第10話「誘惑」

第十話「誘惑」


ーーーアンタ、、、今日、暇っ? いや、ヒマだろ?


ーーー、、、はぁっ?


 橙子は小野田のに身構えていたのだが、予期せぬ言葉に反応が遅れた。


ーーーいや、折角だし、付き合ってよ、今日一日。


小野田がまた「良縁縁結」の案内書きを顎で指している。


ーーー付き合えば、なんか良いことあんの?

 橙子も健斗のノリに合わせる。

ーーーさぁー、それは、、、、かな?


 健斗の自分を見る目が男のそれと分かっても、橙子に迷いはなかった。ここで一気に小野田健斗に近づかねば、もうチャンスは無いと踏んだのだ。


ーーーいいわ、きっちりさせてもらうわ

ーーーほぉー、良い度胸だ。


小野田は、取り敢えず此処の喧騒から逃れたくて、先に立って歩いた。途中タクシーを拾い橙子を先に乗せ、「出町柳でまちやなぎ」と運転手に告げた。


ーーー腹減ったなぁ、飯食うぞ。なんかあるか?

ーーーいいえ、なぁーんでも大丈夫。以外はね、、、

 橙子はそう言って笑った。

小野田は、携帯電話でどこかに予約を入れている。その鋭角な横顔はアニメの主人公のように涼しい。


「出町柳」は洛北から来る「賀茂川」と「高野川」が合流し一本となって「鴨川」となる地点で八瀬や鞍馬へゆく「叡山電車」の始発駅がある。

 その賀茂川沿いでタクシーを降り、少し歩いて背高な土塀に囲まれた京懐石の店に入った。入り口から中の三和土たたきまで敷かれた飛び石にはがされていて、日本の「おもてなし」を垣間見た気分だった。

 健斗は個室を予約していることと個人名を一緒に告げると、品の良い仲居が奥の個室へと案内してくれた


ーーーアンタには、肉が良かったかな? っぽいもんなアンタ


 健斗は橙子のガラスの猪口に冷酒を注ぎながら意味深な笑みで言った。


ーーーああぁー、好きよ、肉。でも、たまにはこんな素敵な京懐石みいいわね

 彩り豊かな京懐石を目で愉しみながら、松茸の「土瓶蒸し」に箸を進めた。


 冷酒の酔いが少し回ってきたのか、橙子は火照る顔を冷ますために手洗いに立った。トイレの鏡に自分の姿を写し化粧を直しながら、こういう所作は何年ぶりだろうかと、ルージュを引き直し上と下の唇でなじませながら苦い笑いをこぼした。


 食事を済ませると、小野田は橙子を連れ賀茂川の遊歩道に降りた。


此処ら辺りまで来ると鴨川の姿も下流の四条あたりのもと違って水の流れも少し急になっていたり川面の水草も野生じみていて、こっちのほうが風情があって好きなんだーーーなどと、健斗は一人で喋っている。


ーーー(どういうつもりなの?このひと、、、無防備すぎる)


 橙子は先を歩く小野田の背を逆光で眩しいのか細い目で見ていた。


ーーーねぇー、ワタシ、書くよ?、、、アンタの秘密

橙子はを引くようにその背に問いかける。


小野田はゆっくり振り返って「左大文字」の焼き痕残る「大北山」の山肌に目をやって静かに応えた


ーーーいいよぉー、どうぞお好きに。

 小野田は遊歩道の石のベンチに腰を降ろし煙草に火を点けた。

ーーーそんなことより、アンタのもっと知りたいなー

 金木犀の香りを川面の風が運んで来る。橙子の長い髪がパラパラと靡いて、ゆっくりした時間が過ぎていく。

ーーーあなたにとっては大した秘密じゃなくなった、ってわけね?

 健斗はひと息煙草の紫煙を吐いて応えた 

ーーー今日、父親オヤジを認めて来たんだよ。これからは、岩田耕三の息子として生きてやるよ。

 橙子はカメラ越しに見た健斗の男泣きを思い出し、胸がチクリと傷んだ。

 

ーーーで、何が知りたいの?ワタシの

ーーーあぁーー、とりあえず、、、の寝顔か、、、な

 橙子、じゃなくだった 

ーーーふっ、、、クサっ、テカテカ顔のおっさんか?

ーーーおっさん、じゃないオトコはどう言うんだ?

橙子は健斗の指から煙草を掠め取り、大きく吸い込んで紫煙を健斗に吹きかけ答える。


ーーーや・ら・せ・ろ だろ。、、、、、らせないけど


 健斗が白い歯を見せて笑っている。

 橙子は楽しかった。

                 (第十話ー了)



  

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