赤目のおろく

三谷銀屋

プロローグ+第一話 目玉売り

 彼は、暗闇の中にいた。

長い長い時を、大地の底で、途方もなく深い闇に縛り付けられて閉じこめられていた。

 ヒトとしての彼の肉体は滅び、ほどけ、土塊となった。しかし、魂はいつまでも滅びなかった。

 魂は生きたまま、黄泉の国の使者達の手によって封じられたのだった。

 彼は恨み、憎んだ。自分を封じた者達を。自分を忘れていく人々を。

 恨みは、長い時をかけて、彼の中で暗い輝きを宿す結晶となり、彼の魂は恨みそのものとなった。彼は、いつからか、この世そのものを強く恨み、憎むようになっていた。

 恨み、憎む心は炎となり、いつか地上を焼き尽くすだろう。

 その日を夢に見ながら、彼は暗闇と呪詛で塗りつぶされた眠りの中をゆうらりゆらりとたゆたう。

彼の名は、牟射志宿禰久老磨呂。

 彼を目覚めさせることができるのは、ただ一人、赤い目を持つ者。蛇の神の力をその瞳に宿せし者。


<第一話  目玉売り>


(一)


 水の匂いがする。

 ザアザアと渦をまいて流れる川の音。

 そして、さらにすぐ近く、英太郎の足下に置かれた五個のタライからは、ぴちょんぴちょん、と生き物のように水が跳ね上がる音がしている。

 英太郎は閉じていた瞼を気怠げに持ち上げる。

 土手の上の店先に座って眺める川面は、空の碧い光を反射してキラキラと輝き、澄み切って雲ひとつない空を玉虫色の翼をはためかせた巨大な鳥が横切っていく。

 店の前の土手道を、白い着物を着た老女が若い男に手を引かれてテクテクと歩いていくのを何とはなしにぼんやりと眺めていたら、涼やかな川風が肌をさらりと撫でていった。

 何も言われずに連れてこられて、この穏やかで安らかな光景を目にし、この場所があの三途の川のほとりであると気がつくことができる者がどれだけいるだろうか?

 川沿いの土手道を通り、亡者達は皆、死神に手を引かれながら、この先にある三途の渡し場へと歩いていくのだ。船に乗って対岸に渡ればそこはもう冥府、地獄への入り口だ。

 英太郎の店は、その三途の川の土手道の途中にぽつねんと建っている。ここは現世と地獄との境目だ。

 店の前に掲げた赤い幟には「目玉売り」の文字が書かれている。その文字通り、英太郎は目玉を売っているのだった。

 三途の川に面した店先で、居眠りがてら英太郎が座っている床几の両側には、先ほども言った通り五個のタライが水を張って置かれている。ちょうど金魚売りが金魚を売るような感じに似ている。

 しかし、タライの中をのぞき込めば、魚の代わりに色とりどりの瞳を持つまあるい目玉達が、あちらへこちらへ、上へ下へと、ちょこまかと泳ぎ回っている。

 黒い瞳、青い瞳、朱の瞳、緑の瞳、黄金色の瞳……色ばかりでなく、大きさも大小さまざまな目玉である。

 なぜこのような物を売っているのかと言えば、その理由は最近(と、言ってもここ二百年ほどの話だが)流行りだした地獄流のお洒落にある。

 人間が着物の帯や半襟を日によって変える。それと同じで、地獄の住人達は自分の目玉を好きなように取り替える。

 地獄に住まうモノ達の身体は、一応、ヒトに似た姿形はしていても実体はないにも等しい。目玉も、手足も、腹も、どこもかしこも、頭そのもの以外であれば、切ったり、外したり、付け直したり、取り替えたりが自由なのだ。

 そんなわけで地獄の閻魔庁で働く女達だけでなく、身だしなみに気を使う死神連中や閻魔庁役人の鬼達も英太郎の店を訪れる。

 乾いてはいけないからタライに張った水の中に泳がしておく目玉だが、少し値の張る高級なものは、びいどろの器において棚に飾っておくこともある。

 仕入れる目玉はだいたい地獄かその近くの異界に棲む妖獣や物の怪のものだ。うまくしたもので、妖獣専門の猟師などもいて、そういう者が英太郎に目玉を回してくれたりする。また、話の分かる穏やかな物の怪であれば、交渉次第で自分から目玉を譲ってくれることもある。 

「英太郎さぁん」

 甘ったるい声が絡みつくように耳に響いた。

「お辰さん……」

 派手な身なりの女が英太郎の前に立ってニンマリと微笑んでいた。

 紫地に赤い炎と金色のドクロの柄を散らした打ち掛けを羽織り、黒々と光る豊かな髪には簪……の代わりに翡翠色の鱗の細い蛇を巻き付けている。

 女の背後には、二人の童子が付き従う。右側に立つ童子の首から上は牛の頭で、左側の童子の頭は馬のものだった。牛(ご)頭(ず)と馬(め)頭(ず)だ。

 お辰は、冥府を統べる閻魔大王の一人娘だ。英太郎の店のお得意さまでもある。

「今日は何かお探しかい?」

「特に何かってわけじゃないけどぉ……新しいの入ったぁ?」

 お辰は身を屈めてタライの中をのぞき込んだ。

 五つのタライをひとつずつ見ている。

 水の中に指をつっこみ、目玉をちょんちょんとつつく。

 かと思うと、一個一個つまみ上げて掌の上で転がして見てみたり、外の光に透かして見たりしている。  

 そうやって全部のタライを物色し終わった時、お辰の視線は棚の上のびいどろの器に止まったようだった。

「英太郎さん、あれはぁ?」

 お辰が目を付けたのは、琥珀色の瞳の目玉。とろりとした蜜のような琥珀の輝きの中に、ぽっ、ぽっ、と薄桃色の光が焔を噴き上げるように揺らめく。

「これは滅多なことじゃ売れない」英太郎は答えた。「大妖怪の目玉だから」

「どういうことぉ?」

「大江山の酒呑童子の目玉。銭金積まれても売らないよ……それなりの条件と交換じゃないとな」

「閻魔大王の娘が頼んでも?」

「それも関係ない」

 お辰は、ふぅーん、と少し不満げに口を尖らせたが、すぐに興味を失ったように再びタライの中をのぞき込んだ。お辰のお供の牛頭(ごず)と馬頭(めず)の童子はすでに退屈したように、ソワソワと身体を揺すらせている。

「そういえばさぁ……」

 タライの中の目玉達を見つめたまま、お辰が口を開く。

「あいつは、今いないの?」

「いない。仕事に出てるよ」

 会いたいのかい? と英太郎は、からかうような気持ちで訊いてみる。

「まさかぁ……その逆よ。あんなやつ……」

 お辰は顔を上げてキッと英太郎を睨んだ。お辰の右目は藍色で、左目は深い緑色だ。両方、英太郎の店で買った目玉である。整ったお辰の骨格によく似合っている、と英太郎は改めて思った。

「しつこいんですもの。もし、いたら面倒だと思って……今日はいないみたいでほっとしたわぁ」

 お辰は、ぎゅっと眉根にしわを寄せて言った。その後ろでは、馬(め)頭(ず)の童子が大きな口をカパッと開けてあくびをしていた。



(二)


 半鐘の音がけたたましく鳴り響く頃には、もう火の手はすぐそこまで迫ってきていた。道という道は、家財道具を持って我先にと逃げだそうとする人々で溢れかえっている。

 寛政六年(一七九四)一月十日。麹町界隈から出火した炎は折悪しくも西からの強風に煽られて忽ちのうちに延焼し、江戸に住む人々の生活を無惨に焼き尽くしていた。

 おろくはただ兄の仙蔵の手を必死で掴みながらがむしゃらに走っていた。走っている間も恐怖のあまり歯の根が合わないほど全身は激しく震えている。

 狂気じみた混乱の中で両親とはとうにはぐれ、幼い兄妹二人、自分たちがどこに向かっているのか、どこに向かえばいいのか、皆目分からなかった。ただただ、人の流れに従って、前へ前へと駆けていくしかない。少しでも、一歩でも、あの恐ろしい炎から逃れるために。

 しかし……

「火が燃え移ったぞぉ!」

 悲鳴に近い叫び声が上がった。

 人の波にさらなる混乱が広がる。

 仙蔵とおろくは、前から押し返される人々と、後ろから進もうとする人の群れの間にもみくちゃにされる形になった。

「おろく!」

 仙蔵が叫ぶのと、二人の手が離れるのはほぼ同時だった。

「兄ちゃん……! 兄ちゃん……!」

 おろくは泣き叫んだ。

 目の前で火の柱が上がった。あつい。

 逃げ惑う人の群れにおろくは突きとばされ、地面に倒れ伏した。全身を強く打ちつけ、息が止まるような衝撃が走る。それでも、おろくは立ち上がろうとした。しかし、次の瞬間には、おろくの小さな身体の上には幾人もの人間が折り重なるように倒れ込んできていた。

 いたい……いたい……くるしい……!

 もがこうにも身動きすらとれない。

 炎に巻かれる人々の悲鳴、泣き声、怒号、絶え間なく打ち鳴らされる半鐘、家屋が燃え崩れる音……

 おろくの意識は闇に吸い込まれるように次第に虚ろになっていった。

 ああ……死んじゃう……

 おろくは、深い闇の中で心が静かに凍り付いていくのを感じていた。

 その時、おろくの手を誰かが掴んだ。

 仙蔵の手とは違う。大人の手だ。暖かい温もりがおろくの掌にじんわりと伝わった。

 気がつくとおろくは川のほとりの土手道を誰かに手を引かれながら歩いていた。

 びっくりして思わず足を止め、立ちすくむ。

「どうした、おろく? 早く行かねぇと渡し船が出ちまうぞ」

 頭上から、低い男の声が降ってきた。

 顔を上げる。先ほどからおろくの手を引いているのは、眉が太くて顎が四角く角張った、どこか愛嬌のある顔をした若い男だった。

「おじさん……だぁれ?」

 おろくは訝しげに訊ねた。

「俺か? 俺は死神だ。三途の川の渡し場まで連れて行ってやるんだからさっさと歩きな」

 事もなげにそう言うと、死神を名乗る男はおろくの手を引いたまま、ずんずんと歩いていく。

(やっぱり、あたしは死んだのか……)

 おろくは妙に納得したような、寂しいような気持ちになって、後はもう何もいわずに、しょんぼりと死神の後に付いて川沿いの土手道をテクテク歩いていった。

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