第43話 社章

 「大森君、大森君。ちょっとちょっと・・・」

 「またですか? 係長、今年になってからもう三度目ですよ」

 「そんなこと言わないでよ、大森君。また今夜一杯おごるからさ」

 「わかりましたよ。はい、バッヂ」

 「恩にきるよ、大森君。それからね、大森君。これはバッヂじゃないんだよ。これは社章。わが社の誇りなんだよ」

 そう言うと、藤江係長は背広の襟元から銀色に光る丸い社章をはずし彼に手渡す。代わりに彼からは、透明なプラスティック製のそれを受け取り、ポケットへとしまい込んだ。


 銀色の社章を着けた平社員の大森君も、この時ばかりは、にわか係長となる。

 そう言えば聞こえは良いのだが、つまりは、これから係長の代わりに課長のところへ出向き、怒鳴られて来るというのだ。

 独楽鼠のように小心者の藤江係長には、とても課長室に入ることすら出来そうもない。

 その点、体格がよく歳よりも少し老けて見える大森君は、どこから見てもじゅうぶん係長クラスに見える。

 それに、何を言われても涼しい顔をしていられるその性格が、彼にうってつけの役回りを与えたことになるわけだ。 

 もちろん、彼にも利益がないわけではない。しこたま怒鳴られたあとでは、藤江係長による彼への慰労の席がもうけられるのだ。


 それよりも何よりも、このような関係が成り立つ一番大きな理由として、この会社の人事評価システムが挙げられる。

 それは、すべての社員の左襟に付けられた、社章によるものなのだ。

 この小さなバッヂ、つまり社章こそ、この会社の人事のすべてと言っても過言ではない。

主任、係長、課長と役職が上がるにつれ、その色も、銅から銀、金へと変わっていく。

 反面、平社員のそれは実に簡素に出来ている。色すらなく、透明なプラスティック製の板に、社名が刻んであるだけなのだ。

 もちろん、新入社員などは押して知るべしということになる。

 ところがおもしろいことに、次長以上になるとその色は非常に地味なものとなる。

 たとえば、部長のそれは群青であり、専務はモスグリーン、社長においては色あせた感じのエンジ色といった具合となる。

 ナイスミドルを演出するためのものなのだろうか。

 それにしても、社の中においては相手が誰かではなく、何色の社章をしているかが最優先されるのである。つまりは、たとえ平社員の大森君であっても、その襟に銀色の社章をしているだけで、立派に係長として怒鳴られる価値を有することになるのだ。



 この日も、しこたま課長に絞られると、にわか大森係長は営業三課へと戻って来た。

 「いや~、すまなかったね大森君。どうだった? 怒られた?」

 「別に、平気ッス。ただ、新しい企画がどうのこうのって・・・」

 「そんな事どうでもいいの。今日はじゃんじゃん飲もうね。ね、大森君!」

 「ウイッス・・・」

 「あっ、ところで大森君、社章は? いつまで付けているつもり」

 「・・・」

 このあとも、こんな藤江係長と大森君の関係は何回か続くことになる。


 ある日、今度は部長から藤江係長に呼び出しがかかった。それだけで、もう藤江係長は失神寸前である。

 当然、例によって大森君が藤枝係長のピンチヒッターとして、その襟に銀色の社章を付けると部長室へと向かった。


 「君が営業三課の係長かね?」

 「はい」

 「よくやった。今回の新企画、大成功だったそうだ。社長も大変喜んでおられる」

 「はあ」

 「ところで、君の新しい役職なんだが・・・」


 一時間ほどすると、いつものように彼は営業三課に戻って来た。藤江係長はいつもにも増して、彼を慇懃にねぎらう言葉をかける。

 「いや~、大森君。君は私の命の恩人だよ。今日はいつもの安酒屋でなんていわないで、パーっと行こう、パーっと」

 「・・・」

 「どころで、大森君。私の社章は?」

 「それなら、さっき部長室に置いて来ましたよ。まあ、必要なら自分で取りに行くことですね、藤江君」


 そう言う彼の大きく張った襟元には、金色の社章が輝いていた。

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