君と紫陽花の咲く頃に

六畳ヒトマ

バンダナ

「ロイヤルミルクティーと苺のタルトですね。630円になります。店内でお召し上がりでしょうか?」

 永太はいつもの様に穏やかな笑顔で、小気味良くレジスターのキーを叩きながら言った。そしてすぐに、その日何杯目か分からないミルクティーの準備に取り掛かった。考えるよりも先に手が動く。動かしながら、永太は無意識に店内の様子を確認した。

 木曜日の午後4時。少しずつ陽の傾きはじめた時間帯にあって、30席ほど用意された店内は客もまばらだった。オフィス街の中心にあり、尚且つ近くに大学が位置しているこの喫茶店にとって、1週間で最も穏やかな時間帯と言えるかもしれない。

 喫茶店の真向かいには、ベーカリーカフェが店を出していた。本場フランス仕込みのパンと、和風テイストを丁寧に組み合わせた商品が人気の店で、このフロアの30席は、永太の働く喫茶店とこのベーカリーカフェで共有している。昼下がりのこの時間、向かいのレジカウンターも店員は一人で、喫茶店と同様につかの間の休息時間のようであった。

 永太の意識は手元に戻る。ショーケースの扉を素早く開け、ブレッドトングで苺のタルトを掴んだ。静かにタルトをプレートに載せると、既にミルクティーを用意していたトレイに置いて、レジへと運んだ。動きは素早く、無理が無かった。永太にとってはこの数ヶ月何度も繰り返し行ない、ようやく板についてきた動作である。

「お待たせいたしました」

 レジの横で待ち構えていた女子大生が、苺のタルトを見てわずかに表情を綻ばせた。その表情を見て、永太の顔も綻ぶ。

 アルバイトと言えど、永太は最近始めたこの仕事にやり甲斐を感じていた。忙しない都会の一角にあって、この空間だけは穏やかな時間が流れていた。永太にとっては、ガラスウィンドウの向こうに見える車と人との激しい往来さえも、この空間に身を置いているだけで不思議と愛おしささえ感じられたのである。

 しかし、永太がこの仕事にやり甲斐を感じる理由は、それだけでは無かった。

 時計が5時を回ると、店内もにわかに慌ただしくなってきた。仕事や学校帰りの客が増加する時間帯である。この時間帯は夕勤帯のアルバイトも加わってレジ内も活気づいてくる。永太も気を引き締めて仕事に集中していた。

「明太フランスパン4つをお持ち帰りで。かしこまりました。少々お待ちください」

 黙々と仕事に励んでいた永太の耳に、ふと聞き慣れた声が飛び込んできた。

 咄嗟に永太は手を止め、向かいのレジカウンターに目をやった。すると、カウンターの中で忙しく動き回っている一人の女の子が目に入った。整った目鼻立ちに、すっきりした顔の輪郭が綺麗な女の子だった。頭髪を覆っているベージュのバンダナと、そこから伸びるセミロングの茶髪が印象的で、ブルーのストライプが入ったシャツと淡いピンク色のエプロンがとてもよく似合っていた。

 美咲さんだ。永太はそう心の中で喜ぶと、すぐに目の前の仕事に戻った。しかし、それ以降、永太の意識は度々向かいのカウンターに向いた。

 美咲は、よく通る声でテキパキと仕事をしていた。今夜は店の中でも彼女が一番の経験者のようで、後輩達に対していつも以上に指示を出していた。後輩の女の子たちも、美咲に頻繁に声をかけている。永太が美咲の名前を知ったのは、こうした店員同士のやり取りからだった。誰と話すときも笑顔を忘れない彼女の顔は、今日は一段と綻んでいるようだった。

 美咲の笑顔が目に留まるようになったのは、三ヶ月ほど前からだった。今年の春から地元を出て近くの大学に通い始めた永太は、ふと入ったこの店で彼女と出会った。新しい土地での慣れない大学生活に大きなストレスを感じていた永太にとって、美咲の笑顔は一際大きく輝いて見えた。それからと言うものの、永太はこの店に通うようになり、彼女の笑顔を見るのが日課となり、元々アルバイトを探していた事もあって、いつの間にか向かいの喫茶店の求人に応募するまでになっていた。

 7時前になると、店は一番の賑わいとなる。帰宅する際に立ち寄った客と、これから街に向かう客とが重なるのである。この時間帯は、レジの前に常時5人ほど客が並ぶようになる。永太は客を捌こうと急いで応対するが、その動きは昼間のそれとは異なり、どことなくぎこちなかった。慣れてきたとは言っても、まだ二ヶ月である。何人もの客の列を見ると焦りが生まれ、昼間のようにスムースには行かなくなってしまう。

「長谷川。ちょっとあそこの4人に席をあてがって来てくれるか?」

 そんな時、1つ上の先輩が永太に声を掛けた。客席の隅を見ると、女子学生とおぼしき4人が席を探している様子で立っていた。店内は多くの客で賑わっており、4人が座れる席が無かったが、丸テーブルが1つ空いており、椅子を2つ追加すれば4人が座れそうだった。延々と続くレジ業務に少し嫌気の差していた永太は、二つ返事で了解し、カウンターからホールに出た。

「今、席をお出ししますね。こちらへどうぞ」

 永太は4人に声をかけ、椅子を運び、テーブルを拭いて席を用意した。途中、向かいのカウンターで客の応対をしている美咲が目に入った。ベーカリーカフェの方も、喫茶店と同様に、数人の客がレジの前で列を成していたが、美咲はいつもの笑顔を崩す事無く仕事を続けていた。気持よく仕事をする美咲を見ていると、永太は尊敬にも似た感情を抱き、同時に少し元気になった。

 その時、突然美咲が永太の方を見た。それはとても自然な動作だった。永太は既にしばらく美咲に見とれていた。

 つまる所、二人は完全に目が合った。

 ベーカリーでパンを購入する時でさえ、恥ずかしてく目の合わせられない永太である。永太は驚いて反射的に目を背けようとした。そんな永太の気持ちを知る事も無く、美咲は笑顔で口を開いた。

「ありがとうございます」

 それは、店内の喧騒で掻き消されてしまうほどの声量だった。それでも、永太の耳にはこれ以上無いほどはっきりと届いた。

 一瞬、永太には何が起こったのか分からなかった。そして、その声が自分に向けられた声なのかどうか分からず、どうして良いのか不安になった。中途半端に目を背けようとしていたので、傍から見ると永太は酷く怪しい姿勢のままで固まっていた。そんな永太を見て、美咲は軽く吹き出した。

「席を出してもらって、ありがとうございます」

 美咲の声に、ようやく状況を理解した永太は、怪しい姿勢を正してぎこちなく美咲に会釈した。

「いや、そんな、大丈夫です」

 何が大丈夫なのかと、永太は思わず口に出た言葉の馬鹿さ加減を呪ったが、次の瞬間にはもう美咲はレジの仕事に戻っていた。

 数秒、呆けたようにその場に立ち尽くしていた永太だったが、喫茶店のレジに並ぶ客の姿が視界に入って、急いでカウンターに戻った。レジ業務に戻りながら今起きた事を思い返してみると、永太は恥ずかしくて再度自分の馬鹿さ加減を呪った。自分の事が美咲にどのように写ったのかを想像するだけで、この場から逃げ出したい気分だった。

 その日、結果的に仕事は大きなミスも無く終った。しかし、いつもなら達成感に浸るはずの時間も、永太にとっては酷く憂鬱だった。店内を掃除しながら、数時間前に自分が用意した席を見つめ、永太は深々とため息をついた。

 永太はふとベーカリーカフェの方をみやった。バックルームから物音が聞こえる。どうやら美咲が片付けをしているようだった。その姿を想像するだけで、永太は胸が苦しくなった。

 胸が苦しくなるほど美咲を考えている事に気づいて、永太は自分が馬鹿馬鹿しくなった。美咲の笑顔を見て喜び、緊張して話せない自分に落ち込む。そんな風に気持ちがすぐに変化してしまう自分が嫌だった。こんな弱々しく浮ついた自分を一体誰が好きになると言うのか。

 美咲の事を頭から追いやって、永太は掃除に打ち込んだ。モップの柄を握る手に自然と力が入る。愚かな自分を戒めるように、永太は黙々と作業を続けた。

 その時だった。

「今日はどうもありがとうございました」

 背後から聞こえた声に、永太は驚いて振り返った。美咲だった。

「最近、リヌテートでバイト始めた人ですよね。初めまして、遠藤美咲です」

 美咲の笑顔が目の前にあった。永太の心臓が早鐘を打つ。けれど、なんとか今度は言葉を紡ぐ事が出来た。

「……こちらこそ今日はどうもありがとうございました。初めまして、長谷川永太です」

「さっきはすみません。突然声をかけちゃって、びっくりしましたよね」

「いや、そんな。こちらこそ、訳も分からずすみません」

 互いに頭を下げ合う要領を得ない会話だった。永太は、こうして同じ目線で美咲を見るのは初めてである事を思い出した。美咲の身長は永太よりもずっと低く、その目線は永太の胸元の辺りだった。カウンターの中で活き活きと働く美咲は、永太の目にはとても大きな存在に写ったが、こうして向い合ってみると、背丈だけでなく、首筋は細く、肩はとても小さかった。それは美咲が一人の女性であるという事を強く意識させ、一層永太の胸を苦しめた。

「いえ、良いんです。ここって2つのお店が向かい合ってて不思議な所じゃないですか。でもお客さんは一緒でしょ?だから、お互いに協力出来たら素敵だなって。いつも思ってるんです」

 美咲は店内を見回しながら、穏やかな表情で言った。

「トランキルで仕事してると、リヌテートのカウンターが見えるじゃないですか。あぁ、あっちも頑張ってるなあ、こっちも頑張らなくちゃなあって思うんです。そして本当だったら競合するはずの2つのお店が、そうやって頑張って、間にいるお客さんが笑顔になったら、素敵だなあって」

 美咲はそう言って目を細めた。永太は美咲を見つめていた。美咲の笑顔がただただ愛おしかった。

 すると美咲は怪訝そうに永太を見て、少し不安そうな顔をした。

「すいません。なんか突然変な事言っちゃって」

「いえ、全然そんな事無いですよ。とても素敵です。本当に」

「そうですか?あんまり理解してもらえないんですよ。ここが好きなんだねって言われるだけで」

「僕もここが好きなんです。とても穏やかで、周囲とは流れる時間が違うって言うのか、よく説明出来ないんですけど、ウィンドウから差し込む夕日とか見てると、それだけで幸せな気持ちになるんです」

 永太が素直な気持ちを打ち明けると、美咲の表情が明るくなった。

「驚きました。私よりここが好きな人がいたなんて」

 美咲が笑顔で言った。永太も笑顔になった。

「美咲さんほどじゃないですよ」

「そんな事言って、絶対私より好きですよ」

 美咲の言う事はあながち嘘ではないと永太は思った。曖昧だった永太の感情はこの日確信に変わっていた。永太は美咲の事が好きなのだ。そして美咲がいるこの場所が好きなのだ。その気持ちはきっと美咲よりも強い。

「そう言えば、その襟のバンダナ、可愛いですね」

 少しの間談笑を続けていると、ふと美咲が言った。

「え?」

 一瞬何を言われたのか分からず、永太は自分の首元に目をやった。喫茶リヌテート専用の黒いポロシャツの襟に、黄色いバンダナが結ばれていた。それは2週間ほど前、古参のパートの女性に新人の目印として、冗談交じりにつけられたものだった。

「いや、これは……」

「永太さんのアレンジなんですよね。すごく似合ってる」

「そうですかね」

 美咲の勘違いに内心で苦笑しながら、永太はまんざらでもない気持ちになった。心の中でパートの女性に感謝したのは言うまでも無い。

「そのバンダナが目に留まって、前々から話してみたいなって思ってたんです」

「そうだったんですか!」

 永太は驚き、美咲を見つめた。

「僕も美咲さんのバンダナ、とても似合っていると思いますよ」

 永太は、その日一番の笑顔で言った。


―Fin―

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