3.Fascination Sky~魅惑の空~
屋上の空をバックに、彼女――朝倉李桜は唐突にこう言った。
「明日は、どこかへ出掛けようか。椛」
◆◆◆
ある日を境に、わたしは眼鏡からコンタクトレンズに変更して登校することにした。決して……李桜がそうしろと、勧めてきたからという訳ではない。単なる気分転換のようなものだ。
この変化は少なからずクラスの皆を驚かせたらしく、「コンタクトにしたんだ」とか「委員長、メガネ掛けてないと結構可愛いね」とか、色々な声を掛けてもらった。
担任の優月先生も、からかうようにこう言ってきた。
「だんだんお前も、
わたしはいつになくムキになって、
「そんなこと、あるわけないじゃないですかっ!!」
と元気よく言い返す。そんなわたしを見て、優月先生はフッと表情を緩めた。まるで見守るみたいなその優しく穏やかな視線を、何だかすごくくすぐったく感じる。
わたしの頭を無遠慮に撫でながら、「ほら、行って来い」といつもの通り優月先生は屋上の鍵を渡してくれた。踵を返し、わたしは早速屋上へと向かう。
その時背中越しに、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でボソリと、低く呟かれる声が聞こえた気がした。
「そう、それでいい……お前はもっと肩の力を抜いて、楽に生きるべきなんだよ、椛」
屋上に着き、早速李桜にこのことを話すと、彼女は心から可笑しそうに声を上げて笑った。いつもの『クスクス』という上品な声とは違った、初めて聞く高らかで無邪気な声。
「あっ、はははは……っ。なかなかあの人も、殊勝なことを言うようになったじゃないか」
わたしの話のどの部分を聞いてそう思ったのかは分からなかったが、ともかくこの話題は彼女のお気に召したらしい。
生理的に浮かんだ涙を指で拭いながら、咳混じりに李桜は続けた。
「いや……ゲホッ、でも本当に……変わったよ、あなたは」
「変わった? わたしが?」
李桜の口からそんな言葉が出るとは意外だった。きょとんとして、思わず首を横に傾げる。
李桜はゆっくりと目を細めた。まるで、遠い昔を懐かしんでいるかのように。
思い出しているのはわたしと出会った頃のことのはずだから、そんなに昔というわけでもないと思うのだが。
「あの時は、一人で歩けない弱々しい仔猫みたいに見えたのに……今は、少しばかり成長した小さな猫のようだよ」
「結局変化ないじゃない」
わたしがむくれると、今度はいつもの通り、上品にクスクスと笑った。
「それは……変化するのは、まだまだこれからだろう? 言ったじゃないか。私たちはまだ、大人にはなりきれないんだと」
そういうものは、時間が教えてくれるのさ。
空を仰ぎながら、李桜は独り言のように軽く呟いた。
「――さて、」
ふ、と何かを思いついたらしく、李桜は立ち上がった。ゆっくりとした動作で振り返り、こちらへと目を留める。
そして屋上の空をバックに、彼女は唐突にこう言った。
「明日は、どこかへ出掛けようか。椛」
◆◆◆
「行ってきます」
翌日、決まった時間にいつもの通り家を出たわたしは、学校の方へと足を進め……はしなかった。いつも通る道とは反対側の道路を渡って、本来学校へ行くのには利用しないはずの、最寄りの駅へと向かう。
くすんだ赤い建物が見えてくると、同時にこちらへ向かってヒラリと手を振っている少女の姿が見えた。
「やぁ、よく来てくれたね」
わたしと同じ学校の制服に身を包んだ、茶髪のショートヘアの少女――李桜は、わたしに心から嬉しそうな笑みを向ける。こうしていると彼女が年相応の、愛らしくいじらしい少女のように見えてしまって、わたしは人知れず口元を緩ませた。
彼女は早速わたしの手を取ると、駅の中に引き込むように連れて行こうとした。突然引っ張られる形になって、わたしは慌てて彼女へ言葉を投げかける。
「ちょっ……李桜! 切符は? まさか学校サボった上にタダ乗りとか……そんな非情なこと言わないわよね」
学校をサボってこんな場所にいるというだけでも、わたしの心臓はさっきから緊張してキュッと縮みきっているというのに、その上無賃乗車だなんて……いくら李桜が一緒で心強いからといっても、さすがに二重の罪悪感などにはとても耐えられそうにない。
心配するわたしをよそに、李桜はいったん手を放すと、流れるような仕草で制服のポケットを漁った。小さく細長い紙切れみたいなものを二枚取り出したかと思うと、そのうちの一枚をわたしへと差し出してみせる。
「私だってさすがに、公共のルール違反なんてハイリスクなことはしないさ」
李桜に見せられたそれはどうやら切符のようだったが、普段見るものとはちょっと違った。どこまでの切符なんだろう……と思いよく見てみると、意外なことに行先は書いていなかった。代わりに、スペースいっぱいに『ビバ、青春!』とかいうよく分からない大きな文字が躍っている。
頭の中に疑問符をいくつも浮かべながら李桜を見ると、彼女はわたしと目線を合わせてにっこりと笑った。
「期間限定で販売している、いわゆる『若者のための青春切符』というやつさ。少し高いけれどね、これさえあれば一日どの電車にでも乗り放題なんだ」
だから時間の許す限り、どこへでも行けるんだよ?
首を傾げながら無邪気にそう言った李桜に、わたしはサッと血の気が引くのを感じた。
「高いって……一体いくらしたの? わ、わたしも半分払わなくちゃ」
慌てて財布を取り出そうとすると、李桜は鞄にかかるわたしの手を遮りながらクスクスと笑った。
「気にする必要はないよ。私は普段あまり金を使わないから、小遣いなら有り余っているんだ。それに今日は……私の勝手なわがままに、あなたを付き合わせているわけだしね」
これぐらい、させてくれたっていいじゃないか?
李桜はちょっとだけ、申し訳なさそうな声を出した。何だかとてもいたたまれなくなって、わたしは勢いよくブンブンと首を横に振る。
「そ、そりゃ最初はわたしも授業があるからって反対したけれど……最終的に着いて行くって決めたのはわたしよ。だからわたしを振り回してるとか余計なこと考えて、変に気に病んだりされても……こっちが、困る」
途中から訳が分からなくなって、続く言葉が変にたどたどしくなってしまう。そんなわたしに、李桜はふんわりと微笑んだ。
「ありがとう」
そこで素直になられると、何だか気が狂う。
思わず李桜から顔を背けたとき、タイミングよく電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。
「じゃあ、行こうか」
李桜が再びわたしの手を取ると、さっきと同じようにホームの方向へわたしを引っ張っていく。今度はわたしも逆らわず、彼女の後を続いた。
――ガタン、ガタン……。
下の方から僅かに感じる振動に心地よく揺られながら、わたしたちは空いている車内の四人掛けの席を二人で陣取って座っていた。
朝早いとはいえ、一時の通勤ラッシュが過ぎてしまったこの時間帯の電車には、人がほとんど乗っていない。しかも今乗っているのは各駅停車の比較的ローカルな電車なので、ことさら人が少なかった……というか、無人だった。
そんな状況にわたしは少しだけホッとしながらも……それでもまだ、どこか完全には拭い去れない不安を抱えていた。
制服姿の女子二人がこんな平日の午前中に、通学路とは真逆のはずの電車に乗っている。この奇妙な状況を他人が見れば、まず怪しむに違いなかった。最悪、制服から特定した学校を通じて、家の方に連絡がいくかもしれない。
そう思うと、不安で胸が引き絞られるようにキリキリと痛む。
その度に目の前に座る李桜の姿を見て――こちらの視線に気づいた李桜がわたしを安堵させるかのように淡く微笑むのを見ると、何故か大丈夫な気がして、いくぶんか心強い気持ちになるのだった。
そして――……いずれは李桜に頼らなくてもいいようにしないと、という思いが唐突に脳裏をよぎる。
そうだ。いずれは彼女とも、離れなければならない時が来る。それがすぐなのか、もっと後のことなのか、今はまだ分からないけれど。
その『いつか』が来た時のためにも……そして、わたしに『自分で決めて行動すること』を教えてくれた彼女のためにも、わたしは今以上にもっと強くならなくちゃいけない。
自分の判断を、後悔しちゃいけない。
固く心に決めながら、わたしは窓の外を流れていく景色を見た。
今日も変わらず、いい天気だ。太陽は木々や建物を照らしながらキラキラと輝いているし、澄んだ青空は緑色の山並みによく映えている。
ぼんやりと眺めていると、李桜がからかうように声を掛けてきた。
「空を眺めるのも、苦痛ではなくなってきたようだね?」
その言葉に、わたしはハッとした。
そういえば……少し前まではあんなに空を見ることを怖いと感じていたというのに、わたしはいつから冷静な気持ちで景色を見つめられるようになっていたのだろう。
困惑しながら李桜の方を振り向く。彼女は穏やかに微笑んでいた。
「あの時から、少しは成長したみたいだね。あなたも」
『あの時』というのは、言うまでもなく初めて会った日のことだろう。空から不自然に目を離したわたしに、あの時李桜は愉悦を含んだような言葉を投げかけてきたのだった。本当に空が喋ったのかと思って、当時は内心焦ってしまったものだ。
それからそんなに時間が経っていないはずなのに、何故だかずっと遠い昔の出来事のように感じる。
それほど、彼女と過ごしてきた時間は濃密なものだった。
それきり黙ってしまった李桜からゆっくりと目を離し、電車の外を流れる景色に再び視線を移す。目で追っていると、それに重なって今までの出来事が、走馬灯のようによみがえってくる気がした。
それから、どれぐらい時間が経っただろうか。
流れていた沈黙を破るように、李桜がまた口を開いた。
「ほら、椛」
振り向くと、彼女は開いていない窓に向かって片手を伸ばしていた。その手つきはまるで、遠い雲を掴もうとでもしているかにも見える。
歌うような軽い口調で、彼女は言った。
「空はこんなにも大きくて広くて、そして遠い。いつでも私たちを見守ってくれてはいても……その本質へ私たちが近づける日は、一体いつになったらやってくるのだろうね?」
空とは、永遠の憧れさ。少なくとも私にとっては……ね。
そう続いた彼女の言葉は、あの時ならきっと理解不能だったことだろう。けれど今ならば、わたしも同調することができる。
空はいつでも、わたしたちを見守っていてくれる。姿や色がどれだけ変わっても、どんな時でも、ずっと同じ場所に――ここに、存在している。
それでも、本質は――……ずっと、遠い。
だから、知りたいと思う。だからこそ、永遠とも思えるほどの強い憧れを抱く。
きっと一生かかっても、全貌は見えないだろうから……。
「何だかわたしも、空が好きになれそうかも」
呟くと、李桜はまさに我が意を得たりというように、嬉しそうに笑った。
「そうだろう?」
「うん。……ねぇ、李桜」
「何だい?」
突然呼ばれたことに対して首を傾げる李桜に、わたしは精一杯の笑顔とともに言ってみた。
「授業、出てみない? あなたの席はずっと、窓際の一番前なの。あの場所から見る空も、きっとすごく綺麗だよ」
李桜はしばし面食らったような顔をしていたが、やがてゆっくりと破顔した。
「そうだね、是非とも拝んでみたいものだ。気が向いたら一度出てみようか」
「出来れば一度だけじゃなくて、毎日来てもらいたいんだけどな」
「ふむ、そうだねぇ……椛がいるんだったら、考えないこともない」
おおよそ李桜らしくないその言葉に、わたしは思わず笑ってしまった。
「何を笑っているのさ、失礼だね」
不満そうに口を尖らせながら、李桜も笑う。「ごめん、何でもないよ」と答えながら、わたしもさらに笑った。
窓の外では、地元からすっかり離れた知らない場所の景色を包み込む青い空が、どことなく微笑ましそうにわたしたちを見守っていた。
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