第二話 雨津イザミは何者か?

「……ふう」

 少し熱めのお湯の雨を浴びながらイザミは鏡に映る自分を睥睨した。

 鏡に映るのは雨津イザミの裸体である。

 濡れそぼった黒髪に、やや釣り眼がちな目尻、肉付きは十六歳とは思えぬほど鍛え上げられており、この一〇年間、戦い続けてきた証明でもあった。

 当然だが、男の象徴もまた成長し他の追随を許さない。

「……おれは誰だ?」

 一〇年間、何度自問自答しただろう。

 雨津イザミは何者か? どこから来て、どこへ行くのか?

 六歳前の記憶がない。

 目を醒ませば、とあるショッピングモールの中にただ一人いた。

 そこが極東にある弓なりの島国と呼ばれるヒノモトと知ったのは後のこと。

 どこなのか、楽しげに人々の中を歩く中、EATRの群れが現れる。

 買い物客を無差別に襲い、生命を蹂躙している。

 気づけば手に握るのは玩具ではない緋色の大剣であった。

 子供が持つには大きすぎ、重すぎる不格好な武器だ。

 人々を助けなければ、EATRを倒さなければと、二つの囁きに誘われるようにして、逃げ惑う人々を助け、EATRを一匹残らず駆逐していた。

 当時、このショッピングモールだけでなく、世界各地にEATRは出現し、数多くの人々が犠牲となる。

 ショッピングモールには幼きミコトが祖父や両親と共に買い物に訪れており、イザミの中で二番目に古い記憶は名を尋ねられたことだ。

『ねえ、おなまえなんていうの?』

 EATRの亡骸の上に立つイザミはミコトからそう尋ねられた。

『いざみ……あまついざみ。おまこそ、だれだよ』

『わたしね、いわとみことっていうの。たすけてくれてありがとう』

 小さき子供が化け物の群れをたった一人で退治した事実にて大人たちが畏怖する中、ミコトだけはただ一人臆することなくイザミに接してきた。

「そして、おれはこの家で厄介になった」

 幼き故、保護された、が正解だった。

 右も左も分からず、己の名前は憶えていようと親を指し示す情報を一切持たない。

 身元不明者として保護され、紆余曲折あって岩戸家に住まうようになる。

「これは、なんだ?」

 イザミの手には緋色に輝く携帯端末が握られている。

 雨津イザミなる人間の個人情報が記録されていたデヴァイス。

 雨津なる字もこの端末に保存されていた故に判明したことだ。

 ただし、当人の情報だけで親を指し示す情報はなかった。

 あったのはEATRなる貪る金属のデータと対EATR兵装の基礎理論、そして設計図である。

「〈緋朝(あかとき)〉……それがこのデヴァイスの名前だが……」

 デヴァイスの裏側には漢字でしっかり〈緋朝〉と縦に刻印されている。

 気づけば手元にあった。

 イザミの力となるだけでなく、中に保存された情報は人類存続の先駆けとなる。

 世界各地に出現した金属の化け物の名がEATRであると判明しただけでなく、対抗策が保存されていた。

「人間は共通の敵で結託しようと奪い合い争い合うか……」

 この〈緋朝〉なるデヴァイス、更なる解析を行おうと、素材から中の保存されたデータまでなに一つ解明できず、一方的に開示されるデータしか入手できない。

 特に既存兵器を凌駕するEATRに唯一対抗できる兵装の基礎理論と設計図が保存されていたことから、各国の政府や機関が血眼で入手しようとしてきたほどだ。

 問題はブラックボックスの塊であり、なによりイザミ以外の操作は受け付けない。

 強固なプロテクトで守られていようと誰もが力として狙い続けた。

「性格が歪まなかったのは岩戸の爺さんたちのお陰だよな」

 シャワーを浴びながらイザミは鏡に映る己の顔にほくそ笑んだ。

 暗殺、毒殺、誘拐、不審な事故と、この一〇年間、狙われ続けたのは確かである。

 本来なら世界を敵に回していただろうが、打算も利益もなく、イザミを守ってくれている人々がいたお陰でイザミは性格を歪ませず、戦いのない日常の中でも暮らしていけた。

「特に、ミコトのお陰でだ」

「なに、呼んだ?」

「うおわっと!」

 ドア越しからするミコトの声にイザミはデヴァイスを危うく落としそうになった。

 手の平から落とした程度で、いや至近距離からライフル銃で撃たれようと傷一つつかない頑丈さを持っているため、落としても大丈夫だが、頑丈さが災いして風呂の床を壊してしまう心配があった。

「朝御飯できたよ。すぐ上がって来て」

「あ、ああ、そうする」

 声音からして先ほどの痴態に怒ってはいないようだ。

 だからイザミは――

「ミコト、さっきの詫びだけど洗濯機の中にあるおれのパンツ、嗅いでもいいぞ」

 返答はない。洗濯機をガサゴソ家探しする音すらもない。

 音はあるも、水をジャーと注ぐ音であり、不審に思ったイザミが洗面所兼脱衣所へと続くドアを開けるよりも先に外側から開かれ、冷や水を顔面に浴びせられた。

「頭冷やしなさい」

 冷徹に、冷ややかに、男の裸体を目撃していようと冷血にミコトは言った。

 視線は下腹部に移ろうとも悲鳴一つあげやしない。

 家族の裸の一つや二つで悲鳴を上げないのがミコトであるため当然であった。

「鼻先で嗤えないわ……」

 やや気落ちしたミコトの声音に次いでドアはピシャリと閉められる。

 イザミはさっぱり意味が分からなかった。

 確かなのは今日もイザミの男(マスラオ)はビンビンに元気である。

 ただ一点のみであった。


 なにに興奮しているのだろうか。

 洗面所兼脱衣所でうずくまるミコトは両頬を抑え込んで内から噴き上がる熱情をどうにか抑えこんでいた。

「い、イザくんの、ま、マスラ、オ……い、イザくんの……」

 熱は冷めず、逆に焼き付いたイザミの裸体が脳裏から離れようとしない。

 久方ぶり――記憶が正しければ一緒にお風呂に入ったのは中学に上がる直前のはずだ。

 かれこれ二年ぐらい裸体全てを見ていないわけだが二年の歳月は人を、いや男を変える。

「家族なのに、な、なんで家族の裸に、よ、欲情しないといけないのよ……」

 ミコトとイザミは血縁関係もない赤の他人である。

 それでも一〇年もの歳月は、一つ屋根の下で暮らしてきた男を異性ではなく家族と認識させている。

 いや家族と認識しなければ今もなお止めどなく溢れる熱情に身体を焼かれそうだ。

「玄関の時だって……」

 ショーツの上から顔を埋められて深呼吸をされた。

 完全な不意打ちであり、驚きの余りアッパーを入れ、イザミに悪いことをしてしまった。

 同時に異性に体臭を嗅がれた事実を思い出したことで熱情はなお暴走せんとする。

「と、とりあえず落ち着こう。うん、落ち着こう」

 今もなお噴き上がる熱情が表皮に汗を生む。

 ミコトは手探りで洗濯機の上に乗せられた布きれを手に取り額の汗を拭う。

「ふう~」

 顔回りの汗を拭いながら深呼吸を繰り返す。

 現状、持ち前の自制心がどうにか上回って熱情を抑え込んでいるも、なにかの弾みで箍が外れる危険性がある。

 万が一、箍が外れればどうなるのか、一四の小娘には想像し難い。

「と、とりあえず朝食の仕上げをしないと」

 手に持つ布きれを洗濯籠の中に放り込む。

 広い庭に戸建ての大きな家。

 現在、この家の中にいるのはミコトとイザミの二人だけだ。

 祖父はエンピツから人工衛星、果ては対EATR兵装までを謳い文句としている国際複合企業<イワト>の会長であり、社長は父親、母親は社長秘書である。

 祖母は二年前に亡くなったが、三人は病気知らず、怪我知らず相も変わらず多忙な日々を過ごしている。

 祖父の代で起業、貿易を中心に収益を重ね、父の代で世界各国に支部を置くまで成長を遂げていた。

 一抹の寂しさを感じようと他愛もないメールのやりとりは毎日欠かさずにいる。

「よしっ!」

 沈静化しつつある熱情の中、ミコトは意識を切り替える。

 日常に帰ってきたイザミに美味しい朝食を御馳走しようとキッチンへ向かうのであった。


「あれ、なんで洗濯機の上に置いていたおれのパンツが洗濯籠の中にあるんだ?」

 ちなみにボクサーパンツであり、汗が染み込む前の未着用の代物であった。

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