第161話十牛図(2)見跡

(2)見跡

   それでも、何か思い出したような、「これかな」と思う兆しはある。

   しかしあくまでも「兆し」に過ぎない。

   「兆し」を本物とするべく、いろんな本を読み、偉い先生の話を聞く。

   本や先生は様々なありがたいことを言う。

   例えば、「一切のものが自分であり、全てのものは本来は同一」と言う。

   しかし、単語の羅列として耳に入るだけ、頭に記録するだけ。

   その言葉は、意味もわからず眠りこけ、何も動かない。


   「考えねば」「感じねば」

    と、ようやく見えた「本来の自分」の「兆し」を必死につかもうとする。


   例えば、本当に幸せだった頃の自分と周囲の世界を思い出す。

   「それが何故、幸せだったのか」を必死に考え、感じようとする。

   少しだけ、心にやさしく懐かしい風が吹いてきたような段階なのか。

   しかし、それも危うい。


   風が吹けば、雲散霧消、雨が降れば足跡も消える。

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