第190話 雷鳴
ああ、最高の気分だ――
薄暗い室内で、男は一人呟く。額から落ちた汗が、床に落ちていくのを目で追いかける。床は濡れていた。それが自身の血と汗だということに、今更気付く。
全身を襲っていた痛みが和らいでいく。力が馴染みだしたのだろう。思っていたよりも数段強力。魔力が見えるようになることよりも、こちらを選択して良かったと思えた。自分には、この力の方が合っている。
「キヒヒ」
笑みが溢れる。悩む必要なんてない。欲しけりゃ両方手に入れればいい。力があれば容易い。
ルーツ本人からもう片方を奪ってもいいし、この力を得る代わりに魔法の目を渡したあの男、あいつを殺して奪えばいいだけだ。守りきれないお前が悪い。
取引なんてものは、相手と自分が対等の立場や力を持って、初めて成立するもの。持論だが、間違ってはいないはずだ。
科学者を名乗る魔族の男、マッド。思えば、全てはあの胡散臭い男が現れたことから始まった。
王国軍と元魔王軍が停戦協定を結ぼうとしていること。人間共が魔導兵器なるものを所持していること。どこで知り得た情報かは知らないが、それら全ての情報は、あの男からもたらされた。
「新魔王様は、そのあたりどうお考えなのかね」
男の目的は不明だ。ただ、掌の上で踊らされているのではないか。そう思う。
油断はしているだろう。油断というよりは、なんとでもなるという余裕。あの男自身に、それほどの強い力は感じなかった。いつでも消せる、と。
だが、ああいう何を考えているか分からない男が一番危険なのだ。確かにあんたの力は認める。魔王と呼ばれていた男もねじ伏せた。強くなった今の俺でも、勝敗は分からない。正面から戦うのは躊躇する。
だが、新魔王だなんて担がされて、いい気になっているんじゃないか。周りがみえているか。先を見通せているか。
「くく。いいか、どっちでも」
先の見えていない男についていく気はない。ただ、俺の目的はルーツだ。あいつと戦い、あいつを倒すこと。今も昔も、それは変わらない。
その目的だけを思えば、今回の舞台は悪くない。誰にも邪魔をされず、一対一で戦える。人質もいれば、逃げるという選択肢もないだろう。
「よお、久しぶりだな」
「君は……」
王城地下牢。傷だらけの体で床に伏した男を、俺は見下ろす。
「ジョーカー君。あの頃とは、随分と変わってしまったようだね。先程まで聞こえていた、苦しそうな声が原因かな?」
「キヒヒ、まあな。あんたも変わったな。まさかあんたが、そんな姿でいるところを誰が想像できただろう」
灯りの消えた暗い地下牢でも、鈍く光る銀髪。俺が見下ろしていたのは、元魔王軍筆頭ワスト。ルーツの父親だ。
俺が魔王軍にいた頃は、その圧倒的な強さに惚れた。臆した。目標だった。それが今や、痛めつけられ声もまともに出せない、ただの年老いた男。
「はは。いつまでも現役でいるのは難しい。時は進む。何事も、次の世代へ移りゆくものだ」
「単刀直入に聞く。あんたの目から見て、今の俺とルーツ。どっちが強い?」
なんだ、解放しにきたわけではないのか。ワストはそう言って、鼻で笑う。俺も合わせて笑みを浮かべた。
「答えろ」
「君、だろうね。……君は強く、あの子は弱い」
俺はしばらく目を閉じた後、ワストに背を向けた。
「だろうな」
地下牢を出る。王城の外からは、激しい戦いの音が聞こえていた。
=====
代表戦四日目。二対二で行われる戦いに参加していたのは、王国軍で隊長を務める二名。実力は、拮抗していた。
「あれほどの強力な魔族と戦うのは初めてだ」
「全く。エクスが傷を負ったのも納得がいく」
家屋の陰に隠れ、魔族の魔法をやり過ごす。位置は知られている。屋根が豪快に吹き飛ばされたのと同時に、二人は陰から飛び出した。
「だが負けられん! レティ様の子を、この目に拝むまでは!」
「ばかな。レティ殿はまだ子供ではないか! 気が早すぎる! メルト姫! うちの息子と結婚してくだされ~。今年、五歳になりました」
「気が早いのはあんたもな!」
魔法が飛来し、躱す。受け止める。長く続いた戦いで、街の景観はひどく様変わりしていた。
剣で爪を受け止め、力任せに薙ぎ払う。壁にぶつかった魔族は、崩れた瓦礫の中から立ち上がり、砂埃を払った。
「頑丈だな、おい」
立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた魔族の隣に、もう一人の魔族も降り立つ。同時に、咳き込みながらも味方の男が合流する。
また二体二。両者ともに、傷は浅い。
睨み合う両者がじりじりと距離を詰める中、声が聞こえた。片や、申し訳なさそうな表情をする二人に対して、片や、警戒を強め舌打ちをする。舌打ちをしたのは、この場に自分たちの味方が来るはずがないという考えからだ。
「新手か」
「予想はしていたが……やはり、魔族。汚い手を使ってきやがる」
声を上げたのは魔族の男だった。屋根の上に立っていたその男は、睨み合う両者の中央に降り立ち、口を開いた。
「はーあ。いつまでやってんだか」
「申し訳ございません。ですが、あと少しで!」
態度や口調から考えるに、戦っていた魔族よりも上の存在。考えるよりも、体でその力を痛感する。
王国軍の二人は、一歩後退する。が、退けない戦いであることを思い直したのか、歯を噛み締め、剣を握り直した。
「あと少し、ねぇ。まあいいや。俺はそんなことを、聞きにきたわけじゃねえんだ」
「それでは?」
キヒヒ、と笑った男は、動いた。それは今までに戦っていた両者にとって、動いた、とだけ感じるような速度だった。
……。
曇り空。いつ雨が振ってもおかしくなさそうな、どんよりとした空の下。バルムクーヘンの城下町、その門から少し離れた平原で、戦いに赴いた二名の帰りを待つ者達がいた。
「おい! 帰ってきたぞ!」
一人の兵士が、声を上げる。その声に反応し、その場にいた全員が門を見る。
「ということは?」
「勝ったんだ! やったぞ!」
二人は、大きな門の下をくぐるところだった。確かに、それは皆が知る二人だった。
この戦いで、帰ってくるということ自体が、イコール勝利だということ。皆はそう思っていた。そのはずだった。
「待って!」
誰よりも目の良い男、魔族であるルーツが、駆け寄ろうとする者たちに制止をかける。
「なんか、変だ」
二名の隊長は、自分たちの方へ向かってくる。それは間違いない。だが、様子がおかしい。ルーツは、外套を脱ぎ捨て目を細めた。
「お館様、少しお下がりください」
「雨が、振ってきそうだね……それも、ひどく」
ルーツを除き、代表戦の参加者である最後の一人が、エクレトに話しかけていた。それを横目で見つつも、ルーツは前方から意識をそらさない。
「ひっ!」
「うわぁ!」
魔族のルーツ以外にも、その異常事態が目に見えた。二人の男は向かってきているが、歩いてはいない。ぶらぶらと、足を引きずらせていたのだ。
ふらふらと揺れる体に、落ち着きのない首。男たちの目はひっくり返り、真っ白。兵士の数人が悲鳴を上げた時、すでにルーツは走りだしていた。
「ヒヒ! ヒャハァ! 来いよ、ルーツ!」
二人の男の首根っこを持ち、自身の前に突き出し引きずっていた男。男は、二人を左右に投げ捨てると、声を荒げ、手招きした。
「ジョーカァァ!」
雷鳴が鳴り響いた。
……。
ぽつぽつと、雨が降り出した。雨粒が顔に当たり、ルーツは意識を取り戻す。
雨雲の動きを目で追った。方角的に、エンジさんも同じ雨に濡れたのだろうか。頭の片隅で、ルーツは思う。
時間は、それほど経過していない。背中を向けて走るジョーカーを、ルーツは目視する。門を飛び越える際、一度振り返ったジョーカーと目が合った。
ごろごろという音と共に、空が光る。そして、ルーツは思い出す。
「僕は、負けたのか」
自身に駆け寄る足音が地面を伝わる。小さく呟いたルーツの声は、誰にも聞こえていなかった。
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