第4話『荻原姉妹』

 午後6時。

 俺は制服から青いデニムのジーパンとベージュのパーカーに着替え、台所で夕飯を作っていた。作っているのはビーフシチュー。帰りにスーパーに寄ったらフランスパンが安く売っていたので、今夜は本格的なシチューを作ることに決めた。

 何故、男子高校生の俺がそんなことをしているのか。

 両親が海外にいるからである。4年前、父親の海外転勤が決まり、仲睦まじい母親と一緒に転勤先であるロサンゼルスに住むことになったのだ。

 そして、俺には姉と妹がいる。姉は社会人2年目で、妹も中学に入学したばかりだ。2人ともあまり家事は得意ではないので、主に俺がすることになっている。料理に関しては趣味の域まで達しているから全然苦ではないけれども。

「ただいま、お兄ちゃん」

「おかえり、明日香」

 シチューの匂いにつられたのか、明日香あすかが帰ってくるや否や台所に直行してきた。

 爽やかな桃色のワンピースの制服が少し大きく見えることに、入学したての初々しさを感じさせる。明るい茶色のショートボブの髪の明日香によく似合っていると思う。笑顔がとても可愛らしい妹だ。

「この匂いはビーフシチューかな?」

「ああ。今日はフランスパンが安く売ってたからな」

「やったっ! 私、ビーフシチュー大好き!」

「明日香はデミグラスソースを使った料理大好きだもんな。ほら、手洗いうがいして着替えてきなさい」

「はーい!」

 明日香はとびきりの笑顔を見せて、台所を走って去っていく。

 まったく、中学生になったのに明日香は全然大人っぽくなってなくて、末っ子という雰囲気が抜けない。しかし、そうであることが兄にとっての安心感がある。

 学校では一匹狼になっているが、せめて家の中で俺の姉妹に対してはできるだけ優しく接してやりたいと思っている。

 ちなみに、明日香が通っている中学校は私立白鳥女学院中等部で、隣の金崎市にある私立の中高一貫校の女子校だ。また、姉さんはそこの常勤講師で国語を教えている。なので、姉妹で白鳥女学院に行くこともたまにある。

 あそこって結構なお金持ちの令嬢も数多く通っていると聞いた事がある。それに、難関大学への進学率も凄いらしいし。明日香が入学できたのは納得できるけれど、姉さんがそこで教鞭を執っていることに1年経った今でも信じられない時がある。

「大輔、今……あたしに対して失礼なこと思ってたでしょ」

「ね、姉さん……」

 俺のすぐ後ろに黒スーツ姿の女性、荻原美咲おぎわらみさきが立っていることに全く気づかなかった。つうか、結構ステルス技術高いな、あんた。

 俺が振り向くと、黒髪のポニーテールを揺らしながら姉さんは2、3歩下がる。

「別に何にも思ってねえよ」

「そんな冷たく言わないでよ」

 今年で24歳になる姉さんだけれど、やはり姉も何だか年齢からして幼く見えるのは気のせいだろうか。体つきとかは多分、立派な大人として通用すると思うんだけれど……こう思うのも家族であるが故のことなのだろう。

「……明日香と同じ電車で帰ってきたのか?」

「明日香がさっき帰ってきたなら、おそらくそうだと思う」

「何だよ、他人事みたいに言って。何かあったのか?」

「いや? ただ……大輔と明日香にお土産を帰ってきたの。苺のタルト」

 俺はテーブルに置かれているスイーツ店の白い箱を見つけると、ごくっ、と生唾を1つ飲む。

「タルト……」

「好きでしょ? こういう甘いやつ」

「……ま、まあな」

実は俺、甘いものには目がない。料理以上にスイーツを作ることにハマっている。

 苺のタルトか。もう今は苺の旬の時期ではないけれど、収穫は普通にできる時期だからな……まだまだ美味しい苺はスーパーで並んでいると思う。今後の休みにでも、苺を使った新作スイーツでも作ってみようか。

「夕食のデザートにでも食べてよ」

「……ああ。でも、どうして急に……」

「新作だって紹介されたし、まあ……明日香の入学祝いと大輔の進級祝いに買ってもいいかなって思ったんだよ。あ、あたしも社会人なんだから弟と妹にケーキを買ってやれるくらいのお金は持ってるって」

 普通にまともな理由だった。何か企んでいるのかと思ったけれど、それは俺の過剰な思い込みだったわけか。

「ありがとう、姉さん。明日香も喜ぶだろうし」

「……べ、別に大輔に褒められたくて買ったわけじゃないんだから」

「はいはい、分かってるよ。じゃあ、冷蔵庫に入れておくから」

 まったく、どうして顔を赤くしているんだか。

 俺は苺のタルトの入っている箱を冷蔵庫の中に入れ、再び調理場の前に立つ。

「今日の夜はビーフシチューなの? 大好きだから嬉しいけど」

「……明日香と同じこと言うんだな」

「だって、好きなものは好きだもん。それに、大輔の作る夕飯は美味しいし」

「そうかい」

 姉妹であるからか料理の好みも似ているようで。2人の好きな料理を中心に毎晩のメニューを考えているけど、本当に嗜好が重なっていると楽だよ。明日香も嫌いな食べ物があまりないし、本当に有難いことだ。

 俺が小学生の時ぐらいまでは、隣に住んでいる由衣の家族と、休日にお互いの家へ行って夕飯を食べたり、外食へ行ったりしたものだ。まあ、両親の海外移住や姉さんが忙しくなった影響で、今はもうそのようなことはほとんどなくなった。たまに近所でお互いに作りすぎたおかずをお裾分けするくらいだろうか。

「1年の大半の食事を作ってりゃ、嫌でも上手くなっちまうんだよ。明日香はけっこう手伝ってくれるけど、姉さんはただ食うだけだからな……」

「だ、だって……仕事で忙しいんだからしょうがないじゃない」

 ごもっともな理由である。

 日本でこうした一軒家に住んでいられるのは姉さんのおかげ、という部分もあるし文句は言わないでおこう。それに、今は立派に生徒を教育している人間なんだし。

「まあ、気にするな。ほら、もうそろそろ出来上がるから姉さんも着替えてこいよ。それと、明日香にももうすぐ飯ができるから下りてこいって伝えてくれ」

「もう立派な母親ね、大輔は」

「……くだらないことを言ってないでさっさと着替えろ」

 まったく、姉さんも休日だけでも家事を手伝って欲しい。

 再び台所には俺1人となり、俺は最後の仕上げと盛り付けに取り掛かる。小皿に一口ほどのシチューのルーを取り、それを口に運ぶ。

「うん。我ながらよくできているな」

 脂がよく乗っている牛肉が安くて買ったんだけれど、それも大正解だったようだ。牛肉の脂の甘味が野菜の酸味と上手く溶け合っている。

「お兄ちゃん、何か手伝えることはない?」

 後ろからそんな明日香の声が聞こえたので、

「じゃあ、配膳をしてくれ。シチューとスープだからスプーンをそれぞれ2種類置いてくれるか? あと、パンを置くための……」

「大丈夫だって。私に任せて」

「……じゃあ、明日香に頼もうかな」

 俺は後ろを振り返ると、リビングのテーブルに一生懸命に配膳をしている明日香の姿が見える。頼もしい妹に成長してくれて、兄として誇らしい。

 明日香は膝よりも少し短いくらいのブラウンのスカートに、可愛らしいロゴのピンクの英字がプリントされている白いTシャツを着ていた。

 しかし……配膳をするために屈むと、スカートの中が見えそうになったり、違うところで屈まれるとTシャツの中の胸元が見えてしまったりする事態に。それに、白いTシャツだと水色の下着が透けてしまっている……って、これじゃ変態と変わりないぞ。妹だし、別に女のそういうことにあんまり興味はないのでいかがわしい気は起こさないけど。

「お兄ちゃん、配膳終わったよ」

「お、おう。ありがとう」

 やばい。そんなことを考えているうちに、俺は何にもしないで明日香の仕事だけが終わってしまった。

「他に何か手伝えることはある?」

 俺の隣に立った明日香は上目遣いをして訊いてくる。

「……よし、シチューもできたし3人分よそってもらおうかな。俺がフランスパンを切るからさ」

「うん、分かった」

 中学生の妹に固いフランスパンを切らせるわけにはいくまい。安いフランスパンだからなのか分からないけれど、1メートルほどの長いフランスパンが切り分けられずに売られていた。切るには力も必要だし、ここは男である俺がやらないと話しにならん。

「ここは1つやってみるか」

 俺はパーカーの袖を肘くらいまでまくり、包丁を取り出す。直径10センチほどのフランスパンをまな板の上に置き、早速切り分けに取り掛かる。

「さすがにしぶといな……」

 普通に物を切るというスタイルでは切ることのできる相手ではないらしい。

「頑張って! お兄ちゃん!」

 妹と言う名の観客からそんなエールが送られる。自然と力が湧き出てくる。

 俺は右の手のひらを包丁の峰に当て、様子を見ながら徐々に体重をかけていく。

 そうすると、少しずつではあるけれど、包丁の刃がフランスパンを切り込み。一瞬であるが強く押すと切り分けることに成功した。今と同じように、最終的には10個ほどに切り分けた。

「じゃあ、料理を運ぼう。あと、明日香は姉さんを呼んできてくれ」

「うん!」

 本当に素直で可愛い妹だ。

 両親が海外に移住したとき、明日香は小学校低学年。幼い明日香を大学に通っていた姉さんと、中学校に入学したばかりの俺が協力して何とか育ててきた。

 俺がウルフと呼ばれるきっかけとなった件があった後でも、家族だけには絶対に迷惑をかけたくないという思いがあった。それを信条に育てたおかげか、中学生になっても明日香の明るい性格が変わることはなく、友達もたくさんできたらしい。俺に似ず、姉さんに似てくれて本当に良かったと思っている。

 多分、兄弟が俺だけだったらそうはならなかったと思う。姉さんがいるから、明日香はここまで良い妹に育った気がする。

「……明日香」

 リビングを出て行こうとする明日香を引き止める。

「どうしたの? お兄ちゃん」

「いや、ただ……毎日学校は楽しいかって思って」

 俺がそのようなことを訊くと、何でそんなことを訊くんだろうと言いたげに明日香は不思議そうな表情をした。しかし、それは一瞬ですぐに笑顔になって、

「楽しいよ。友達もたくさんできたし」

 はっきりとした声でそう言ってくれた。

「……そうか」

「それに、お姉ちゃんが教えている中学校に通えるなんて夢みたいだったし、白鳥女学院は憧れていた中学校だったから。通えることが嬉しいの。お兄ちゃんとお姉ちゃんには本当に感謝してるよ」

 明日香は照れているのか、頬を赤くしながら笑みを浮かべている。

「それは明日香の努力の賜物だと思うぞ。姉さんは一生懸命働いて、俺なんか毎日飯を作ることしかしてねえって」

 白鳥女学院は偏差値のかなり高い私立の一貫校だからな。模試を受けても最初こそあまり良くない判定だったが、受験直前には合格圏内に入っていた。誰に似て努力家になったんだか。

「そういえば、今週の土曜日に授業参観があるの。来てくれる?」

「先週ぐらいにそんな手紙があったな。今週の土曜か。確か休みだった気がするけれど……俺が行っても大丈夫か?」

 何せ、今でさえ学校ではウルフと恐れられている人間だし。白鳥女学院は高等部もあるから俺のことを知っている女子もいると思う。俺が行くと悪い意味で騒ぎになるんじゃないかと不安になる。

 しかし、明日香は笑顔を絶やさずに、

「心配はしなくていいと思うよ。むしろ、かっこいいお兄ちゃんが来てくれると私が嬉しいっていうか。それに、家には他に行ける人がいないし」

「そりゃそうだ」

 何せ、姉さんは明日香の学校で教鞭を執っているわけだし。両親も海外にいるから授業参観に行けるこの家の人間は自動的に俺だけになる。

「由衣ちゃんと一緒でも良いから!」

「別に誰かと一緒じゃなきゃ行けないとか、そんなことねえよ」

 まあいいか。白鳥女学院は金崎市にある学校だし、俺のことを知らない人が多いということを信じるとするか。

「分かった。じゃあ、土曜日は白鳥女学院に行く」

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 明日香はとても嬉しそうだった。

 そういえば、明日香の授業参観は……多分、両親が海外に住み始めてから誰も行っていない気がする。姉さんは大学の方で忙しかっただろうし、俺も個人的な理由で行くことができなかったし。それを考えれば、今回行くのは良いかもしれない。妹の通う学校がどんなところかを実際に目にするも大切だろうし。それに、

「姉さんの教師としての姿も見てみたいしな……」

「そうかぁ。じゃあ、お姉ちゃんの授業参観もできるんだね」

「……確かに、言われてみればそうだ」

 姉さんは一番年上だけれど、家では自己中心的なところがある。そんな姉さんが職場でどんな感じなのか見てみるのも面白いかもしれない。

「……おっと、早くしないとシチューとスープが冷めちまうな。呼び止めてごめん。姉さんを呼んできてくれ」

「うん」

 明日香が姉さんを呼び、白いワイシャツはそのままで灰色のデニム地のスカートを穿いた姉さんが登場したところで3人で夕飯を食べる。

 姉さんが大学に通っている頃は、俺と明日香の2人で夕飯を食べることも多かった。しかし、白鳥女学院へ就職をすると、それまでとは逆に決まった時間に姉さんが帰ってくることが多くなって、3人で夕飯を食べることも多くなった。まあ、どちらにせよ俺が作るというのは変わりないが。

 ちなみに、食卓では姉さんと明日香が隣同士で座り、俺が向かい側で1人広々と座るという構図となっている。

 さて。今夜のメニューはフランスパン、ビーフシチュー、コンソメ風味の野菜スープ。たまには洋風にするのもいいだろう。

 姉さんと明日香の好きな料理なので、2人は満足そうに残さずに食べてくれた。料理を作った身として、これ以上に嬉しいことはない。

 後片付けは姉さんと明日香がした。しかし、今日は珍しいことに姉さんから率先して皿洗いをした。明日は雪が降るんじゃないか? まあ、普段俺がしていることを代わりにしてくれているのだから何も言わないけれど。

 さてと、俺は苺タルトを食べる準備をしましょうか。

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