泊十数万オーラムの高値の部屋は空いているだろうが、アキラはそこに泊まる気にはなれなかった。しっかり風呂に入りたかったが、高額な宿泊費が掛かる部屋に泊まれるほど金が余っている訳でもないのだ。

 アキラはまだそこそこ良い部屋が空いている宿を探して都市の下位区画を彷徨さまよう自分を想像して、途端にやる気がせてしまった。一度帰って休む。アキラは自分の気持ちをそう切り替えてしまったため、重いリュックサックを背負い宿を探して下位区画を探索するという作業に気持ちを切り替えるのが面倒臭くなったのだ。

 シェリルがそのアキラの様子に気付いて尋ねる。

「アキラ。どうかしましたか?」

「いや、今から泊まる宿を探さないといけないことに気付いただけだ」

 シェリルはアキラの口調や表情から、アキラがそれを面倒だと考えていることが分かった。

「私の部屋でよろしければ泊まっていきますか? 宿のような設備はありませんが、ベッドぐらいはあります」

「良いのか? でもゆっくり風呂に入りたいしな……」

 アキラが悩み出す。既に日も落ち治安の悪化しているスラム街を抜け、宿を探して都市の下位区画を彷徨さまようより、シェリルの厚意に甘えるべきか。しばらくアキラは風呂に入っていない。それを自覚するほど入浴欲が湧いてくる。やはり多少苦労してでも宿を探して下位区画を彷徨さまようべきか。アキラが更に悩み出す。

 シェリルは持ち前の聡明そうめいさで、アキラが何を迷っているのか大体想像がついた。シェリルは駄目で元々と考えて、アキラに提案してみることにする。

「今から私と一緒に入るなら、他の人が入る時間までゆっくり入れますよ? 浴槽は結構広いですから、十分手足を伸ばして入れます。荷物もアキラの物を盗む馬鹿はいないと思います。不安なら浴室の近くに置いておけば大丈夫だと思いますよ。すりガラス越しに見えますから」

 アキラが悩み続ける。悩む理由の大半は、身の安全と所持品の安全に対する懸念だ。ここはスラム街の路上ではなくシェリルの拠点の内部だ。その場所がどの程度安全なのかアキラには分からない。悩む程度には安全だと考えている。同時に、悩む程度にはその安全を疑っている。だからアキラは決められないでいた。

 シェリルの言葉は彼女の意図通りアキラの懸念を軽減させたが、決定させるほどの効果はなかった。

 アキラを放っておくといつまでも悩みそうだ。そう判断したアルファが判断材料を付け足す。

『索敵なら私がいつものように実施しておくわ。アキラの荷物が盗まれてもすぐに分かるわ』

『そうか? それなら、大丈夫、か?』

 シェリルがアキラの迷いの天秤てんびんが大きく傾いたことを察して続けて話す。

「入浴時間、どんどんなくなっていますけど、どうします?」

 シェリルはアキラの表情を見て、返事を聞く前に答えを把握した。


 アキラがシェリル達の拠点にある浴室の風呂にかっている。手足を伸ばして首元まで湯にかり、心地よい湯の温度と感触に身を委ねていた。

 アキラは病院で治療を受けて身体的には万全なはずの体から、存在しないはずの疲労が抜けて湯に溶けていく感覚を味わっていた。それが精神的な疲労であれ、ただの錯覚であれ、癒やされていることに違いはない。

 結局アキラは自身の入浴欲に屈して、シェリルと一緒に風呂に入ることにした。

 アキラの装備品等は脱衣所に置いてある。興味本位でアキラの所持品に手を出す人間が出ないように、脱衣所の外ではエリオとアリシアが見張りをしている。

 見張り自体はシェリルや徒党の少女達が入浴している時にも実施されている。既に過去にシェリルの入浴をのぞいた前科者がおり、彼は徒党から追い出されてしまった。

 ぼんやりと前を見ているアキラの視界には、体を洗っているシェリルの姿が映っている。アキラも石鹸せっけん等をシェリルから借りて体を洗ってから風呂に入った。2人が体を洗い始めたのは大体同じ時なのにもかかわらず、シェリルはまだ体を洗い続けていた。

 あそこまでしっかり洗わなければいけないものなのだろうか。素朴な疑問が入浴の快楽に侵食されつつあるアキラに一瞬浮かんですぐに消える。それは今のアキラにとって重要なことではないからだ。

 シェリルは念入りに体と髪を洗っている。他者との交渉ごとなどを優位に進める時に、自身の容姿が非常に役に立つことを理解しているシェリルは、念入りに自身の身体を磨き上げていた。

 以前シェリルがカツラギからもらった化粧品や石鹸せっけんの試供品は、スラム街の基準から考えれば並外れて高品質なものだ。シェリルはそれらで体を洗い磨き上げている。スラム街の生活で痛んでいた肌や髪の色艶は、既に十分な輝きを取り戻していた。

 湯を浴びてつややかを増したシェリルの裸身はとても清艶せいえんだ。スラム街に住む少年が徒党に所属する恩恵の意味を理解した上で、その恩恵を賭け金にして一目見ようと賭に出てしまうほどに魅力的だ。

 なお、彼はその賭けに負けたため、シェリルの裸体を見ることもできずに着の身着のままで放り出されてしまった。彼がまだ生きていれば、己の選択を後悔しているだろう。せめて一目見てから放り出されたかったと。

 体を洗い終えたシェリルが浴槽に向かう。視界内にいた人物が大きく動いたので、アキラの視線がシェリルに向けられる。アキラからの視線を感じたシェリルの頬が、湯に浸る前に朱に染まる。

 シェリルも同意の上とはいえ同世代の異性に裸を見られるのは恥ずかしい。それでもシェリルは一糸まとわぬ自身の裸を手で隠したりせずに浴槽に向かい、恥じらいながらも均整の取れた美しい身体をアキラに見せつけるようにして湯に身を沈めた。

 シェリルはアキラの反応を見る。視界内で動いた物を目で追っていた程度の認識だったアキラは、対象が大きく動かなくなったので視線を正面の宙に戻していた。シェリルは自分の体の一部を除いて、より正確には胸の大きさを除いて、身体には自信がある方だった。そのため、シェリルの体に然程さほど興味がないようなアキラの態度は、シェリルの内心に少し衝撃を与えた。

 シェリルはおずおずとアキラに尋ねてみる。

「……その、どうだったでしょうか?」

 尋ねられたアキラが、浴槽を見渡してから答える。

「……広い」

 アキラの意識は湯に溶け始めている。アキラはぼんやりとした頭で語句の欠けたシェリルの質問内容を自己の解釈で補足し、その質問内容に対する返答をぼんやりと考えてシェリルに返した。

 シェリルは持ち前の聡明そうめいさで、アキラの返事の詳細とその前提を理解した。シェリルは自身の裸体に対する感想を、恥ずかしさを堪えてアキラに尋ねたのだが、だったアキラの頭は浴槽に対する質問だと判断して、その広さに満足していると答えたのだ。

 それなりに自信の有った自分の体が浴槽の添え物と化していることを知り、シェリルは少し落ち込んだ。シェリルの体がより深く湯に沈む。水面下のシェリルの唇からぶくぶくと気泡が出ている。アキラへの愚痴でも言っているのかもしれない。

(……確かに広い浴槽だと説明しましたけれど、普通そう捉えますか?)

 シェリルが少し不満げな目でアキラを見る。それでアキラも自分がまた返事を間違えたことに気付いたが、魂を湯に引かれつつあるアキラには、正しい質問内容とその返事までは思い至らなかった。

 アキラが宿で風呂に入っている時は、大抵アルファも一緒だ。視覚情報だけとはいえ、アキラは誰かと一緒に風呂に入ることに慣れていた。シェリルと一緒に入浴していることを大して気にしていないのもそのためだ。

 アキラは非常に魅力的な全裸の異性と湯船を共にすることに、ある意味で慣れていた。その慣れはその状況下でのアキラの性欲を著しく低下させていた。これはアルファがアキラに施したハニートラップ対策の成果かもしれない。湯船にかるアキラには、入浴に勝る快楽などないのだ。

 アキラがこの様子では、手を出されても問題ないように念入りに身体を洗ったシェリルの努力が実ることはないだろう。シェリルはそれを理解してめ息を吐く。

 シェリルは気を切り替えて湯船にかるアキラを見る。入浴の快楽に身を任せているアキラからは、普段のアキラから感じられる他者への警戒心などは感じられない。シェリルの目には、今のアキラが1000万オーラムをあっさり支払う凄腕すごうでのハンターには見えない。湯船にかり心地の良さそうな表情を浮かべているアキラは、どこにでもいそうなただの少年に見える。

 シェリルがそのアキラを見て思う。アキラがただの少年なら、多少強引にでも今この場でアキラに迫って体で籠絡してしまえば、いろいろ悩まずに済むのではないか。アキラの手を取って自身の肢体の肌にまとわせ、互いの脚を絡めて唇を重ねればアキラもその気になるのではないか。自身の容姿が多くの異性にとって十分魅力的なものであることは間違いないのだ。それならアキラだって内心嫌がりはしないだろう。

 シェリルが強引に迫ってみた光景を想像する。シェリルの想像上のアキラは、口先だけの抵抗でシェリルの行動を受け入れていた。一見無防備なアキラの姿が、シェリルの思考に油断を生みだし、想定や仮定を自身に都合の良いものに変化させていく。通常と異なる環境が、シェリルの聡明そうめいな判断力を僅かに狂わせている。自覚はできていないが、シェリルは軽い興奮状態にあった。

 アキラに近づいて手を伸ばそうと僅かに動いた時、シェリルはアキラが自分を見ていることに気が付いた。

 アキラがシェリルをじっと見ている。シェリルの挙動を観察している。対象が敵かどうかを、静かな目で確認している。

 アキラはシェリルの害意とも呼べない僅かな何かを無自覚に感じ取り、意識を切り替えていた。シェリルの前からどこにでもいそうな少年が消え去り、何の躊躇ちゅうちょもなく敵を殺す非情なハンターが現れていた。

 シェリルが固まる。先ほどまでのシェリルの楽観的な思考が消し飛ぶ。同時にシェリルを見るアキラの視線も通常のものに戻った。

 アキラは自身の変化に気付いていない。そのためアキラから見たシェリルの様子は、動こうとしたシェリルが急に動きを止めただけにすぎなかった。

 アキラが不思議そうにシェリルに尋ねる。

「どうかしたのか?」

「い、いえ、何でもありません」

「ん? そうか」

 アキラはシェリルのどこか硬い返事を大して気に止めず、再び心地よい湯船の快楽に身を委ね始めた。アキラの表情が再び緩み始める。体に戻ってきていたアキラの魂が、再び湯に溶け始めていく。

 そのアキラを見てシェリルは安堵あんどした。アキラの機嫌を損ねた様子はない。

(……危なかったわ。私としたことが随分ほうけた思考をしていたわね。私が迫った程度で上手うまく行くなら、とっくにアキラに手を出されているわ。気を付けないと)

 シェリルはもう一度強引に迫ってみた場合の光景を想像してみる。想像上のアキラは、シェリルの喉を片腕でつかんで持ち上げていた。そのまま床にたたき付けられる光景に遷移する前に、シェリルは続きを想像するのを止めた。

(……やっぱりアキラから手を出されるか、最低でも事前に許可を取らないと駄目ね)

 アキラと一緒に風呂に入る程度にはアキラとシェリルの仲が縮まった。シェリルは取りあえずそれで満足することにした。

 シェリルは残りの入浴時間を落ち着いて湯船に身を委ねて日頃の疲労を回復することに費やした。

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