炎竜アリヤは千年王国の鐘を鳴らす

一人暮らしの大学生「三丁目に住む黒猫ミケ

第1章➖1 Aaliyah

夜明け前の闇は最も暗い。


 僕は人生の終焉への扉である木に吊るされた丸い紐の穴の向こう側を見て、そう思った。果てしない……どこまで続くのか分からない闇。夜が明ける時間になっても、その深淵の奥がどれだけ先にあるのか分からない。


 ギュッギュッと僕は木に括り付けた紐が、途中で解けることが無いか確認する。すると、標高の高い産地に特徴的な冷たい夜の空気が僕の肌を切り裂くように紐で擦った部位を嘲笑った。まるで、早々に事を成せとでも言うかのようだ。


 気にするな、急がずとも僕はやる。目に見えることすら無い彼等を安心させるように、……大きく息を吸っては何度か分けて吐いた。僕の息が口から出ていく度に、白い靄が視界を揺らす。


 視界の先には、人工の光と街では見ることが出来なかった星空があった。街を一望できるこの場所は、僕の小さな頃からの秘密基地だった。親も妹も友人も、汚らしい利己的な人間は誰一人ここにはいない。僕の……僕だけの秘密基地だ。


 ここは夜になると、世界を混沌へと導く場所なのだ。天空も、地上も、暗闇の中で小さな光が点在するだけになる。僕の秘密基地の夜に、空と地の境界線は無い。全てが一つになり、矛盾を考える余裕すら奪っていく。心地良いのだ。……ただその世界を眺めて、ああ自分はそんな大した奴じゃないんだって思うことに安心できるから。


 世の中には色んな奴がいる。だけど、多くの人はその多様性を喜ばない。それは僕も同じなのかもしれないけれど……。隣人を見ると、その人が持ってるものが欲しくなるのだ。持ってない自分は劣等感に苛まれる。すべての人がそうなのだ。いつも何らかの不足を感じている。そして、苦しむ。


 僕は疲れたのだ。……いや、敗けたのかもしれない。この世界に敗北したのだろうか。互いに認め合わず、いがみ合うだけの世界にウンザリしてしまったのだろうか。……とにかく、もう嫌だった。


 夜明けの片鱗は、いつも見えているのだ。……これが終わったら、これが達成されたらと。他者から課せられるそれらをクリアした後、自分を開放してくれる何かがあるのではないかといつも感じている。何かをクリアして、束の間の平穏を堪能したら、また何かを課せられるのに。


 光が見えない。ずっとずっと終りが見えない。人生が終わるまで、それらは続く。何年も、何十年も、人生が続く限りずっと続く。


 僕は考えてはいけないことを考えた。「僕の人生に意味があるのか?」と。禁忌の質問だ。考えなければ、少なくとも僕は自分自身を疑う必要など無かった。自分自身の存在意義が無いことに苦しみを感じる必要など無かったのだ。


 この世界で生きていく……それが何も意味が無いと気づくことは、禁忌の質問が頭に浮かんだ瞬間から始まっていた。


 だから、これで良い。これで良いんだ。


 偽善者は僕を見て、こう言うかもしれない。「それは人間として最低卑劣な行動だ、やめろ」と。彼等はその理由を語らないが、とにかく止めろと叫ぶのだ。


 何故いけないのだろうか?自分が嫌な場所だと感じるから逃げる……たったそれだけのことなのにっ!!


 僕は扉の先へと頭を通し、首に紐をかける。地面に膝をつき、体から力を抜いてうつ伏せの状態になる。首の、喉仏が軽く潰されて圧迫感を覚える。地面は少し濡れていて、僕の肌に侵食していくような冷たさを感じさせた。本来は体を空中にぶら下げた方が良いのだろう。だが、せめて最期くらい優しく終わりたいのだ。最期くらい、苦しみを忘れたいのだ。


 孤独だけど、孤独じゃない。この世界で僕は一人ぼっちだったけれど、多分どこか……世界の根源のような場所に還れる。そんな気がする。


 よく頑張った。僕はよく頑張った。この世界の下らなさを知った上で、10年間生き抜いたんだ。他人がどう言おうとも、これが僕の限界だ。苦しくて苦しくて、たまらなかったんだ。だから、……もう良い。


 意識が遠のいていく。2度と目覚めることは無い。妙に暖かくて、気持ちいい。瞼が自然と落ちてくる。思考能力も、消失していく……。


 いつの間にか、体が燃えるような熱さを感じ始める。耳には轟々と炎が叫ぶ声が聞こえ始めた。僕は地獄の業火に焼かれようとしているのだろうか?


 しばらくして、違和感を覚えた。パチパチと木々が燃える時に鳴る音が聞こえ始めたからだ。肌が炎の熱から逃げたがるように震える。パッと目を開くと、赤色と朱色が鮮やかなコントラストをなして陽炎の踊り子のごとく揺れていた。僕はちぎれた紐を取り、何が起きたのかを確認するため立ち上がる。


 業火が僕の世界を分離させる。境界線なき世界に、それは強制的な夜明けをもたらした。例え太陽が昇らずとも、強烈に僕の視界に強い光を与える。


 僕は目を大きく見開いた。そこにいたものは僕の常識の世界にいなかった存在だったから。


 業火の世界をもたらした存在は、低く低く唸り声をあげる。僕よりも2回りほど大きいその肉体は蛇のように鱗で覆われて、その太さが強さを表現している。目は赤く、瞳孔は爬虫類のように縦に細長い。口元は大きな牙を有し、興奮しているのか息をはく毎に火炎を吐き出す。尾に生えた尻尾はとても長く、約1メートル長はある。


「ドラゴン……?」


 そう、そこにいたのはまさしくドラゴンだった。そいつは僕に気づいたのか、その身体を重そうにしながらも近づいてくる。反対に、僕の身体はそいつよりも軽いはずなのに1歩も動けなかった。まるで、足の神経が焼かれて切断されてしまったかのようで、震えることすら無い。


 赤い目だ。真っ赤な目、火炎の眼……地獄の業火を持つ印のようだ。ドラゴン、……何故こんなところに?


 僕の身体は石のように固まってしまったくせに、脳はとても回転した。自分は実はやっぱり死んでいてコイツは僕を地獄に迎えに来た使いだ……とか、はたまた別の世界線移動を果たしドラゴンが住む世界に来てしまったとか。色んな可能性を僕の脳は模索した。だが、僕の首にかかったロープと焼かれる森が現実だと結論付けさせる。


 ドラゴンは自分の大きな鼻を僕の顔に近づけた。そして、クンクンと匂いを嗅ぐ。僕の匂いを嗅いで、何が楽しいんだろうか。ドラゴンなのだし、やはり僕を食べるのだろうか?…………それは、それで良いかもしれない。ドラゴンに食べられて死ぬだなんて、この世の殆どの人間は体験できないだろう。咀嚼されていく時間、僕は特別を感じられるかもしれない。


「ぉ……ぼ、僕を、食べ…………たいのか?」


 口も硬直したせいで、上手く言葉が出ない。そもそも言葉が通じるのかが疑問だが……、良い。どうせ自己満足したい為に出る言葉だ。まるで何かの舞台の、悲劇を演じる者のような気分を味わって何がいけないのだ。


「良いぞ、食べても。いや、……食べてくれよ。もう、……僕は疲れてしまったから」


 ガチガチと顎が痙攣して歯が当たる。それが硬直状態の余波からなのか、純粋な恐怖から現れているのかは自分でも分からなかった。ドラゴンは僕の言葉を聞いているのだろうか。長いペースで呼吸しており、その目はジッと僕を見ている。最初見たときはとても興奮していた筈なのだが、いつの間にかコイツは大人しくなっていた。


「頼むよ……僕は、僕は、この世界が嫌いなんだ。居ても、しょうがないんだ。……僕がいなくても、世界は回るんだ。だけど、本当は……本当は、1人で死ぬのも嫌なんだ。…………だから、だから、お願いだから……僕を食べてくれよ」


 僕は何を言っているんだろう。1人なんて、もうずっと長い間経験してきたから平気だろうと思っていたのに。口から出てくる言葉は、僕の本心なのだろうか。


 僕は自分の言葉に困惑し始める。すると、そんな僕に何を思ったのか、ドラゴンは顎を地面につけて身体を休ませ始めた。


「………………食べないのかよ」


 僕は期待を踏みにじられた気持ちを捨て吐く。ドラゴンは神妙そうな目で、僕をジッと見つめるだけだった。何か言いたそうな訳でもなく、ただただ興味を持ってるだけのようだ。未だ僕達の周りは火炎に包まれているのに、コイツが何も反応しないせいで時が止まったかのような錯覚さえ覚える。


「う……うう…………うぅぅぁ……」


 僕は無性に胸が痛くなって、顔を歪める。すると、緊張が取れたのか足が自然と地面に落ち、膝をついた。そして、そのまま僕の手は防衛反応に従って頭の後方へと持って行く。顔を地面に擦りつけ、何一つ上手くいきやしない世界を呪った。


 心が、……張り裂けそうだ。今日してきた覚悟は完全に水の泡になり、急に現れたドラゴンは僕の意に反して噛み殺そうともしてくれない。……僕がしたこと全てが無駄だ。


 こうやって哀れな姿で、誰からも憐れまれない涙を流して、世界から恐怖して逃げようとしても逃げられず、ガタガタと震える。誰かから勝手に期待されて、勝手に幻滅され続けた僕の末路だ。無駄、無駄、無駄。でも、自分から消えることも…………許されない。


 僕を見下ろしているドラゴンは、僕にどんな想いを抱くのだろう。どんな目で見ているのだろう。死にかけの蝿虫のような僕を見て、何を考えるのだろう。食べる価値すら無いと思うなら、早くどこかへ消えて欲しい。……いなくなってくれ、僕に悲劇の死を与える気も無いのなら。


 そう願ったからなのだろうか。ガサッと何かが動いた音が聞こえた。


 消えてくれたのだろうか。どこかへいなくなってくれたんだろうか。僕は頭を少し上げ、顔に付いた泥を拭う。そして、顔をあげると、確かにその場にドラゴンの姿はなかった。



 人間の形をした、女。そう、女だ。それも、絶世の美少女。本やネットで見るアイドルや女優よりも端正に造られた四肢に、アジア人の柔和な部分と白人や黒人の堀の深さをバランス良くまとめた顔を見上げる。ショートカットの黒い髪に、特徴的な大きさの目と赤い瞳が印象的だ。そして、その瞳はまるでドラゴンのように細長い。身長は150後半程度に見えるが、凛としたその表情は先程のドラゴンよりも威圧感を感じさせる。



「お、……お前は」


 僕が頭を上げて、まるで神に祈るかのような体勢になる。いや、……懺悔する者の方が正しいだろうか。


 彼女はドラゴンが人間化した者なんだろうか。服も着ていないし、何よりもトカゲ目と言われる特徴的な瞳孔がそれを示している。そんなことを考えていると、彼女は唐突に口を開いた。


「おい、人間の子供」


「は、はい」


 彼女の声は少年のようなアルト声だった。その声は彼女の堂々とした表情に妙にマッチングしていて、思わずドキリとする。


「お前、名前は何と言う?」


「……僕、の名前?」


 そうだ、と言うかのように彼女は小さく頷いた。一体、僕は何をしているんだろう。幻覚でも見ているのだろうか……?


 いや、違う。轟々と木々を燃やしていく火炎やその熱も、顔に付いた泥も、頬に残った乾いた涙の痕も、目の前に映るドラゴン女も、全てが現実だ。


「僕は、御剣……御剣誠」


「みつるぎまことか、ふむ。和風で良いな」


 僕は目をパチパチと2回瞬きする。彼女が僕の名前を聞いた瞬間に笑ったからだ。彼女は地に膝をつく僕の目線に合わせるため、片膝を地面についた。そして、華奢で5匹の白魚が集まったかのような右手をこちらに差し出す。


「申し遅れたな、わらわの名はアリヤと言う。さて、わらわは君に一つ頼み事をしたくなった」


「頼み?」


 ああ、と彼女は満面の笑みで大きく頷く。何だろうか、変に腹の虫が騒ぐ。早急に立ち去れ、とでも言うかのように。しかし、僕がそれを判断するよりも、彼女ことアリヤが次の言葉を話す方が早かった。


「お前、この世界の新たな王様になってみたくはないか?」


「…………は、はい?」


 その言葉を容易に理解できずに顔をしかめる僕に対し、彼女は自信満々といった表情で笑った。まるで、本当にこの世界に新たな王を打ち立てるとでも言わんばかりに。


 そして、彼女の笑顔はそれに強い現実味を持たせていた。

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