第5章 強固な意志をもつ

 ハル侯爵は、暗闇の中をさすらっていた。


 どうしてこうなったのかわからない。気づいたときにはこうだった。


 どうしよう?


 ハル侯爵は不安だが、どうにもならない。


 とにかく歩こう。


 ハル侯爵は手さぐりしながら歩き続けた。


「おい。ハル」


 懐かしい声がした。


「兄上?」


 ハル侯爵はびっくりしつつも、嬉しさがこみあげてくる。


「久しぶりだな」


「生きていらしたのですか!?」


 ハル侯爵の声は、はずんでいた。


「当たり前だろ。オレは不死身だ。ははは」


「よかった……」


 知らず涙が流れてくる。


「おまえもよくがんばったな。あとは任せろ」


「はい!」


 ハル侯爵は気持ちが楽になっていく。心が重圧から解放され、軽やかになっていく。


 兄上がいれば大丈夫だ。


 全身を安心感が包みこみ、不安は消え、暗闇も明るくなっていく。


 目の前には、ぼんやりと人影が浮かんできた。


 死に別れたはずの兄がいる。もう大丈夫だ。


 と思ったら、サクヤだった。


「おまえの思うままにすればよいのだ」


 サクヤは満面の笑みで言った。


 目覚めると、ハル侯爵の枕は涙で濡れていた。


「夢、か……」


 軽やかな気分もいつのまにか消えていた。あいかわらず胸がもやもやする。不安感につぶされそうだ。


 こんなとき、だれかに側にいてほしい。


 だけど、ケイオス将軍は、侯国軍の立て直しのため奔走している。たまに宮殿に報告に来るくらいで、ほとんど首都を留守にしていた。


 スピオン宰相はと言えば、ファラム侯国を支援してくれる国を求めて、各国の大使と交渉中だ。見るからに多忙をきわめているので、雑談につきあわせるわけにはいかない。


 他に気がおけない者はいないか?


「結局、ひとり、か……」


 まだ外は暗い。とにかく寝よう。――でも、眠れない。


 そうこうしているうちに外も明るくなってきた。


 散歩でもして、気を紛らそう。


 サクヤ殿はいるかな。


 ◇ ◇ ◇


 ハル侯爵は、重臣会議にサクヤを連れてきた。


 重臣会議は、ファラム侯国の最高意思決定機関だ。ハル侯爵が必要に応じて招集する。


 ハル侯爵を議長とし、文官代表としてスピオン宰相が、武官代表としてケイオス将軍が出席する。出席者が少数に限られているのは、情報漏洩ろうえいを防ぐためだ。


 だから、スピオン宰相は、サクヤの出席に反対だった。


「どこの馬の骨かもわからぬ人間を出席させるなど、情報セキュリティー上、問題があります」


「よいではないか」


 ケイオス将軍はたしなめるような口ぶりで言った。


「今は緊急時だ。細かいことにこだわるな。“鬼神”の意見を聞いてみれば、新たな発見があるやもしれぬではないか」


「はい?」


 スピオン宰相は、あきれて見せる。


「わが侯国は滅亡寸前なのですよ。共和国のスパイだったら、どうするのですか? 取り返しがつかないことになりますよ。国が滅んだら、おしまいです」


「あいかわらずケツの穴が小さいことよ」


「なんですと?」


 スピオン宰相はケイオス将軍をにらみつけた。


 ケイオス将軍は「売られたケンカを買ってやる」と言わんばかりに腕まくりをしながら、険しい表情で身を乗り出して見せる。


 一触即発だ。


「滅びないから安心しろ」


 そう割って入ったのは、サクヤだった。


「どういうことか?」


 ハル侯爵がサクヤに問いかけると、スピオン宰相は気をとりなおしてにらむのをやめ、ケイオス将軍も引き下がった。


 サクヤはかわいらしいドヤ顔で、自信たっぷりに語る。


「わたしは、このように聞いている。強くて固ければ、傾かないし、落ちないし、滅びないし、死なない、と」


「ん?」と、ケイオス将軍はサクヤを一瞥いちべつした。


「なるほど」


 そう反応したのは、スピオン宰相だ。


「サクヤ殿は今、よいことを言われました。共和国の力は強く、その守りは固いと言えましょう。すなわち共和国と戦っても勝ち目はありません。やはり降伏が得策かと。そうすれば、わが侯国も滅びずにすむでしょう」


「そう、なのか?」


 ハル侯爵は、不安げにサクヤを見た。


「そうではない」


「な?」


 スピオン宰相は、顔をひきつらせた。


 この小僧は、わたくしの意見を全否定するのか。下郎の分際で、なんと生意気な。実に身のほど知らずで、実に忌々いまいましい。


 スピオン宰相は高圧的にサクヤをにらみつけるが、サクヤは少しも気にしていない。


「すべては侯爵の心がけ次第ということだ。強く決意し、固い意志があれば、侯国は守られる」


「この期に及んで精神論とは、青くさいことを言う。話になりませんな」


 スピオン宰相は、さげすむような目をサクヤに向けながら首をふる。


 サクヤのことを興味津々に見ていたケイオス将軍は、おもむろにハル侯爵に顔を向け、口を開いた。


「これからの戦いは、チキンレースとなりましょう」


 ケイオス将軍の分析は、こうだ。


 共和国の西部方面軍は、と言うか司令官のオルム大佐は今、弱い立場にある。


 あれだけの大軍を与えられながら、最初の一撃で侯国軍を殲滅せんめつできなかった。それどころか将兵が「鬼神がこわい」とかで戦意を喪失し、兵を引かざるをえなくなっている。


 迷信を否定する共和国の常識からして、あってはならない退却理由だ。


「おそらく粛清ものであり、オルム大佐はあせっているはずです。ですが、急いては事を仕損じると申します。あせれば思わぬ失敗をしでかすもの」


 ケイオス将軍は、真顔でハル侯爵の目を見た。


「わが侯国も防衛力がズタボロゆえ、侯爵閣下もあせってしまわれるやもしれません。ですが先にあせったほうが負けます。どちらがどこまでやせ我慢できるか? このチキンレースに勝ったものこそが勝者となりましょう」


「つまりボクがしっかりしていれば、わが侯国を、わが領民を守れるということか?」


「さようでございます」


 ケイオス将軍は胸を張り、力強くうなずいた。そして、サクヤのほうを向く。


「だな?」


「おそらく将軍の言うことが、わたしの言いたいことに近い」


 そしてサクヤは語った。


 かつて国を滅ぼされたヤマナカ・シカノスケは、国を再興するため不撓不屈ふとうふくつの精神で戦い続ける。


 そして、ついに国の再興を成し遂げた。


 ハル侯爵は、サクヤの話を聞いているうちに勇気がわいてきた。


「その後、シカノスケとやらは、どうなった? きっと幸せな余生を送ったのであろうな」


「また国を滅ぼされ、死んだと聞いている」


「はい?」


 ハル侯爵は、思わず目を丸くした。ケイオス将軍も同じだ。


<死んだらダメだろ。もっとハッピーエンドなエピソードはないのかよ>


 フソウは思わずツッコミを入れたくなった。


「ふん、死んで花実が咲くものか」


 スピオン宰相は、鼻で笑った。


「貴殿は、わが侯国が、わが侯爵閣下が死んでもよいと言うのだな。まあ、よそ者の貴殿にとっては、わが侯国がどうなろうと知ったことではなかろうが」


 スピオン宰相はイヤミたっぷりだ。


 しかし、やはりサクヤは少しも気にしない。


「死んだが、歴史に美名を残し、人びとの記憶の中で生き続けることになった。この話をどうとらえるか、すべては侯爵次第だ」


「どういうこと、か?」


 しかし、サクヤは瞑目して、なにも答えなかった。


 自分で考えろということか。


 すると、ケイオス将軍が口を開いた。


「共和国の軍門にくだった国は、例外なく滅ぼされています。その民は奴隷となり、最前線で戦わされております。民にとって、この世の地獄でありましょう。そんな思いをするくらいなら、戦って死んだほうがましでしょう。そういうことではありますまいか?」


 しかし、サクヤは黙ったままだった。


 依頼心は禁物きんもつ。みずから考え、みずから動き、未来を切り開いていく。そんなタフさを持てと無言で語っているのだろうか。


 いろいろと考えさせられるハル侯爵だったが、ゆっくり考えている時間はなかった。


 西部方面軍が侵攻を再開したのだ。


 ◇ ◇ ◇


『闘戦経』第5章


〇原文・書き下し文

 

 |天(てん)は|剛(ごう)|毅(き)を|以(も)って|傾(かたむ)かず。|地(ち)は|剛(ごう)|毅(き)を|以(も)って|堕(お)ちず。|神(かみ)は|剛(ごう)|毅(き)を|以(も)って|滅(ほろ)びず。|僊(せん)は|剛(ごう)|毅(き)を|以(も)って|死(し)せず。


〇現代語訳


 天は剛毅だから傾かない。地は剛毅だから落ちない。神様は剛毅だから滅びない。仙人は剛毅だから死なない。

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