第42話 10月の蝉

 10月の暖かな日、薄茶色の地面が少しだけ盛り上がった。見るとそこには、小さな穴が開いている。

 穴の中には、キラリと光る目が二つ。蝉の幼虫が、今まさにこの世界へ現れようとしているところである。


 幼虫は戸惑っているのか、なかなか穴の外へと出てこようとはしない。

 それもそのはず。いくら暖かな日差しが降り注いでいるとはいえ、今はもう10月。キンモクセイの香るこの季節には、夏を謳歌した蝉は一匹もその姿を見せることはない季節でもある。

 そんなことを知ってか知らずか、その蝉の幼虫も容易に穴の外へと出てこない。


 それでも少しの時間の後、蝉の幼虫は意を決したかのように、その巣穴より這い出してきた。

 すかさず、近くにあるマテバシイの木にしがみつく。しかし長楕円形の葉は繁茂し、小さなその実を付け始めたマテバシイでは、蝉の幼虫は十分な日の光を浴びることができそうもない。

 蝉の幼虫は必死の思いで、地面から50cm位のところまで這い上がっていった。少しでも太陽の光を求めて。

 それでも、時折吹く秋の風に、その身体を硬く震わせた。


 (土の中に比べて、なんて寒いんだろう・・・ )

 それもそのはず。この蝉の幼虫が居たところは、夏の間十分に太陽の光を浴びていたために十分暖かい。ただこの大きな木が作り出す木陰のお陰で、少しだけ蝉に季節の感覚を狂わせてしまったのかも知れなかったのだ。

 蝉の幼虫は、冷たい手でしっかりと幹につかまりながら、辺りを見回してみる。


 (それにしても、仲間達は何処に居るんだろうか?・・・)

 よく見ると、その木の根本には夏に生まれた仲間達の死骸が無数に転がっているのが見える。そのいくつかは、既にバラバラにされ蟻たちによって巣へと運ばれていく。


 (何でだろう?・・・)

 そう思ったとき、急に身体の芯の辺りからゾクゾクするものが感じられた。

 (えっ、これって何だろう?・・・)

 幼虫が思う間もなく、彼は静かに目を閉じると、幾分背中を丸めるようにと硬くなり、そして動かなくなった。

 羽化が始まったのである。


 1時間後、幼虫の背中だったところ辺りに亀裂が入り真っ白い蝉の成虫が姿を現した。そして時間が経つに連れ、彼の身体と羽は段々と茶色を帯びてきた。

 アブラゼミの誕生である。


 真夏の象徴でもあるアブラゼミが、10月の、しかも秋風が吹き始めたこんな時期に、この世に生を受けたことになるわけである。

 蝉は身体を身震いさせると、少しだけ羽を広げてみる。羽の隙間から入り込む空気の冷たさに驚いたものの、やはり大きな空間にいるという開放感は彼にとって格別なものである。


 「何て気持ちが良いんだ」

 思うと同時に、蝉は大空高くまで飛んでみる。

 今まで彼の記憶にある景色とは、全く別の世界がそこには広がっていた。前転をしてみる。こんどは後方宙返りだ。

 

 ひとしきり飛び回ると、蝉は別のマテバシイの木へとすがり着いた。

 「それにしても、僕の仲間はいったい何故みんな死んでしまったのだろうか?・・・」

 その日、蝉はこの世界へと飛び立つことができたという喜びの中で、静かに眠りについた。


 次の日、それでも蝉は何処かにいるであろう、仲間達を捜す旅へと出た。

 当然それが蝉の習性でもあり、この地上へと現れることができた彼らにとっては最後の役目と言うことでもあるからだ。

 しかし、一日中飛び回ってみたが、無数にある仲間達の死骸以外、何処にもその姿を見つけることができない。

 10月の蝉にとって、それは当然といえば当然のことであり、後には例えようもない孤独感が彼を包み込んだ。


 「僕は、何故ひとりぼっちなんだろう?・・・」

 二日目の夜、蝉は独りぼっちを噛み締めながら、高い木の枝で涙を流した。


 三日目は冷たい秋の雨。蝉は一日中、銀杏の葉の裏でずっと考えていた。

 (きっと、僕以外の仲間は皆んな死んでしまったに違いない。このまま僕だけ一人で居ても結婚もできそうもない。いっそのこと、狸にでも食べられてしまった方が役に立つのだろうか?・・・)

 どれも確かな答えが得られないまま、蝉はなかなか寝付かれない夜を過ごした。


 四日目、鳴くことも忘れてしまった蝉は、ふと木の下に目を落とした。

 そこには一人の人間の子供が、白紙のテスト用紙を持って真剣に思い詰めている姿がある。きっと自分が勉強したところとは違う問題が出題されたのだろう、その子は涙を流しながらその紙を何回も何回も千切っている。

 蝉は見るとはなしに、その人間の子を目で追った。


 ところが、その子はテスト用紙を粉々にまき散らすと、乾いた顔で歩き始めた。その先には電車の踏切がある。

 当然蝉には、それが何を意味するものなのか、そしてこの後何が起こるのかなどと分かろうはずもない。

 蝉のその丸い目には、その子が警報機の鳴る踏切の中へと吸い込まれて行きそうになる姿が映っていた。


 ところが蝉はその寸前で、その子が優しそうな大人に抱きかかえられる様を目撃したのである。

 その子のお母さんが走り掛け、その子の手をたぐり寄せたのだ。

 きつく抱きしめる母親。その胸の中で、次第にその子は癒されていく。


 「よかった・・・」

 昆虫には感情がないなんて誰が言ったのだろうか、少なくとも10月に生まれたこの蝉には、今の喜びを十分に感じることができた。

 その日一日、蝉は声を出さずに考えた。


 五日目の朝、蝉は何かを振っ切れたかのように明るい顔をしている。樹木の幹に滴る朝露をお腹いっぱいに吸うと、こう呟いた。

 「今僕が置かれている状況が、たとへ最悪なものだって構いやしないさ。僕に残された時間、僕は立派な蝉として生をまっとうすれば良いじゃないか!」

 蝉は大きく羽を振るわせる。

 「だって、僕は蝉なんだから・・・」


 蝉は何度も何度もその羽を大きく振るわせ、力強く大きく鳴いてみた。とその刹那、蝉の身体を白い網が覆う。

 暴れるその身体を小さな指が鷲掴みにする。


 「やったよお父さん、こんな季節にセミが捕れたよ!」

 「とぼけた奴もいたもんだな。トンボの籠の中にでも一緒に入れておきなさい」



 10月のその日、近くの公園でアブラゼミが採取されたという話題が、夕方のローカルニュースで流れていた・・・


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