第503話維摩VS目連
舎利弗が維摩に怖れをなし、見舞を辞退したので、釈迦は弁舌自慢の目連に見舞を指示する。
しかし、目連も「とてもとても」と辞退を申し出る。
その理由としては、
「私が、以前このヴァイシャーリーの街で、多くの世俗の人とお布施を集めて説法をしていた時のことなのです」
「すると維摩さんが歩いてきて、ひどく叱られたのです」
その維摩さんが言うのには、
「あんたね、世俗に生きている人に、そんな説法が通用すると思っているのかい?」
「そもそもね、説法というのは、法を説くってことになるけどさ」
「ところでさ、お前さんが言う、法って何なの?」
「法ってのは、真実ってことだと言っていたみたいだけどさ」
「その真実って生き物ではないよ、生死とは無関係、超越したものだと思うよ」
「過去も未来も超越しているしさ」
「物ではないよ、言葉では言い切れないし」
「形もない、その意味でカラッポだ」
「そんなカラッポに議論も何もないさ」
「だから、カラッポでね、美しいも醜いも、ない」
「カラッポだから増えることもなく、減ることもない」
「カラッポだから、生まれるとか、死んでしまうもないし、帰っていく場所があるなんて論外」
「そんな一切の分別とは関係ないのさ」
「どう?そんなカラッポを、お前さんは、どうやって説明するの?」
「出来るの?そんなことを」
「説いたり、説かれたりするものではないし、示されることもなく、得ることもないのさ」
「だから、真実を説くなんてのは、実体のない目くらましでしかない」
「お前さんは、それをよくわかった上で、説法とかしているの?」
目連は、「ものすごい勢いで言われてしまって、面子が丸つぶれで」と下を向き、「おまけに、私が集めた世俗の人々は、もう維摩さんの弁舌に大拍手で大喝采」。
「ですから、師匠、別の人に・・・」と、頑なに維摩見舞を辞退する。
弁舌自慢のその目連を粉砕してしまった維摩の鋭い言葉ではあるけれど、理解も難しい。
そのため、達磨大師と梁の国王武帝との会話を考える。
武帝は多数の寺を造り、経典を書写、僧侶を育成し、多大に仏法に貢献したという自負を持っていた。
武帝:私は今まで、懸命に仏法に貢献してきた。この私に功徳はあるのか。
達磨:そんなものは何もない。
武帝:そんなことがあるか!それなら仏法の真理とは何だ!
達磨:空っぽだ、真理なんてない。
武帝:空っぽで何もないと言うのなら、お前は何だ!
達磨:知らぬ
達磨は、この会話の後、梁の国を去り、少林寺にこもったと言われている。
寺を作り、写経をして、僧侶を育てからと言って、功徳や真理に近づく保証など何もない。
そもそも、功徳も真理も、モノではないし、モノではないから、形もない。
生きることも死ぬことも、ありえない、なくならないのが功徳や真理。
維摩は、目連の弁舌巧みに由来する傲慢さを見抜いたのではないだろうか。
言葉が上滑りしている、自分に酔っていて、聴いている人は、ただ美しい音楽を聴き流しているようなもの。
「人それぞれの心の奥の悩みには、全く救いになっていないのではないのか?」
「たくさんのお布施を集めて、自分の美声を聴かせたいだけか?」
現代の世でも、超高額のお布施を払わないと、読経をしない僧侶が多いようだけれど、維摩に叱ってもらえないだろうか。
何しろ、高額のお布施がなければ、あの世で軽蔑されるなんて強弁するのだから。
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