第322話歎異抄 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり(2)

鴨長明による養和の大飢饉の描写は、凄まじいなかに様々なことを感じられる。

他者の苦しみを実際に見て、それをなんとかしようと自ら苦しむ。

しかし、人間の力とは、本当に限られたものだと思う。

その自分自身の未熟さに、また苦しむ。

そこで苦しまず諦めてしまえばいいけれど、そんな簡単に諦めることができる人が、どれほどいるのだろうか。

諦められない悲願があるから、人間なのだと思う。


世の中は、不条理で、常に移り変わる。

そして、悲しみに沈む、痛みに泣き叫ぶ人々は限りない。

「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」ことを求めて、必死に努力をしても上手に出来ず、中途半端に挫折を繰り返す。


やはり限り有る人間の力では無理なのか。

そう感じた時には、「浄土の慈悲」「阿弥陀様の慈悲」にすがるしかない。

自力では無理、となれば阿弥陀様の御力にすがる。

信じて名前を唱え続ければ、阿弥陀様は決して見落とされない。

挫折は人間では仕方がない。

「何度も立ち上がりなさい、見守っていますから」

これも阿弥陀様の大いなる御慈悲の心であると思う。


四万二千三百の死体の額に「阿」という字を書き続けた仁和寺の隆暁法院。

彼も阿弥陀様の御慈悲の行を実践し、御慈悲の心に包まれている。


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