第8話「別離」

第八話「別離」


「嵯峨野」ーーー京都市右京区、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域で京都でも有数の観光スポットである。

 そこに「落柿舎」という草庵があるが、小野田健斗の実父、岩田耕三はその近くの茅葺かやぶき屋根の古い一軒家で余生を隠遁していた。


健斗は一晩眠れぬまま考えた末に、「嵯峨野」に行くことを決心した。日曜日のそこは観光客で溢れることだろうと、朝早くタクシーに乗り込んだ。


朝露に濡れる「嵯峨野」の竹林を、ゆっくり時間をかけ通り抜け「落柿舎」辺りまで出て来た。

 小野田は、古い木戸を潜り薄暗い玄関に足を踏み入れた。まもなく、初老の女が割烹着のまま出て来て小野田の顔を一瞥しただけで何も言わず奥に案内してくれた。

 客間らしい部屋が病院の病室のように改造されていて、重厚なベッドが設えられている。そこには痩せ細った老人が身体をにして横たわっていた。


ーーー小野田の、坊ちゃんですね?


 その初老の女は待ちわびていたと言わんばかりの目で健斗にベッド脇の椅子を勧めた。客間の隣には四畳半程度の部屋があってそこには看護師らしき女性が一人控えていた。


ーーーもう、ずっと、、、こんな具合なんですか?


目の前の老人の今にも止まりそうな浅い呼吸のリズムを数えながら、その初老の女に尋ねた。

 骨が浮き出た腕に繋がった一本の点滴チューブが、この老人の命をかろうじて繋いでるのだと悟る。


ーーー( これが、あの三代目「共生会」会長の末路なのか、、、)


 命のはかなさと言うより、は、誰にも訪れるという人間の「宿命」を突き付けられたようで、昨晩の自分の葛藤が何とも無意味なものだったと感じた。


ーーーどちら様ですかな?


 その野太くしっかりした声音は岩田耕三のものだった。老人は鋭い眼光を健斗に向け明らかにの意思表示をしている。


ーーー小野田の、、、坊ちゃんですよ、旦那さまっ

 

 初老の女の諌めるような声をさらに声音を太くして遮り、言葉を繋いだ


ーーー知らんな。お帰り願おうか、、、


 健斗は耕三のその言葉に嫌悪と怒りすら感じたのだが、老人の目がしっかり健斗を見据え、そこに微かに光るものを見つけると慌ただしく胸の奥が軋んだ。


 母親の希和子から、岩田耕三が自分が本当の父親であることを頑として隠し通そうとしたのは、我が子の行く末にヤクザの親分が父親であるという事実が生み出す数々の危難を恐れたからだと諭されたが、それでも釈然とせず、その男を認める気には到底成らないでいた。


 次第に見つめる老人の顔が滲み、無意識に老人の手を探していた。大きな手であったが、すでに肉は削ぎ落ちて心細い骨だけを握っているようで、怖くて強く握れなかった。

 老人の目尻からに満ちた一雫が頬を伝い落ちた。健斗もまた嗚咽を押し殺し何度も頷いては老人の手を握り返した。


ーーー帰れ、、、もう、、、


 最後まで自分を我が子と認めようとしない耕三に、健斗も別れを告げた。


ーーー親父オヤジっ、、、


 初めて、そう呼んだ。


    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 屋敷裏の田んぼの稲穂が黄金色に輝いて爽やかな秋の風に揺れている。

 カメラのフェンダー越しに小野田健斗の無様な男泣きを垣間見て、シャッターを切る指が止まった。

 仲秋の風が切なく橙子の頬を撫で通り過ぎた。


                    (第八話ー了)


 


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