第二話 赤い目玉

 ついさっきまで晴れ渡っていた空が、いつの間にか分厚い雲に覆われている。渦を巻く雲の向こうに、血のように赤い光が透けて見えた。

 英太郎は不吉な予感を感じて、眉根を顰めて頭上を見上げる。

 土手道を吹く風はびょうびょうとして、胸の悪くなるような焦げ臭い匂いを含んでいた。

「あっ……」

 熱心にタライをのぞき込んでいたお辰が急に小さく声を上げ、ゆらりと立ち上がった。

「お父つぁんが呼んでるみたい。行かなきゃ……」

 お辰は川の向こう岸を見つめながら言った。

 英太郎には三途の川の対岸の景色は見えない。地獄の住人ではないからなのか、どんなに目をこらしても白い靄がかかったようにぼんやりと霞んでしまうのだ。しかし、お辰には見えているのだろう。そこに確かにある、地獄と呼ばれる世界が……。そして今、地獄の全てを支配すると言われる閻魔大王がお辰を呼んでいる。おそらく、お辰の耳にしか届かない呼び声で。

「英太郎さん、またねぇ」

 お辰は目を細めてニッと笑うと足下の草をむしり取った。掌に載せてふぅっと息を吹きかける。草の葉はお辰の手から離れてふわりひらりとしばらく宙を舞って眼下の川面にポトリと落ち……みるみるうちに一艘の小舟に姿を変えた。そして、英太郎が舟に気を取られている間に隣にいたはずのお辰がいなくなっている。いつの間にかお辰は既に小舟に乗っていて、紫紺色の袖を揺らしながらこちらにひらひらと手を振っていた。

 お供の牛頭と馬頭の童子が慌てて土手から舟の方へ駆け下りていく。

 英太郎は、お辰達が乗り込んだ舟が川を横切り靄の向こうに消えて行くのを見送った。

 父親の仕事を手伝うお辰は、見た目に寄らず閻魔庁内部の細々とした些事の一切を取り仕切ったりしているらしい。閻魔庁に勤める鬼の中には、閻魔大王よりもお辰のことを恐れている者もいるほどだ。

 そのお辰が急に呼び戻されたということは、地獄の仕事が多忙になる前触れ……つまり、それだけ人が死ぬようなことがあったということだろう。

 英太郎は胸の奥が重苦しく塞がれるような心地で、じっと川の流れを眺めていた。

 その間にも土手道の人通りは徐々に多くなっていく。

 一人一人、死神に手を引かれた老若男女が英太郎の店の前を行き過ぎる。それは、静かな死者の行進だった。皆、一様に呆然として無表情で、まだ自分が死んだという事が理解できていないのだろうと思う。

 亡者達の着ているものは煤で黒く汚れていたり、あちらこちらが無惨に焼け焦げたりしていた。

「よぉ、英太郎!」

 その時、沈鬱な空気に場違いな程の明るい声が、英太郎の名を呼んだ。

「左之吉か」

「参ったぜー今日は暇だから勤めをすっぽかして、こっちで酒でも呑んでようかと思ってたんだがね。死神全員、急に呼び出されて大忙しだ」

 死神の左之吉は軽く肩をすくめて言った。

「火事か?」

「おう、また江戸みたいだな。百年前の大火事程じゃないが、結構でかかったみたいだ。全く、よく火の出る町だなぁ……ふぁあ……」

 左之吉はさも飽き飽きしたように大あくびをした。

「渡し場にこいつを連れて行こうとしたら、地獄行きの舟の数が足りないみたいで待たされてるんだよ。家ン中で昼寝でもしながら時間つぶそうと思ってな」

 しばらくこいつの子守をしててくれよ、と言いながら左之吉は傍らにちょこんと立っている女の子の背を、英太郎の方にぐいっと押し付けた。そうして左之吉自身は英太郎の答えも聞かず、さっさと店の奥に入っていってしまった。店の奥は英太郎と左之吉の住居である。

 左之吉はいつも奔放で自分勝手だ。

 英太郎の住処にある日突然押し掛けてきて、そのまま居座るような形で居候になってしまった時もそうだった。

 左之吉はもともと英太郎の仕事仲間だった。英太郎もかつては死神をやっていたのだ。英太郎が死神稼業を辞めて目玉売りを始めてしばらく経った頃、なぜか左之吉は英太郎の家に勝手に上がり込み、そのままずるずると男二人で暮らすことになってしまった。

 英太郎は自分の傍らに所在なさげに立っている少女を見下ろした。火事に巻き込まれて死んだ子供なのだろう。

「……名前は?」

「おろく」

「年は……?」

 おろくというらしい子供は、右手をぱぁっと広げてみせた。五つということか。

 小さな子供相手にどんなことを話せばよいのか、英太郎には皆目分からない。自分の連れてきた子供をこんな所にほっぽりだすなよ、と心の中で左之吉に毒づいた。

 結局、二人とも向かい合ったまましばらく黙り込み、店の中に何となく気まずい空気が流れる。

「お魚がいるの?」先に口を開いたのは、おろくだった。どうやら英太郎の足下のタライが気になるいるようだ。

「魚、じゃないけど……魚みたいなモンだよ」

「ふぅん……?」

「目ン玉だよ」

「め……?」

 おろくはキョトンとしている。

「見てもいーい?」

 おろくはねだるように英太郎を見上げた。

「いいよ」と英太郎が頷くや否や、おろくはその場にペタリと膝をついて、身を乗り出すようにタライの中をのぞき込んだ。

「ほんとだぁ~めだまだぁ~!」

 おろくは感嘆したような声を上げながら、目を見開いて食い入るように水の中を見つめている。放っておいたら、そのまま自分の目玉もポトリと水に落っことしてしまいそうな熱心さだ。

「きれいねぇ!」

 おろくは顔を輝かせて英太郎を見上げた。英太郎は思わずドキリとした。三途の川にやってくる数限りない亡者達の中で、こんなに無邪気で明るい笑顔を見せた者は今までについぞいなかったから……。

 それと同時に、英太郎はこの娘の運命に思いを馳せずにはいられなかった。幼くして死んだ子供は賽の河原に連れて行かれ、未来永劫終わることのない石積みの行をさせられるのが習わしだ。

 おろくの笑顔が美しければ美しいほど、英太郎にはこの娘のことがなんとも哀れで、いじらしく思えてくるのだった。

「気に入ったのがあったらやるよ」

 英太郎の口からついこんな言葉が滑り出たのも、おろくを哀れに思えばこそだった。

 川を越えて冥府に渡れば、やがて、草木も生えぬ寂しく薄ら寒い河原に連れて行かれ、延々と石を積み続けなければならない運命が待っている……積み終わろうとすれば鬼が来てそれまで積み上げた石の塔を突き崩していってしまうと聞く……

 その前にせめてもの餞として、彼女が気に入ったものを、心から美しいと思ったものを身につけさせてやりたかった。

「ほんとに? でも、あたし、お金もってない……」

 おろくはソワソワとした様子で英太郎を見上げた。

「金はいらねぇよ。その代わり、今付いてるヤツと交換だけどな……いいかい?」

 英太郎はおろくの右目を指さした。おろくは嬉しそうな顔でコクリと頷く。

「どれがいい? 選びな」

「ええっとね……えーとねぇ」おろくは五つのタライを順々にのぞき込む。「これ!」おろくが指さしたのは、薄く青みがかった滑らかな球体に真っ赤な瞳が紅玉石のように輝く目玉だった。

「これは確か……底なし沼の蛇神様の目玉だったな」英太郎はボソボソと呟き、左手で水の中から赤い目玉をじゃぼんとすくい上げながら、右手をおろくの顎に添えて上を向かせた。そのまま、右の掌をおろくの右の眼の上に当ててグリンと軽く捻るように回すと、すっぽりと目玉が抜ける。そして、ポッカリ黒々と空いてしまった眼窩には新しい目玉をはめ込んでやる。

 右の瞳だけが赤くなったおろくは何が起こったかわからないように、何度も瞬きをしていた。

 英太郎はおろくに手鏡を見せてやった。

「わぁ、すごい! ほんとに変わってる! 赤い赤い!」

 おろくは手鏡を持ったままその場でぴょんぴょん飛び跳ねまわりそうなくらい興奮している。この店に買い物にくる娘は沢山いるが、こんなに喜ばれたことは流石に初めてだから英太郎もちょっと嬉しくなった。

「英太郎、酒がなくなった」

 その時、左之吉がのっそり店の奥から出てきた。英太郎に空の徳利を渡してくる。

 英太郎の顔がピクリとひきつった。

「美味い酒だったなぁ。また買ってきてくれよ」

 英太郎の憮然とした表情に気が付いているのかいないのか、左之吉はあっけらかんとしてヘラヘラ笑っている。

 英太郎は何も言わずに左之吉の向こう臑を思い切り蹴ってやった。

「いてぇ!」

「仕事の最中に呑むな、馬鹿。しかも、人の酒を勝手に……。この酒はなぁ、川上の森の一つ目の鬼爺に頼んでやっと三合譲ってもらったもんなんだよ。お前が一滴残らず呑んじまったからもうねぇよ、馬鹿!」

 英太郎は、手に持った徳利を左之吉めがけて投げつけたが、左之吉はひょいと身をかわす。空の徳利は壁にガツンと当たって土間の上にコロコロ転がった。

「そうかぁーどうりでうめぇはずだった!」

 英太郎の怒りなぞどこ吹く風、左之吉は太い眉を上げて呵々と笑う。

 反省の色の欠片もない左之吉を見て、英太郎はがっくり脱力し、これ以上怒る気も失せてしまった。

「さぁ、もう行くぜ、おろく。奪衣婆がそろそろ新しい渡し船を出してくれてる頃だろう」

 左之吉は、それでもこれ以上英太郎の機嫌を損ねるのはまずいと思ったのか、二人のやりとりを口をポカンと開けて見ていたおろくの手をひっ掴むと店を早々に飛び出ていった。

 あんないい加減でちゃらんぽらんな死神に付き添われなくてはならないとは、おろくが可哀想だ、と英太郎は心底思う。

 亡者達の行列で未だ混み合う土手道の向こうへ二人の後ろ姿は小さくなっていく。英太郎は店先に立ち、ため息混じりに二人を見送った。

 と、その時、すぐ傍を風のようなものが疾駆していった。

 風のようなもの……あまりにも速すぎて英太郎にはその姿を見ることができなかった。しかし、こんなふうに風みたいに走る者には心当たりがあった。

「さのきちぃ……!」

 雷が落ちたかとも思えるような恐ろしい大音声が辺りに響きわたった。

 閻魔庁の役人頭の一人、赤鬼だ。その名の通り、全身の肌が血のように赤く、筋肉は隆々として、頭にはギラギラと光る鋭い角がにょきっと二本突き出ている大男だ。

 赤鬼は左之吉をひっつかまえにやってきたようだった。

「ひえぇ……赤鬼殿……何ですかぁ!?」と、左之吉の素っ頓狂な悲鳴が聞こえる。

 左之吉のやつ、また何か間抜けなことをしでかしたのか。せいぜい赤鬼にしっかり油を絞られるといい。

 先ほどの酒の怨みもあって、英太郎は小気味よさそうにニヤリと笑った。

「許して下さいっ……俺は酒なんか呑んじゃいねぇよぉ」

「うん? 呑んでるのか?」

「あっ……いや、それは……」

「そんなことはいい……! お前、その娘をこっちに渡せ」

「え? この娘っ子はこれから三途の渡しに連れて行くところでして……」

「馬鹿が! この娘はまだ死んじゃいねぇ!」

 二人の会話に耳をそばだてていた英太郎は、その一瞬で全身に冷や水を浴びせられたような気分になった。

 死んでいない……どういうことだ……?

「この間抜けめ! まだ生きている娘を、お前は勘違いして連れてきちまったんだよ! ……とにかく、川を渡る前で良かった。川の向こうへ行ったらもう二度と帰ってこられないからな……。この娘は俺が送り返すぞ!」

 赤鬼は、きょとんと突っ立っているおろくをひょいっと肩の上に担ぎ上げた。

「あっ……赤鬼殿……」

 英太郎は呼び止めようと声をかけかけたが間に合うはずもない。

 おろくを担いだ赤鬼は、風を巻き上げながら韋駄天よりも速く走り去る。そして、そのまま鳥が飛び立つように宙を飛んだ……雲の渦巻く空に向かって。

 空の向こうには生ける者の世界、現世があるのだ。

 天高く、雲の上へと飛去っていく赤鬼の肩に担がれたおろくの切りそろえられた前髪が、気流を受けてゆらゆらと揺れているのがなぜかはっきりと見えるように思えた。

(……まさか、生きている娘だったとは……)

 英太郎の胸に不安が広がった。

(蛇神様の目玉をはめたまま現世に帰っていってしまった……悪いことが起こらんといいが……)

 先ほど外したばかりのおろくの右の目玉は、まだほんのりとした温かみを残して英太郎の手の中に収まっていた。


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