第365話歎異抄 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもを かし

(原文)

信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもを かし、同朋・同侶にもあひて口論をもしては、はかならず廻心すべ しといふこと。この条、断悪修善のここちか。

 一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびある べし。

その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の知 恵をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおも ひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、 廻心とは申し候へ。

(意訳)

「阿弥陀如来の御誓願を信じて念仏をする人であるならば、行きがかり上、立腹をした、不都合なことをしてしまった、仲間と出会って口論をしてしまったような場合は、必ずその心を改めなければならない」と主張する人たちがいます。

さて、このような主張をする人たちは、悪を断じ、善を収めるということが可能であるという発想故なのでしょうか。

専修念仏を行う私たちにとって、心を改めることは、本来ただ一度のみになります。

今までの日常生活において、本願念仏を知らなかった人が、阿弥陀如来の智慧を賜って、今までの自分で何とかしようという考えでは浄土には生まれ変わることはできない(至難である)と理解し、今までの考えを全て変えて、阿弥陀如来の御誓願にすっかりお任せしようとすることこそ、心を改めることになるのです。


※「自然」の訳は、様々。

「たまたま」「必然」、研究者によって違いはあるけれど、筆者は「行きがかり上」と考えました。

「行きがかり上」避けがたく、立腹する、罪を犯してしまう、他者と口論(ケンカ)をしてしまう、そのほうがわかりやすいと考えたので。


さて、法然であれ親鸞であれ、専修念仏の約束事は「念仏を唱える」それだけになる。

あまりにも簡単な行であるので、それに加えて様々な条件を考え出す人々や主張をする人がいたようだ。

考え方によっては、そういう主張をする人は、逆に「念仏の本当の功徳」を深く考えていないのでないか。


今の世でも、余計な「自称高説」を振りかざし、「低愚な人間を教育する」などと言い張る有名人や高僧が多いけれど。

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