わたしの種

なるかみ

わたしの種

 転校生が来るらしい。新学期、クラスはその話題でもちきりだった。何でも、お姫様のように可愛い子だと言う。男の子も女の子も、その子に興味を持たない子はいなかった。―――わたしを除いて。

 わたしは小さい頃から、人と一線を引くような人間だった。でも、自分がそれに気付く前に、わたしは人に合わせる笑い方というのを覚えてしまっていた。だから、今日までハブられることもなく、平凡に生きてきている。

「沙樹! 転校生が来るんだって!」

奈津が興奮気味に話しかけてくる。

「うん、聞いた。なんか凄いみたいね」

暗に、自分は凄いと思っていないと言ってみるが、奈津には伝わらない。そういうものだ。二次元の世界が本当にあると信じているような純真無垢の少女。別に、奈津がオタクだとか、そういう訳じゃない。ただ、物語の世界がそのまま夢に反映されてるって、それだけ。それが、わたしの考えることなど、分かるはずがない。

 教室のざわめきは収まる気配を見せなかった。事実、わたしの隣ではまだ奈津を中心とした女の子たちが、きゃっきゃと騒いでいる。転校生、というのは、そんなに珍しいものなのだろうか。それとも、可愛い子だから? わたしは分からないな、と心の中で呟いた。

 前学期と同じように担任が入ってきて、ホームルームが始まる。その途中で漫画とか小説とかであるように、担任が簡単に転校生が来ることを伝えて、

「入って」

なんて言って、転校生が入ってくる。その子が入ってきた瞬間、クラス全員が息を呑む音が聞こえた。なんたって、綺麗な子だ。担任が自己紹介をするように促す。

「渡海愛美(とかいまなみ)と言います」

凜とした、歌うような声だった。

「趣味は植物を育てることと歌うことです。左耳が悪いので、左から話しかけられると気付かない時があります」

わたしはぼんやりと、誰にだって悪いところはあるんだ、と思った。クラスの女の子たちなら頭、顔、性格。渡海愛美なら、耳。わたしは多分、顔と性格だと思う。頭は良くも悪くもない程度。

「あ、あと、将来の夢はお姫様になることです」

彼女がそう言った瞬間、不穏が空気が一瞬過ぎった。発信元は分かっている。どうせ、女の子たちだろう。そう言う自分可愛い! と言っている子が嫌いなお年頃だ。自分だって、そう思っている癖に。

「渡海の席はそこな。隣の奴は教科書見せてやれ」

お決まりの台詞を言うもんだ、と思った。渡海愛美はにこっと笑って頷くと、指差された席に移動した。一番前に、彼女の為の席が用意されている。そこに優雅に、そうだ、お姫様のように、彼女は座った。

 素質はあるんだろうな。わたしはぼんやりとそんなことを思った。奈津が鋭い目でお姫様を見ていたけれど、知らないふりをした。

 次の日教室に来てみれば、ひどいものだった。渡海愛美の机は蹴飛ばされ、中に入っていた教科書類はめっちゃめちゃに踏まれ(シューズの跡が残っていた)、例えるなら、そこにだけ泥棒が入ったみたいな。

「ジ ゴ ウ ジ ト ク」

幾人かの女の子の唇がそう言ったが、わたしは気にしなかった。渡海愛美の後ろの後ろ―――自分の席に座ろうとして、下に何か落ちているのに気付いた。ポケット植物図鑑。

 ちらり、と前に視線をやった。渡海愛美がせっせと散らばったものをかき集めている。周りで男の子たちが手伝いたそうに見ているけれど、それだけ。女の子たちは遠巻きにその姿を嘲笑うかのように見ている。私は図鑑を拾い上げると、歩いていって(周りから息を呑む音が聞こえた)、

 ずいっ。そんな効果音が付きそうな感じで、渡海愛美の眼前に突き出した。ぽかん、とした表情。〝お姫様〟もこんな顔するんだ、と思った。

 それからしばらく、渡海愛美はぼうっとしていたから、わたしは面倒くさくなって、彼女の手に図鑑を握らせて、さっさと自分の席へと戻った。

 奈津が、とても不思議なものを見るような視線で、わたしを見ていた。


 愛美と最初に話したのは、中庭でだった。歌が聴こえて、辿っていったら、愛美が歌っていた。

「何、してんの?」

「植物って、歌を聴かせると良く育つんだって」

不思議な子、そうしか思わなかった。

「ふーん」

「篠木(しのき)さんも歌う?」

愛美に名前を呼ばれたことには、少し驚いた。わたしは愛美が転校してきてから、図鑑を拾った以外、一度も彼女に関わらなかったから。良い意味でも、悪い意味でも。

「沙樹で良いよ、呼び捨てで。…何歌うの?」

「主は冷たい土の中に」

え、と愛美の方を見れば、けらけらと笑っていた。わたしは半ばヤケクソな気分で、

「あーおくはれたそーらー」

「えぇ!? ほんとに歌うの!?」

 二人で一頻り笑った後、『主は冷たい土の中に』を合唱した。

 わたしたちが歌った近くの苗は、数日後、全部枯れてしまった。


 それが切欠、というのも何か変な気がするけれど、わたしと愛美は急激に仲が良くなった。お昼ご飯は一緒に食べる。朝は愛美の方が早く学校に来るけれど、帰りは途中まで一緒に帰る。学校でわたしと愛美はずっと一緒に居た、と言っても過言ではない。そのおかげかどうかまでは知らないが、日が経つにつれて愛美へのいじめは減っていったし、今では奈津を中心とするグループが愛美を睨んでいるだけだ。時々、脚を引っかけられたりはしているみたいだけれど。

 わたしと愛美が仲良くしているのが、奈津は気に入らなかったらしいけど、奈津もそこまで馬鹿じゃない。わたしに向かって、

「渡海さんと仲良くしないでよ!」

みたいなことは言わなかった。わたしは正直ほっとした。もしもそんな風に言われていたら、きっと、奈津を口論で完璧に負かしていただろうから。そうしたら女の子たちからの風当たりが強くなるし、その後のクラスでの生活に差し支えが出る。それは非常にメンドクサイ。奈津はわたしにとってこれと言って特別な存在ではなかったけれど、クラスの女の子の頂点に立つような、所謂リーダー的存在な女の子だと言うことは、分かっていたから。

 ただ、自分の欲求を言えば、奈津と居るよりは愛美と居る方が飽きなかった。実験動物を観察している研究者の気分が分かるような気がした。パターン通りの反応より、どのパターンにも当てはまらない謎の行動をするモルモット。胸が高鳴るようで、毎日が充実しているとまで思えた。

 そんな風にして、わたしが愛美の信頼を勝ち得るのに、時間は掛からなかった。だからこそ、愛美はあの日、自分の一番奥底をさらけ出したんだ。

 「沙樹にだけ、見せてあげる。私の秘密」

愛美は嬉しそうに言った。

「秘密?」

わたしが聞き返すと、

「沙樹は、私の大切な友達だから」

「ふぅん」

曖昧な答えに曖昧な返事で返す。放課後、教室に残っててね。奈津が近づいて来たのが見えたのか、愛美はわたしから離れた。

「沙樹!」

奈津の怒ったような声がする。

「…何?」

「明後日、暇?」

わたしは明後日の予定を思い浮かべる。木曜日、予定は今のところない。

「うん、暇だよ」

「良かったー」

奈津は安心したように笑った。

「映画行かない?」

「良いよ」

わたしはどんな内容かも聞かずに答えた。奈津のことだから、わたしの嫌いな内容の映画に、誘うわけがない。奈津は、そういう子だから。

 奈津はわたしが承諾したことにホッとしたのか、映画のあらすじについて話し出した。わたしは半分も聞いていなかった。何故って、愛美の秘密の方が、気に掛かっていたから。

 放課後、わたしは時間を潰すために校内を一周してきた。教室で待っていると、また奈津に邪魔されそうだったからだ。一周してきて、トイレによって、そっと教室を覗いたら、そこにはもう愛美しか残っていなかった。

 「愛美」

教室で一人だけ座っている愛美に、わたしは声をかける。

「…沙樹。良かった、帰っちゃったのかと思った」

「何で?」

聞くと、愛美はわたしから視線を逸らして、だって嶋崎さんが、と言う。何で、女の子ってこんなにメンドクサイんだろう。わたしはそう思ったけど、言わない。

「奈津が何を言ったって、愛美の方が先に予約したでしょ」

そう言ってみたら、愛美は吃驚するくらい早く顔を上げた。

「何」

ちょっと後ずされば、

「ごめん、嬉しかった」

綺麗に笑う。

「将来の夢はお姫様になること」

学期の初め、そう言った愛美の笑顔が浮かぶ。お姫様になる資質は十分にあるのかもしれない。あの日そう思ったわたしの勘は、間違ってはいなかったんだ、と思う。

 「で、秘密って何?」

わたしは聞いた。わたしは若干わくわくしているのを隠せていないけれど、(少なくとも本人にとっては)重大な秘密を打ち明けるであろう愛美はいつもと変わらない。

「ん、これ」

おもむろに髪を掻き上げる。長い髪が、愛美の白い指で持ち上げられ、隠れていた左耳が現れた。ひょい、とそれを覗き込んだわたしは、絶句した。

 「…何それ、気持ち悪い」

愛美の耳を見たわたしは、絞り出すようにそう言った。白い耳の中にちょこん、と置かれた小さな種。これ、知ってる。オシロイバナの種だ。

「気持ち悪いって、沙樹はひどいなぁ」

愛美は掻き上げた髪を元に戻した。耳が隠れて、種も見えなくなる。

「だって、そんなところに種なんか置いて、中に入っちゃったらどうするの。取れなくなっちゃったら…」

「もう、何個か入ってるよ」

至って普通の声。

「今のこれ、オシロイバナの種なんだけど、七個目なんだ。その前は、カスミソウ、パンジー、ペパーミント、ナデシコ、ワスレナグサ…あ、ゴマも」

どうなったの、なんて聞けなかった。愛美の悪い方の耳は左耳。今種が入ってたのも…ひだり、みみ。

「ペパーミントとかは分かんないけど、ほら、ちっちゃいからさ。他のは全部、中に入ってるの。この中に。沙樹は頭良いから分かるよね? 何で、私の耳が悪いのか、とか」

綺麗に笑うから、事の重大さを忘れそうになった。わたしは一度強く瞬きをして、愛美を見つめた。喋らないわたしを見て、

「今日は次の種を入れる日なの。今度はアサガオの種を入れるんだけど、咲くかなぁ」

後半は独り言のように呟いて、どこからともなくアサガオの種を取り出すと、愛美は長い髪の向こうの左耳に、そっと種を押し込んだ。わたしはその一連の動作を見ていて、もう一度強く瞬きをして、

「何で?」

絞り出した声は震えてはいなかったけれど、ひどく掠れていた。これじゃあわたしが情けない子みたいだ。

「花を、咲かせたいから」

歌うように愛美が言う。

「花壇とか、植木鉢じゃ駄目なの?」

「うん」

愛美は笑った。すごく可愛い。お姫様みたいだ。…でも、言っていることは、すごく、怖い。

「花壇とか植木鉢とか、全部私から離れてるでしょ? 私は、私の花を咲かせたいの。私だけの、花。世界に一つしかない、すごく希少価値の高い花」

そりゃあ人の耳から花が咲いたら、希少価値どころの話じゃなくなるけど。

 その日、わたしはどうやって帰ったのか覚えていない。気付いたらわたしは自分の部屋の布団の中で丸まっていて、がたがたと震えていた。落ち着こうと瞼をそっと閉じてみれば、愛美の笑顔が張り付いていた。


 次の日、わたしはどういう顔をして愛美に会おうか考えていた。頭を占拠するのは左耳の種のことだけ。足は止まらない。考え事している時は、歩みは遅くなるものだと思っていたのに。止まらない。教室に着いてしまう。教室に着いたら、きっと愛美が一番に顔を上げて、おはようって言ってくるんだ。わたしはその時、どんな顔をするんだろう?

 「―――」

教室に足を踏み入れたわたしは、多分間抜けな顔をしたと思う。一瞬だけど。

 愛美は居なかった。わたしは自分の席に着く。どうして愛美は居ないんだろう。わたしは思った。もしかして、わたしに気を遣った?怖くなる。今まで自分が誰かを傷付けたりするなんて、想像もしないことだった。だけど今、これは…。

 担任が入ってきて、ショートホームルームが始まっても、愛美は来なかった。日直当番が渡海さんは? と聞けば、担任は思い出したように、遅刻するって言ってたぞ、と返した。そのやりとりに、周りの視線が動くのを感じた。からっぽの愛美の席。今まで席の主が居なかったことに、たった今気付いたかのように。

 愛美は、そんなに薄い存在だった?わたしは自分に問うた。お姫様のような、きらきら光っている女の子。存在感なんて、溢れる程に持っているのに…。

 わたしはその時、その愛美が自分の中で美化されたものなんだと、気付くことはなかった。それに気付いたのは、わたしがもう、〝少女〟と呼ばれないくらいになってからだった。

 三時間目の途中、突然がらりと教室のドアが開いた。

「遅れてすみません」

愛美が入ってくる。入室届けを出して、席に着いて。その間に愛美は一度も、わたしを見なかった。何かがわたしの胸にぐぱぁっと広がる。

 何で。

 わたしは思った。何で、わたしの方を見ないの。たったあれしきのことで、わたしが愛美を棄てるとでも思うの、わたしが愛美より奈津を取るとでも思うの…。たった数時間前の恐怖を棚に上げて、わたしは言葉を並べる。

 わたしはその時間と次の時間、ずっと愛美にテレパシーを送り続けた。結局それが、愛美に届くことはなかったけれど。

 昼休み、愛美はお弁当を持って教室を出て行った。わたしは少し間を置いてから、同じようにして教室を出て行く。行き先は分かっていた。私たちが初めて言葉を交わした、中庭。

 そっと覗けば、愛美は一人きりでお弁当をつついていた。わたしは黙ってその隣に座る。

「愛美」

「…何?」

沈んだ声。

「卵焼きとウインナー、交換して」

わたしは愛美のお弁当箱にウインナーを放り込むと、卵焼きを奪った。

「あ、沙樹!」

咎めるようにわたしを呼んだ愛美は、やっと、わたしを見た。その瞬間、わたしは何とも言えぬ感情に包まれる。嗚呼、でもこれはきっと、嫉妬だ。

「やっとこっち向いた」

わたしがそう言えば、

「―――ッ」

愛美が顔を逸らす。

「だって沙樹、気持ち悪いって言ったじゃない」

「うん」

「すっごく引いた顔してた」

「うん、正直すごく引いた。ドン引き」

わたしは笑って答える。

「…ひどい」

くすり、と愛美が笑って、それが引き金のように二人で笑った。二人でなくては笑えない、なんて。本当に馬鹿みたい。

 愛美のお弁当箱はいつもの通り小さくて、早く食べ終えた愛美は、土いじりを始めた。わたしはその背中を見つめる。左耳は見えない。

 言葉が、漏れた。

「どうして…」

「ん?」

土いじりを止めて、愛美がこちらを向く。

「どうして、希少価値の高い花を、咲かそうなんて思ったの?」

ただの疑問だった。その答えによって愛美をどうこうしようとか、わたしは考えていない。愛美には愛美の考えがあるのだろうし、わたしが人の考え方に口を出す意味もない。

「お兄さんがね、話してくれたの」

「お兄さん?」

「うん」

愛美は土に視線を戻す。やわらかな土を少し手元に引き寄せて、そっとその上にハートを描いた。

「私の、大好きなお兄さん。お兄さんって言っても、本当のお兄さんじゃないの。はとこ、かな。私は小さい頃に両親を亡くしているから、お兄さんが今は親代わりをしてくれてるの。お兄さんは大学で働いてて、そこで植物の研究をしているのよ」

「そのお兄さんが、身体から花を咲かす話をしたの? 誰かもう、成功してるの?」

耳から花が咲いた人を想像してみた。…正直、気持ち悪い。

「ううん」

愛美は言った。

「誰も成功してないし、誰も試してない。私が第一人者なの。お兄さんが、私ならきっと綺麗な花が咲かせられるって言ったから、私は咲かそうって決めたの」

どくん、と胸が疼く。

「…そう、なんだ」

わたしは小さくそう言ってから、大きく伸びをすると、

「今度さ、愛美の家に行ってみたいな」

話題を唐突に変えたかのように明るい声を出した。

「私の家?」

「うん、駄目?」

あくまで、今思い付いた、他意はない、と見えるように。

「ううん、ぜんっぜん駄目じゃない! 明日にでも来てよ!」

嬉しそうに笑う愛美の後ろで、五分前のチャイムが鳴る。

「いけない、急がなきゃ! 手洗ってくるから、沙樹は先に教室行ってて?」

愛美が駆けて行く。わたしはその後ろ姿を見送ってから、愛美の描き残したハートを、ぐしゃっと右足で踏み潰した。やわらかな土に、わたしの履いていた運動靴の跡が残った。

 愛美の家に行ってみたいというのは、ただの思いつきではない。理由は一つ。わたしはきっと前を睨みつけてから、教室に向かって走り始めた。

 愛美のお兄さんとやらに会う。ただ、それだけ。


 次の日の授業は、瞬く間に過ぎて行った。何をやっていたのかすら覚えていない。予定帳を確認すれば、授業内容くらい分かっただろうけど、わたしは気にしなかった。何よりも、放課後に控えた渡海家訪問の方が大事だった。

 だから、すっかり忘れていたんだ。

 「沙樹!」

奈津がわたしを呼ぶ。わたしは愛美の委員会が終わるまで、教室で待っていることにしていた。

「行こうよっ」

楽しそうに笑う彼女の顔に、わたしは一瞬疑問符を浮かべた。何だろう。今日、何かあったっけ。そんなわたしの表情に気付いたのか、奈津は眉間に皺を寄せた。

「…映画」

あ、そう言えば、昨日の放課後、見に行こうって約束したんだっけ。

「ごめん、急な用事が入って…」

「急な用事って、お姫様のこと?」

クラスの女の子たちは嘲りと皮肉を込めて、愛美のことをお姫様と呼ぶ。わたしは何だ、分かってるなら話は早いと思って、こくり、と頷いた。

「何で!? 何で沙樹はあんな子と一緒に居るの!? クラスでハブにされるだけだよ、沙樹にとっては何の良いこともない!」

奈津の怒鳴り声は、わたしに降り注いでこなかった。全部、その矛先は愛美だったから。

「私は…ッ沙樹が大好きだから、そんな理由で沙樹がハブにされるなんて、ヤだよ…」

何で、人って、少女って、こんな風に人に依存するんだろう。偽善者みたいに奇麗事並べて、人を仲間にしようと試みるんだろう。わたしは正直吐き気がしていた。こんな小さな世界でたった一人になったとしても、大きな世界ではそんなこと関係ないのだ。少女の閉鎖的空間で動く、わたしはそんなこと、したくなかった。

 だって、世界はあんなにも広い。

 「わたしは、ハブにされるつもりはないよ」

そっと呟いたら、

「沙樹につもりがなくても、みんなはハブるに決まってる!」

「奈津がそうしたくないなら、しなきゃ良いだけのことだよ。わたしは何されても気にしないよ。わたしがわたしであることが、それしきのことで、変わるとは思えないから」

そうだ、人が幾人集まったって、他人の世界を変えることは出来やしない。

「―――」

言い返せなくなった奈津を見て、

「じゃあ行くね」

そう踵を返した。

「沙樹はあの子の方が好きなの!?」

凍りついた、気がした。奈津なら、絶対言わないと思っていた台詞。そこまで馬鹿じゃないって、そう思っていたのに。

「少なくとも、愛美と居る方が飽きないよ」

その時のわたしの声は、すごく、ものすごく、冷たかった。

 「沙樹?」

冷え切った沈黙を破ったのは、愛美の綺麗な声だった。

「どうかしたの?」

委員会は終わったのだろうか。駆け寄ってくる可愛いお姫様に、わたしはとびっきりの笑顔で、

「ううん? 何も」

笑いかけられたと思う。何故だろう、その時のわたしはものすごく満ち足りた気分だった。自らの言い分をぶつけられたから?少女の囲いの中から抜け出せたから?どれも違うような気がしていた。

「行こう? 愛美」

手を取る。その手は、確かに温かかった。

 「嶋崎さんと、喧嘩したの?」

愛美の家路の途中で、話題の途切れた時を見計らってか、愛美は不意に聞いてきた。

「喧嘩って言うか…わたしはわたしの思ったことを言ったまでだし」

わたしは返す。だってそうだ。奈津に言ったことは、紛れもない真実のわたし、そこに偽りなんてない。喧嘩と言うのはもっとこう、自分のプライドとか、二人のこれからだとか、そんなものを守るために行われる行為ではないのだろうか。少なくとも、わたしはそう思っていた。さっきのは、奈津の一方的な保守攻撃だった―――〝嶋崎奈津〟という少女の世界から、わたし〝篠木沙樹〟という部品が転げ落ちようとしている、それを止めるための。〝渡海愛美〟という妨害者の手から、部品を奪取するための。

「そっか」

愛美は笑った。その表情に安堵が読み取れたのは、わたしの見間違いではなかったと思う。

 「沙樹は、どう思う?」

唐突に話題が切り替わった。

「何が?」

「私の花、咲くと思う?」

真っ直ぐな視線に捉えられる。わたしは一瞬動揺したのを見破られないように、宙を見上げて考えるふりをした。

「ん~…実はさ、イマイチ想像出来てないんだよね」

「花が咲くってことが?」

「愛美の言ってた価値とか、そこら辺は何となく理解した気がするんだけど…。人間から花が咲いてる、っていうシチュエーションは、さっぱり」

今まで現実的に生きてきたわたしにとっては、当たり障りのない答えだったが、本当は違った。想像出来ないんじゃない、したくないだけ。したら、本当になってしまう気がしている。

「そういうものかなぁ」

愛美の声は少し落ち込んでいた。拒絶を恐れているような気がして、

「でも、愛美が信じているなら、それが真実なんじゃないの」

自分にしてはあまりに夢見がちなフォローを入れた。

 愛美の家は、わたしの家と大して変わらない一般住宅で、何か拍子抜けした。もっとこう、高級感漂う家に住んでいるようなイメージがあったから。

「ようこそ、渡海家へ」

愛美が玄関を開けてくれる。扉が開いた瞬間、ふわり、と良い香りがした。

 愛美の家は外見こそ一般家庭だったが、中はお姫様の住居に相応しく、可愛らしいものたちで溢れていた。

「これって、愛美の趣味?」

かわいい、と呟いて、その中の一つを見つめれば、

「それは、お兄さんのお土産なの」

愛美は嬉しそうに笑うのだ。わたしは胸の何処かでつきん、と音が鳴るのを感じていた。醜い何かが動き出そうとするのを、必死で止(とど)めていた。これではまるで、愛美がお兄さんとやらによって、都合良く改竄された存在のようだ。みんなから認められるべきお姫様が、そんな一個人によって形成されているなんて、そんなの、許されない。わたしは笑顔を取り繕ってから、

「お姫様になりたいって、愛美言ってたよね」

新学期最初の、愛美の言葉を反芻した。

「あれって、理由とかあるの?」

その答えの中に、お兄さんという単語が出てこないように祈りながら。

「うーん…あったかもしれないけど、忘れちゃったな。何せ、すっごく小さい時から言ってることだし。あ、でもね」

とびきりの笑顔で、その可愛い唇が紡ぐ言葉を、わたしは知っている。

「絶対になるって決めたのは、お兄さんが王子様になってくれる、って言ったからよ」

わたしはまた、敗けた気がした。

 居間に通されて、年相応でないのかもしれない、でもわたしたちにとっては他愛のない話を展開している間にも、わたしは思っていた。―――王子様か。御伽噺で良く見る王子様は、お姫様を攫って行ってしまう存在だ。少なくとも、わたしにはそう見えていた。お姫様の心を気付かれないように鷲掴みにし、次はその身体ごと攫って行ってしまう。本人からすれば幸せなお話でも(だってお姫様は心を囚われているから分からない)、周りから見たらバッド・エンドになる部分だって、きっとある。だって、みんなお姫様が大好きなのだ。王子様一人に独占されて、それで幸せなはずがない。

「どうしたの、沙樹。さっきからぼーっとして」

愛美がわたしを覗き込んでいた。

「い、あ、幸せな物語に潜む残酷性について考えてたの」

わたしは咄嗟に言った。嘘は言っていない。

「幸せな物語?」

「うん、本人たちは幸せでも、周りはそうじゃない時、あるんだろうなーって」

愛美は少し考えてから、

「沙樹がそんな風に言うなんて、不思議な気がする」

「何で?」

「だって沙樹は、現実しか見ていない気がするもの」

そうかな、とわたしは思う。わたしはそんなに現実主義者だったろうか。

「…そんなこと、ない…と思うけど」

考えながらの途切れ途切れの言葉。本当にそうは思わないけど、自信はない。わたしは、わたし自身を冷静に見たことなんてほとんどなかった。わたしって、一体どんな人間? 疑問が湧き上がる。愛美から見たそれで良い、わたしって―――全部、呑み込む。

「そう?」

愛美は笑っただけだった。お姫様とか、御伽噺が非現実的だって言うんなら、わたし、もしくは愛美の考えるわたしの現実は、わたしと愛美が出逢ったことで、崩れ去ってしまったんだ。わたしが今現実主義者であるはずはない、けれど愛美がわたしを解っていないとも言い切れない。こんがらがったわたしは一旦話題を置いて、頭を冷やそうとした。顔を上げてすぐに目に入ったのは、優雅に微笑む愛美だった。

 「愛美は可愛くて良いなぁ」

自分でも知らない内にそう漏らしていた。

「え、何で?」

その表情には確かな驚きが刻まれていた。わたしは自分の言った言葉に少なからず動揺していたけれど、落ち着き払って次の言葉を探した。

「可愛い方が得じゃん」

愛美がハテナを浮かべる。わたしはその表情を見て、この表情も可愛いもんだな、と思った。わたしは弁解するように愛美から目を背けると、言い訳がましく唇を歪めた。

「男子にもてたいとか、そう言うんじゃないけど…」

「そうよね、沙樹って何だか、そういうことに興味なさそうだもの」

くすくす、と愛美は笑う。実際興味ないけどね、わたしはそう思ってから続けた。

「でもさ、いくらか顔が整ってた方が、世渡りとか少しは楽できそう。人間って、第一印象とか、見た目で八割方決めちゃうでしょ」

「あ、それ、聞いたことある」

第一印象と言うものはなかなか薄れないものだ。現に、クラスの女の子たちは、愛美の最初の印象を拭えずにいる。

「でも私、沙樹がそんなにうらやましがる程、可愛くないと思うけど…」

「愛美の場合は、笑顔も付いてくるでしょ」

わたしは言った。愛美はキョトンとした顔をする。

「だって愛美、今にも花が咲きそうな顔で笑うじゃない」

そう言ってから、はっとした。

「…今のは、表現、ね」

「分かってるわよ」

さっきイマイチ理解出来ないって言ったばかりじゃない、と続ける。

「ねぇ、沙樹」

真っ直ぐにわたしの方を見て、

「女の子はみんな花を咲かすことができるのよ」

それはあまりに真っ直ぐで、ふとした瞬間失くしてしまいそうで。

「それも、お兄さんの受け売り?」

不貞腐れたような顔で聞けば、

「やだ、沙樹、まるでやきもちでも妬いているみたいな顔よ」

お姫様は手の届くところでふわり、と笑うのだ。

 「あ、沙樹は、甘いもの好き?」

愛美は思い出したように聞いた。

「うん、嫌いじゃないよ」

わたしは答える。特別好きという訳でも、嫌いと言う訳でもない。

「ケーキあるんだけど、食べる?」

「いただく」

「じゃあ、切ってくるね」

愛美はそう言うと、台所に消えた。しばらく、わたしは居間に一人だった。

「きゃっ」

小さな悲鳴。

「どうしたの?」

ひょこ、と台所を覗けば、

「切っちゃった」

てへ、と笑う愛美。その指には、紅い珠が出来ていた。

「ごめんね、ケーキには付いてないと思うけど…」

「おっちょこちょい…」

わたしはそう呟いてから、愛美の傷を見た。そう深くはないだろう。指先だから、血が少しばかり多くでるのは仕方ない。

「消毒してばんそこえーど貼っときなよ」

当たり前のことを言って、愛美の指を離す。

「………」

愛美がしばらく不思議そうにわたしの顔を見てきたから、

「何?」

聞いてみたら、

「沙樹って、可愛い言い方するのね」

ぽつり、と言った。

「かわいい、言い方?」

「ばんそこえーど、って言ったでしょ。普通は絆創膏かバンドエイドよ」

くす、と笑われる。

「あー…そっか。でも癖なんだよね、ばんそこえーど」

「そのままの方が可愛い」

愛美は一頻り笑ってから、

「じゃ、貼って来るね、ばんそこえーど」

と言って台所から出て行った。

「ケーキ、切っとくね」

わたしはそんな後ろ姿に声を掛けてから、包丁を持った。愛美の血が付いていたから洗ったけれど、仄かに香るその匂いは、しばらく消えてはくれなかった。

 「どうぞ」

わたしは愛美が先に出しておいた皿にケーキを盛りつけ、その隣に置いてあったフォークを持って、愛美の前に出した。

「ありがと…ってもう、まるで沙樹の家にいるみたいじゃない」

愛美は笑いながら、私の方がお客さんみたい、と少し怒るふりをした。

「仕方ないじゃん、愛美がおっちょこちょいなのが悪い」

私は言うと、ケーキを口に放りこんだ。甘さが口中に広がる。

「ん、おいしい。流石わたし、切り方うまい」

「切り方って関係ないでしょ」

愛美もケーキを口にした。途端に笑顔になるその表情を見て、わたしは満腹中枢が騙されるような感覚がしていた。

 愛美とわたしは、また他愛のない話を続けていった。愛美はやたらわたしがばんそこえーどと言うようになった経緯を知りたがったが、わたしは覚えていなかった。

「気付いたらそう言ってたんだってば」

愛美の夢と同じような理由だよ、とは言えなかった。わたしは、なるべく自分からは、お兄さんの話題を出したくはなかった。

「えー」

ぷう、と頬を膨らます動作だって、愛美の前ではただの飾りだった。全てが愛美のためにある。その時わたしが誰かにそう囁かれたら、わたしは頷いていただろう。

 それから苺をいつ食べるかと話して(愛美は最初、わたしはケーキの甘さによって決める、だ)、ケーキが半分程になった時、がた、と音がした。

「!?」

警戒するようにフォークを握りしめるわたしとは反対に、愛美は、

「お兄さんだ!」

だっとそこを駆けだした。その瞬間、強い不安感がわたしの胸を過ぎる。フォークをそっと、出来るだけそっと置くと、わたしは愛美を追いかけた。

「お帰りなさい、お兄さん。久しぶりね」

愛美が笑いながら話しかけるその人は、全くの無表情だった。感情を持たない手が愛美の頭を撫でて、その顔が、わたしの方に向いた。

「あ、お兄さん、この子は私の友達。沙樹って言うの」

わたしは小さくお辞儀をした。お兄さんはお辞儀をしなかった。ただ、品定めするような視線が、嫌だった。

 お兄さんがわたしたちの間を通り抜けて、奥の部屋へと消えて、わたしはやっと自分が呼吸を止めていたことに気付いた。

「…あれが、愛美の好きなお兄さん?」

わたしは極力声を抑えて聞いた。愛美が、あの人間でないような人間を好いているのだとしたら、それを貶すようなことは避けたい。

「うん」

愛美は頷く。それは、嘘を吐いていない人間の顔。

「そっか」

わたしはそれきり、その話題には触れなかった。居間に戻ってケーキを食べたが、さっきまでのおいしい、という感覚は、何処かへ行ってしまったようだった。

 二時間なんて時間は、とても短いものだ。愛美と喋っていると、そんな時間は直ぐに過ぎた。

 ボーン、と居間の時計が鳴る。わたしは紅く染まり切った庭を見てから、

「え、もう六時?」

時計を見て呟いた。

「沙樹と居ると、時間が溶けていってしまうみたい」

愛美が言う。

「わたしもおんなじこと、思ってた」

笑って返せば、愛美も笑い返してくれた。

 帰り支度を済ませて、玄関に向かう。愛美がわたしの靴を用意して、玄関を開けて待っている。早く行かなくちゃ―――

「!」

刹那、強い視線を感じて、ばっと振り返った。…何も、居ない。

「どうしたの?」

愛美が前の方から聞く。

「ううん…気のせい…」

わたしは小走りで愛美の元に行った。でもわたしは何処かで、あの視線の主がお兄さんであると確信していた。

 帰り道、愛美はひどく静かだった。わたしは愛美の静かさと、お兄さんが何か関係しているような気がして、気が気ではなかった。

「誰も信じちゃいけない、のかもね、本当は」

静かに、愛美は言った。唐突な言葉だった。その声も表情もすごく優しくて、

「私はお兄さんが大好きだから、信じているけれど、そうやって誰かに依存するのって、駄目なのかもね」

哀しかった。

「―――」

わたしは何も言わなかった。信じるとか、依存とか、わたしには、無縁の言葉のような気がしていた。

「ねぇ、沙樹」

愛美は懇願するようにわたしを呼んだ。影が伸びている。今はまだ明るいけれど、直ぐに暗くなってしまうだろう。

「何」

わたしはなるべく短く答えた。会話を続かせたくない。嫌な予感。

「私、明日から学校休む」

「…何で?」

愛美に悪いところは見当たらない。顔色は至って普通、持病があるとかも聞いていないし、体育の時間だって飛ぶように華麗に走っていたから、そういうのはきっとない。

「調子が、悪いの」

見え透いた嘘だった。それは、愛美からの、わたしへの規制線だった。拒絶したくない拒絶。つまり、聞かないで欲しいってこと。

「…そう」

わたしは呟いた。わたしたちはいつもの曲がり角まで来ていた。

 「じゃ、ここまでで良いよ」

わたしはくるり、と振り返った。そこに居るのが愛美じゃないような気がした。でも、そこにはちゃんと愛美がいた。わたしが知ってる渡海愛美。お姫様になりたい、可愛い女の子。

「うん」

愛美が頷く。

「ねぇ、沙樹」

「まだ何かあるの?」

愛美の声が深刻味を帯びていたから、わたしはわざとそれを払拭するように言った。

「あのね、一週間。一週間経ったら、私の心配、してね。一週間経っても、私が、学校に行かなかったら…何を言われていても、私の心配、してね」

わたしは頷く代わりに、愛美の頭をぽんぽん、と叩いた。

「じゃ、またね」

手をふる。愛美が振り返す。角を曲がって、愛美の姿が見えなくなる。もちろん、愛美からもわたしは見えなくなっている。

 わたしは、へた、と座り込んだ。

 全身がぶるぶると震えていた。怖くて怖くてたまらなかった。


 愛美が学校に来なくなってから、一週間が過ぎた。周りは何とも変わらなかった。愛美が居ない、ただそれだけの事実は、他の人にとっては至極どうでも良いことのようであった。ただ、奈津を初めとする女の子たちは、わたしを独り占めする愛美が居なくなって、ホッとしたようであったが。

 「一週間経ったら、私の心配、してね」

一週間経たなくても、その言葉を聞いてから、ずっと心配だった。愛美はどうなってしまったのか。先生の話だと、熱が高くて起き上がれないらしいけど。きっと、全部お兄さんの仕業に違いない。わたしの中には何か確信めいたものがあった。

 今日は、愛美の家に行こう。わたしはそう思って、ホームルームが終わるとすぐに、教室を飛び出した。下駄箱には誰もいない。いつもなら何となく優越感に浸れるけれど、今はそれどころじゃない。自分の下駄箱の前まで来て、わたしは奇妙なものを見つけた。

 種だ。

 一週間前、愛美が学校を休み始める前に、耳にそっと置いていた種と同じもの。アサガオの種。それが、わたしの下駄箱からわたしを誘うように、点々と置かれている。周りががやがやとうるさくなる。

「沙樹? どうしたの?」

奈津の声がするけれど、わたしは答えられない。冷や汗がどっと吹き出る。

「沙樹?」

奈津が肩を叩いてきた。

「大丈夫?」

「あ、うん…」

わたしはぎこちなく笑った。目には、アサガオの種が張り付いている。

「ごめん、わたし行くね」

わたしはまだ何か言いたそうにしている奈津にそう言って、種を辿り始めた。

 「これ…愛美の家の方だ…」

種が巧妙に置かれていた。誰かが蹴ったりしないように、道の端っこに。そして、わたししか辿れないように、探さなくては次の種が見えないように置いてある。これは、わたしへの挑戦だ。じりじりと太陽が照りつける中、わたしはただひたすらに種を追っていく。

「愛美の家…」

とうとう、種は愛美の家に着いた。これは、愛美の質の悪い悪戯なのか。でも、それにしては胸騒ぎがひどい。わたしは、自分の勘を信じることにした。どんな光景が広がっていても、わたしは、くじけないぞ。自分に渇を入れる。

「!」

愛美の家の呼び鈴を鳴らそうとした時、わたしは目の端にまた、種を見つけた。呼び鈴は鳴らさずに、種を追いかける。ひどく、眩暈がした。鼻に衝く匂いがする。ああ、何だっけ、この匂い。つい最近、嗅いだような気がする。

 種は裏に続いていた。ひょこ、と裏を覗いたわたしは、どうして良いか分からなくなった。

 紅、紅、紅。綺麗な寝顔。愛美。歌。花。希少価値。紅。

 「きゃああぁぁぁあぁぁぁあぁ!!!」

混乱して混乱して、最初に出てきたのは、悲鳴だった。

 それからは、もうごちゃごちゃすぎて覚えていない。わたしが落ち着いた時、わたしは警察署の中にいた。優しそうな警察官が話しかけてくる。大丈夫? と言っているようだったが、わたしは答えられなかった。

「愛美…」

やっとのことで絞り出した声は、友人を呼ぶもので、その場にいた警察官が、ひどく、哀しそうな顔をした。

「誰も信じちゃいけない、のかもね、本当は」

愛美の笑顔はわたしの記憶に、ちゃんと残っているのに。

 黒い服を着て、愛美の家に行って。遺影を抱き締めるお兄さんに小さくお辞儀をして―――その時にちょっとだけ睨まれた気がした―――お焼香をして、すぐにそこを後にした。愛美の顔は見れなかった。私の記憶に強く刻まれた安らかな笑顔と、何ら変わらないものであっただろうから。

「―――」

息を吸おうとした。上手く吸い込めない気がする。ひっ、と喉が引き攣る。ぱたぱた、と小さな音がして、雨が降り出した。

「ひっ、ひっ」

私は雨の中で、必死に息を吸おうとしていた。頬を雨が濡らしていく。

「ひっ」

それはまるで、私が泣いているようだった。

 愛美が居なくなってからも、日常はそのままだった。少し変わったことがあると言えば、愛美の席に毎朝違う花が供えられていること。それをやっているのが奈津だってことは、何もわたしだけが知っていることではなかった。だけど、みんな知らないふりをしていた。

 前なら、奈津がどうしてそんなことをするのか、わたしは考えただろうに。今のわたしは、とても抜け殻になっていた。

 一度だけ、誰も居なくなった放課後の教室で、奈津が泣いているのを見た。あれだけ嫌っていた愛美のために、どうして泣けるのか、頭の隅で疑問に思ったけれど、少女なんて生き物はどうせそういうものだ、と片付けた。他の女の子だって、少女だというのに、わたしはその矛盾にさえ気付けない。

 夕陽の差し込む紅い教室に、わたしはただ突っ立っていた。教室は空っぽだった、一番前の席はもっと空っぽだった。主の居なくなった席に、やわらかい日差しが当たっている。お姫様の残り香が、蒸発してしゃぼん玉のように弾けて、消えていくみたいだった。


 愛美が居なくなって、分かったことがある。人間は一人じゃ生きていけないこと。わたしはいつもいつも人と隔絶して生きてきたように思っていたけれど、それは単なるわたしの思いこみだった。わたしは愛美と生きていた。愛美が来る前は、多分奈津とかと。わたしも愛美も、互いに依存し合っていた。だから、二人なら笑えて、一緒じゃなきゃ笑えなかった。それは、今も同じ。

 「愛美」

小さいお墓の前には、小さい種が置いてあった。きっとそれが、愛美の大好きなお兄さんからのものなんだと、わたしは勝手に思った。

「愛美の花は、咲いたのかな。咲いたから、取られちゃったのかな。希少価値が高いから」

愛美の死因は、頭部を派手に抉られたこと、らしかった。わたしの見た愛美にも頭、そして耳がなかったから、この噂は嘘ではないんだろう、そう思った。噂って一体どこから来るのかな、とも思ったけれど、今はどうだって良かった。愛美となら、そのことについても話し合えたかも知れなかったけれど。

 わたしはお墓に手を伸ばすと、小さな種を取り上げた。見たことのない種。花じゃないかも。野菜かも。

 わたしは髪を掻き上げて左耳を出すと、穴の前にその種をちょこん、と置いた。どんな花が咲くか知らないけれど、もしかしたら、水を遣りすぎて腐っちゃうかもしれないけど。


 愛美の歌が、聴こえる。

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わたしの種 なるかみ @nrkm8

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