1-04『夢の独り暮らしの破綻まで4』
自室に戻った。かんな荘、一○二号室――この春からの俺の城に。
言い換えるならようやく友利から解放された。これは、向こうはまったく正反対のことを考えているだろうけれど。つまり、ようやく俺から解放された、と。
だが安心するのはまだ早かった。
というか、問題はむしろこれからだと言うべきだ。
俺たちの――俺と友利の縁は、どうやら想定していた以上に根が深いらしい。
家どころかクラスもバイト先もいっしょで、しかも周囲がそれを後押ししている節がある。
問題はこの点だ。俺と友利は、これからのことについて考える必要があった。
ただ距離を取って無関係を貫けるなら問題はなかった。だが現実、どうやらそれは難しそうな気配である。ならば関係を前提として、その間に取り決めが必須だろう。
なにせ友利は、俺とまったく正反対の生き方をするために独り暮らしを始めている。こうまで状況が似通っているにもかかわらず、お互いの目的が相反するのだ。なるべく早いうちに現況への対処法を考案しておかなければ、今後の青春に多大な影響が懸念された。
幸い、それを行う手っ取り早い方法は、すでに俺の手の中に確保されている。
これは何も比喩ではなく。俺は取り出したスマートフォンの電話帳に、《友利叶》の項目を再確認した。バイト先で必要になるため、真矢さんに押される形で交換したのだ。
文明の利器の偉大さたるや。人は直接に顔を合わせずとも、声を交わすことができるのだから。こんなに素晴らしいことはないだろう。――友利が相手の場合は特に。
「……すげえ、濃い一日だったな……」
呟き、俺はふと部屋の壁に目を遣った。一○三号室側――薄い壁を隔てたその向こうに友利叶がいる。こんな近距離で、電話で会話しようというのもだいぶおかしな話だが。
今日だけでスマートフォンに記録された連絡先はだいぶ増えた。
だが、その中でも友利叶の項目は、こう、なんだ。ほかとだいぶオーラが違う。
気がした。
気がしたときだった。――スマートフォンが震え始めたのは。
それは電話の着信を知らせるバイブレーション。表示された名前は、――友利叶。
やはり、考えることはどこまでも同じであるらしかった。
微妙な気分を覚えつつ、俺は通話のマークを指でフリックする。
「……もしもし」
「あー、もしもし、我喜屋? ……だよね。訊くまでもなく」
電話口から響く声。だが訊くまでもない、という最大の理由は単純なもので。
友利の声は、隣の部屋からも届いていたのだ。……ちょっと壁が薄すぎる気がする。
「俺からもかけようと思ってたところだ」
俺は言った。電話口は、数秒の無言があってから答えを返す。
「……だと思った。思ってたから、それは言わないでほしかったな。同じ考えだったことを、あんまり突きつけられたくないから」
「お前が先にかけたせいで、俺は突きつけられたんだよ。お前もこの気分を共有しろ」
「性格悪いなあ。……わたしでも同じことする気がしてきたから言わないけどこれ以上」
これぞまさしく同属嫌悪、というか。
同じであるはずなのに、あまりに違うせいで奇妙な感覚になる。ともあれ俺は言った。
「……用件も、なら俺が考えてることと同じでいいな?」
「でしょーね。ん、面倒だけど、わたしたちのこれからについて、話しておかないといけないかな、と思った次第なのです」
「わたしたちのこれからって言い方やめてくれ」
「間違ってないでしょーに」
「あってるから嫌なんでしょうが」
なんだか不思議な感覚だ。もうそれしか言っていないような気もしてくるが。
こうまで正反対だというのに、俺は友利のことを、それこそ長い時間を付き合ってきた友人のようにすら思ってしまうのだから。話しやすいというか、気安いというか。そのどちらも違っていて、妙に考えが読めてしまうがゆえの奇妙な共感があるとでもいうか。
そんな相手が、なぜ俺とまったく正反対の生き方を選んでいるのかに関してだけは――本当に微塵も理解できないのだけれど。
「……そう。そこだよ」
唐突に俺が呟いたことで、電話口の友利の声が止まる。当然、壁の向こう側からも。
俺は思いついたがままに壁へと近づいた。そして、半ば隣の部屋に向けて言う。
「お前の言う脇役哲学。あれ、もう少し具体的に説明してくれ」
「……朝、もう言ったと思うんだけど」
「確かに聞いた。でもあれじゃなんもわからん。だから具体的にって言ってるだろ。まずその前提を共有しないと、どういう対応を選ぶべきなのかも決められない」
俺が、この高校生活をどのように過ごしたいと考えているのか。
翻って友利叶は、高校生活をどう過ごそうとしているのか。
まず共有しておくべきはその点だろう。お互いの理念がわかって初めて、俺たちは互いを邪魔することなく、心地のいい関係を築くことができるはずだった。
だがそう考えた俺に対し、友利はあまり乗り気ではない様子で。
「……正直、言いたくないんだけど」
さすがに何もかも同じ考え方をするわけではなかった。当たり前の話ではあるが。似ていることなど、違っていることの証明でしかないのだから。
友利は続けてこう呟く。
「でも、言わないわけにはいかないよね」
「……別に、言いたくないなら言わなくてもいいが。その場合、俺は俺のやりたいようにやるぞ」
「具体的には?」
「――言うなら俺は、最高の青春を送りたいと思っているわけだ」
俺は自分から先に考えを開示することを決めた。友利が渋っているのだから。
別に、誰に憚ることでもない。俺は俺の主役理論が正しいと信じて疑っていない。
「たくさんの友達を作って、できれば恋人も欲しい。高校生だぜ? 青春だぜ――やれることはいくらだってある。その全てを俺は経験したいんだ。なんでもいい。何もかもだ。友達と休み時間に雑談するのもいい。放課後、居残って勉強するのだって悪くない。休みの日には何度だって遊びに行きたいし、文化祭とか夏休みとか、いろんなイベントが盛りだくさんだ。そういうのが高校生活ってもんだろ? 人間はひとりで生きるんじゃないんだ。閉じこもってちゃ何も楽しくない。人生ってもんを最高に色鮮やかにして生きるために、俺に独り暮らしを始めたんだよ」
「……いろいろと言いたいことはあるけど」ひと息に言った俺に、友利が答える。「まず、そのために独り暮らしってのが繋がってない気がするんだけど。実家で暮らしてたって、友達と遊べなくなるわけじゃないでしょーに」
「それはもちろん」俺は答えた。「だけど俺は半端な青春じゃ納得しない。できない。そのためにできることなら全部やっておくべきなんだ。ただ友達と楽しく過ごす――それだけのことですら、当たり前に手に入るものじゃないってことを誰だって知ってる。なら半端はしない。可処分時間は全て俺の裁量で使い方を決める。あらゆる《
「熱いんだか醒めてるんだかわかんないこと言うね、我喜屋……冷めてはいないけど」
「俺だって、普通ならこんなこと誰かに聞かせたりしねえよ」
だが友利ならば。それがわかると思っただけだ。
たとえ俺とは異なっていても、なんらかの理屈を元に生き方を決めている友利なら。
そして、果たして。
友利叶は、俺の宣言にこんな言葉を返してきた。
「――言うならわたしも、最高の青春を送りたいと思ってるわけだけどね」
「友利……?」
「人間関係は最低限でいい。もちろん敵を作ったりしないし、空気は読む。だけど、それだけに煩わされるなんて馬鹿げてる。高校生だよ? 青春なんだ――やれることはいくらだってある。なんでもいい。何もかもだよ。バイトでお金を稼いだっていい。ためたお金で旅行に行ってもいい。読みたい本はいくらだってあるし、将来のために勉強したいこともいくらだって考えつく。有限の時間を、なんの価値もない遊びなんかに費やすなんて間抜けのすることだよ。いや、遊ぶくらいはいい。それも大事だね。だけど、それを他人に振り回されるようなことがあっちゃいけない。だからわたしは独り暮らしを始めたの」
「……………………」俺には。
もう何を言えばいいのかさえわからなくなってしまっていた。
考え方が、あまりに正反対すぎる。
「だから、主役なんてあり得ない。いや、そもそも人間、誰だって自分の人生の主役じゃない? だけど誰かに引っ張り回されるのはごめんだよね。誰かにとって、わたしの存在なんて脇役で構わない。むしろそのほうがいい。顔を合わせることはあるかもしれない。いっしょに行動することだってある。――そして、卒業したら二度と会わない。それこそ平穏で、最も合理的な最高の青春ってものじゃないの?」
友利はそう言い切った。半ば俺に対する、当てつけのように正反対の考えを。
いや、実際そうだったのかもしれない。先んじて俺が、友利に自分の考えを披露したのだ。彼女にしてみれば、それこそ自分への当てつけに感じられただろう。
そう。俺たちは単に考え方が同じだっただけではない。
その目的さえ同一であったのだ。
にもかかわらず、選んだ行動も目指す先も――何もかもが違ってしまっている。
この噛み合わなさときたらいっそ、ちょっとした奇跡にさえ感じられた。
――ここで、俺たちは話を終わらせるべきだった。
お互いの考えは理解できたのだ。なら、お互いにそれを尊重して、今後の方針を練ればいいだけの話だった。そもそもそのために、俺たちはお互いの主義を開陳している。
だが――ここが俺の徹底できていないところだったのだろう。
奇しくも朝、電話で奴に言われたように。俺は、まだまだ主役には程遠かった。
スマートではない対応を、感情のままに選んでしまうくらいに。
「……それは、おかしいだろ。お前」
気づけばそんなことを言ってしまっていた。
放っておけばいいのに。他人の考え方に口を出すべきではないとわかっているのに。
我慢できずに言葉を出してしまった。友利が――こうまで最悪に正反対の相手でさえなければ、絶対にこんなことは言わなかったはずなのに。まるで自分の考えを正面から否定されているように感じてしまったせいだろう。
俺は、ここで、言わなくてもいいことを言ってしまったのだ。
「要するにそれ引き籠もってるってことだろ? そんなもんの何が楽しいんだよ――いや、わかる。言わんとせんことはわかる。確かにお前の生き方だって楽しいだろうさ。だけど楽しいことってそれだけか? それ以外のことは、全て切り捨ててもいいことなのかよ」
自分以外の人間の価値を、初めから何ひとつ認めないかのような。
友利がそうは考えていなかったのだとしても。俺にはそう聞こえてしまっていた。
そして。
「……我喜屋に、そんなこと言われる筋合いないんだけど」
売り言葉に買い言葉。いや、俺がこう感じたということは、すなわち友利も同じように感じたということなのだろう。友利叶は、言われっ放しで黙るような女ではない。
あるいは俺が先に口火を切らなければ、友利のほうから撃鉄を弾いていただろう。
「いや、わかるよ? わたしだって、別に我喜屋の考えは否定しない。誰かと――友達といっしょに楽しく過ごせることだってある。そういう青春を、普通は望むんだろうってことくらいは理解してるつもりだよ。だけど――だけどそれだけじゃないでしょ? それって人間関係のいいところしか見てないじゃん。それだけじゃない、っていうか、そうじゃないことのほうがずっと多いことくらい我喜屋だってわかるはずだよ。誰もが、何もかもが都合よくなんていかない。誰かといて面倒に思ったり、傷つけられることだってある。我喜屋はそれを、無視してるとしか思えない。夢ばっかりで現実を見てないんだよ」
もう俺も止まれなかった。
「それはこっちの台詞だ、現実を見てないのはお前のほうだ。いいや、それだけじゃない。友利は現実どころか、周りの人間にすら目を向けないと言ったんだ。そんなのあまりに不誠実だろ。人間はひとりじゃ生きられねえんだ。別に精神の在り方とかそういう哲学的な話がしたいわけじゃねえぞ? 現実問題、この現代社会で誰とも関わらずに生きることなんざできるわけねえだろ。俺だってそうそう都合のいいことばっか信じちゃねえよ。いや、どころか都合のよくないことばっかだってわかってる。だからだろ、だからみんな努力して、自分の環境をいいものにしてやろうって気張ってんじゃねえかよ。それを否定するのはおかしい。自分だけの世界で生きていけるなんて、そんな考え方は間違ってる!」
「そんなことわたしだってわかってる!」
もはや俺たちは、電話ではなく壁の向こうに話しかけていた。
相手の言うことを否定するように。いや、お互いの存在そのものが、お互いにとっての否定であるとばかりに。俺たちにはもはや言葉を止めることができなくなっている。
「だからわたしだって別にひとりで生きようとはしていない! ごく普通に、誰にとっても同じように価値のない脇役であろうとしてるんだよ! それを責められる謂われはない。わたしは、ただわたしの人生を、わたしが生きたいように生きようとしているだけ。その邪魔をするものを、でもわたしは排除しようとすらしてない。それを間違ってるなんて、それこそ我喜屋に言われる筋合いないよ! だいたいわたしのこと言えた義理!? 要は我喜屋が言ってることって、自分にとって都合よく誰かを動かそうとしてるってことじゃないの? そんなの、ただ自分のことだけ考えてるわたしよりよっぽど傲慢じゃん!」
だん! と壁を叩かれる音がした。
おそらく感情のままに、友利が壁を殴ったのだろう。
俺は、――それに明確にキレた。いや、その前からすでに手遅れではあった。これも、だからどちらが早いかの問題でしかなかったのだろう。怒りのままに俺は壁を蹴り返す。
「んなこと考えてねえよ! 勝手な思い込みで他人のこと測ってんじゃねえぞ!」
どん!
「だからそれもこっちの台詞だって言ってんの! なんなのアンタはマジで!!」
ごん!
だん。がん。ごん。ばん。
だんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだん!
もはや俺たちはガキのように、げしげし壁を蹴り続けていた。相手が殴れば、それを上回る強さで返す。それにまた打撃が返ってくる。
終わらないいたちごっこの繰り返し。
そんな負のスパイラルも、ついに頂点に達してしまい。
「――もうテメエいい加減にしろよマジこのバカ!」
「だからこっちの台詞だって言ってんだバカ――!」
ヒートアップしたボルテージは留まるところを知らず。
俺は。
そして友利は。
お互い、まったくの同時に、これまでで最も力を込めた蹴りを壁に放った。
――ばぎごん!
とでもいうような大きな音が響いた。俺たちの怒りが、そこでようやく冷や水を浴びせかけられたかのように終息する。代わりに、大きな後悔が足を運んできた。
端的に言うなれば、やっちまったで御座るの巻。
「……………………」
「……………………」
俺も、友利も。お互い顔を見合わせて無言になっている。
そう――俺たちは今、お互いの顔がはっきり目に見えていた。別に何かの比喩表現というわけではなく、もう完全に、物理的にくっきりと視界に入っていたのだ。
真正面に喧嘩キックじみた一撃を放った状態で片足立ちの俺。その正面には、こちらは半身で空手キックじみたポーズのまま目を真ん丸に見開いている片足立ちの友利の姿。
なんとなれば。
俺たちの間を隔てる、一〇二号室と三号室の仕切りたる薄い壁が。
――お互いの蹴りの一撃によって、完膚なきまでに破壊されてしまっていた。
ものすごい勢いで冷静になっていく俺がそこにはいた。
まずい。いやまずいなんてもんじゃない。やばい。ところでまずいとやばいでは後者のほうが上なのだろうか。わからない。――ていうかそんなこと考えてる場合じゃない!
待ってほしい。そして言い訳をさせてほしい。
確かに俺は――いや俺たちは、お互い感情のままに蹴りを放った。それは認めよう。
だが、いくらなんでも壁をぶち抜くほど強い蹴りを放ったわけではない。そんなことをしたら俺の足の骨のほうがたぶんまずい。
いくらなんでも、これは壁のほうがあまりに薄すぎないだろうか。というか、目の前の破れた壁のザマを見るに、もはや壁とは言いづらい。こんなもの板だ。壁じゃない。板の中でも、さらに言えばベニヤ板の域だろう。それが数枚集まっている程度のものだった。
――などと言い訳をしたところで俺たちが壁を破壊してしまったことに変わりはなく。
顔を見合わせて硬直する俺と友利。
……どうする? いや、どうするって訊かれても。だってこれ、まずいよね? そりゃ確かにまずいけども。じゃあどうすんだよ。なんでアンタがキレるわけ? だってこれ、お前のせいだろうが。は、アンタのせいでもあるよね? いやまあそれもそうだけど。
そんな会話が視線だけで繰り広げられていた。
そして直後。
扉――部屋の入口の側に近づいてくる足跡を俺は耳にしていた。同時に声も。
「ちょっと? 我喜屋くん? 友利さん? なんか、さっきからやけに大きな声が届いてきてるけど、どうかしたの? だいじょうぶー?」
瑠璃さんの声だった。つまりこのアパートの管理人さんの声だった。
俺は言う。
「……土下座、お前もしろよ」
「わかってるっての。弁償は半額ずつだからね、これ」
「それもわかってるっての。話、合わせろよな――さすがに追い出されたくはない」
「わたしだって同じだってば。振りでもいいから、仲いい素振りしてよね」
――というわけで。
俺たちを隔てていた壁は、こんな顛末から取り払われることになったのだった。
なお、心の壁はむしろ厚みを増したことにも、一応ながら言及しておくことにする。
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