第8話 幸せの量り売り

 その店は鎌倉にある。

 小町通りをしばらく進むと、左手に小さな川が見えてくる。傍らには洋傘屋が軒を連ねているところだ。その脇の細い路地を川に沿うように下りると、これまた小さな入り口が誰の目にもすぐ映る。

 店の入り口には、『量り屋』とだけ記されている。


 私は格子戸の入り口を静かに開けた。

 店の中の雰囲気を視覚で捕らえるより先に、私の嗅覚が支配される。

 (うんっ? これは何の香りだろうか?・・・)

 一瞬立ち止まった私に声を掛ける女性。


 「いらっしゃいました」

 「えっ?」

 (いらっしゃいました? ふつうは『いらっしゃいませ』だろう)

 不思議そうな顔をしている私に店員の女性は再び声を掛けてくる。


 「ようこそ、いらっしゃいました」

 (なるほど、そう言われるとまんざらおかしいわけでもない)

 そう思いながら、店内を見回す。

 何かを売っているというわけではなさそうだ。それが証拠に、店内には棚ひとつあるわけでもなく、陶器や硝子の食器が並んでいるわけでもない。

 あるのは、その女性が手にする古ぼけた天秤と、テーブルにある真鍮の皿に載せられた紫色の香だけである。

 

 「このお店は・・・」

 「今日はどのような幸せを探しにいらしたのですか?」

 私の言葉を遮るようにと、彼女は少しの笑みを向ける。

 「幸せ?・・・」

 「そう。幸せをお求めに来られたのではありませんか?」

 「はあ?・・・」

 呆気に取られている私に、なおも言葉をつなげる。


 「人間、いなや思いでのひとつやふたつは誰にでもあるもの。そんな思い出とこれからの幸せを交換されては如何ですか?」

 「嫌な思い出と?・・・」


 当然私にもこの年になるまでの間には、胸の奥にしまっている人には語りたくないような苦い思い出ぐらい幾つもある。

 「本当にそんなことができるのですか?」

 彼女は答える代わりに、幾枚かの写真を机の上にと並べる。そのどれもが笑顔に満ちあふれた顔をしている。


 「どなたも不遇な人生を歩んでこられた分、幸せになられる度合いも大きいというもの」

 「・・・・・」

 そう言われても、些か狐につままれたような感じも拭えない。


 そんな私の表情を察したのだろうか、彼女は私に提案も持ちかける。

 「では如何でしょう? 一度試されてみては?・・・」

 「試せるんですか?」

 「勿論簡単なことです。あなたのいやな思いでをひとつお話しいただけますか?」

 「嫌な思いで?・・・」

 「そう、その思い出と匹敵するような幸せを、この場であなたに差し上げましょう」

 「この場で?・・・」


 私はものは試しと、先程小町通りでのことを思い出した。つまりはクレープ屋の角を曲がったとき、すれ違いざまに一人の男と肩がぶつかった時のことである。

 普通なら「あっ、どうもすみません」で済むものを、その男は睨みを利かせると一歩顔を近づけて来た。

 見れば、色黒の肌に金色のネックレスをこれ見よがしに着けている若者である。


 「何処を見て歩いてんだよ!」

 サングラス越しに凄んでみせる男の言葉に、思わずこちらも一歩近づく。

 気まずい雰囲気の中、まさにお互いの胸ぐらを掴まんばかりの勢いである。全身の血が血管の中を伝わって逆流してくるのが分かる。

 その男が右手の拳を握ったときだった。巡回中のお巡りさんが声を掛けてきた。

 「何かありましたか?・・・」

 男は唾を吐いてその場を立ち去る。

 何とも後味の悪い空気を、私はもう一度大きく吸い込んだ。とまあ、こんないきさつである。


 それを店の女性は微笑みながら私の話を聞いている。

 「それはお困りでしたね」

 言いながら、手で持った天秤に小さな分銅をひとつ乗せる。


 「では、気を楽にして。『幸せになーれ』と唱えて下さい」

 「えっ?」

 「恥ずかしいことはありません。さっ、『幸せになーれ』と・・・」

 女性はその天秤を私の目の前へと差し出す。

 私は遊び半分で、その言葉を唱える。

 「幸せになーれ」

 

 ところが、何も変化は起こらない。

 当然といえば当然である。しかし、次の瞬間、その小さな分銅が天秤の皿からスッと消えたのである。

 途端に胸の奥の方から暖かいものが込み上げて来た。同時に何だかとっても幸せな気分になって来たような気がする。

 (何だろう、こんな気持ちは初めてだ・・・)


 何か物理的な変化があるというわけではない。ただ、明らかに先程までのもやもやした気持ちのわだかまりは無くなっているようだ。

 「如何ですか?・・・」

 彼女の言葉に私は思わず口にする。

 「これが幸せ?・・・」

 彼女はニコリと微笑む。


 (ところで、私は何を嫌だと思っていたんだろう?・・・)

 そんなことすら今では思い出せない。

 もう一度店の中に漂う香の香りで我に返ると、私はその女性を見つめた。

 「もっと幸せをお求めになられますか?」

 私は言われるまま、今度は幼い頃の心にわだかまりが残っている嫌な思い出を頭に思い浮かべる。


 「実は、小学校の時にいじめられたことがあって、いつも上履きやノートを隠されたりして、本当に嫌だったなあ・・・」

 「それはお辛かったでしょうね。では、その記憶と引き替えにあなたの心の中に満ち足りた小学校の思い出を差し上げたいと思うのですが・・・」

 「満ち足りた?・・・」

 「そう、例えばクラスではいつも成績優秀で学級委員にも推薦される。運動会ではリレーの選手を努め、女の子達からは憧れの的である。というような」

 「憧れの的ですか?・・・」

 これまた私は半信半疑で返事を返す。


 「でもお願いします。私の辛い思い出と、その幸せとを交換して下さい」

 女性はなおも笑顔を絶やさない。

 「ただ・・・」

 急に女性の顔が真顔に変わる。


 「ただ、先程もそうだったように、一度交換してしまうともうその時の記憶はいっさい戻っては来ませんが、それでも宜しいのですね?」

 「戻ってこない? ってことは、あのいじめっ子達の顔を二度と思い出すこともないってことですか?」

 「そう言うことになりますね」

 「それは願ってもないことです。今でも時々夢でうなされることもあるぐらいなのですから。いっそのこと自分の記憶から全て消し去ってしまいたいぐらいですよ」


 「わかりました。では・・・」 

 女性は手にした天秤に、今度は少し大きめの分銅を二つ乗せる。

 「では、気を楽にして下さい」

 「『幸せになーれ』って唱えるんですよね?」

 彼女はニコリと微笑む。


 「幸せになーれ」

 

 私は心からそう願った。

 またもや彼女が手にしている天秤から、その分銅が静かに消えていく。

 同時に今度は頭の奥の方がフワッとした感じになっていく。それだけでは無い。何やら遠い記憶の中に満ち足りた優越感のような自信が込み上げてくるのが分かるのだ。


 「これが私の小学校時代の記憶?・・・」

 相変わらず、彼女は穏やかな笑顔を私におくる。

 「そう、あなたは小学校の時からみんなの憧れの的。勉強も運動もすごくお出来になっていたのですよ」

 彼女の言葉に、大きく頷く自分がいる。

 「思い出しますよ、運動会の徒競走で一等になったことを・・・」

 「それはすばらしいこと」

 「あの時は担任の先生にほめられて?・・・」

 と、しばし虚空を見つめる。

 「はて、そう言えば私の担任の先生の名が思い浮かばないが?・・・」

 

 店員の女性は真鍮の皿に、二つ目の香を点す。

 「その時の記憶は、あなたがいじめられていたという思い出と交換させていただきましたので、もうあなたが思い出すことはありません」

 (いじめられていた思いで?・・・)


 「えっ、それじゃあ?・・・」

 私は記憶の糸を辿ってみたが、ついにその思いではおろか、私をいじめていたという子供達の顔も名前も思い出すことができなかった。

 「でも、何で先生の顔まで思い出せないんだ?・・・」

 「きっと、あなたはその先生にずいぶんと悩みを相談されたのではないですか? それ故、そのいじめに関わる一切の記憶から同時に消し去れてしまったのかも知れません」

 私はゴクリと唾を飲み込んだ。


 なるほど多少のリスクはあるものの、しかし嫌な記憶が私の脳裏から消去されると言うことも確かなようである。それどころか、嫌な記憶が消し去られた分、余計に幸福感が増してくるようだ。


 ならば、心の内に秘めている様々なわだかまりや嫌悪感、ストレス、納得いかないことや不満などを全てぶちまけてやろうじゃないか。

 私は止まることを知らない暴走列車のように次から次へと語り始めた。


 「会社の上司も無能ならば取引先でやたら金品をせびる町工場の社員にも嫌気がさす。そうかと思えば最近は自分に冷たく当たる妻とそれに結託する娘達。私の身体が臭いとまで言いやがる。家の近所のことにも不満がある。隣の男は朝から大音量でテレビを流すし、向かいの家では自治会のゴミ当番もろくに守らない。ゴミの出し方だってそうだ。分別しろと言っているのに守る奴なんてほとんどいない。まったく、若者はだらしない格好をして街中を我が物顔で闊歩し、大人は自分の利益追求だけのために平気で人を欺く。つまりは、この国を治める政治家がだらしがないからなのだ。いいや、世界中がいつしか堕落してしまったに違いない・・・」


 目の前では、店員の女性が目を大きく見開いては、その古ぼけた天秤に大きな分銅をいくつも重ねていく。


 「・・・よろしいのですか?」

 「ええっ」


 彼女はもう一度聞き返す。

 「本当によろしいのですか?」

 私はもう一度コクリと頷く。

 

 目の前で、大きな分銅が一つまたひとつと消えていく。

 その度に、私の身体にはえも言われぬ幸福感が込み上げてくるのだ。それは爪先から頭のてっぺんまで染み渡るようにと伝わっていく。

 今までには味わったことがないような恍惚感が全身を支配する。


 「これが本当の幸せというやつですか?・・・」

 

 静かに頷き、満面の笑みをたたえる彼女の手には小さなカメラが。

 「今のお顔を撮らせていただいても構いませんか?」

 「勿論です。こんな気持ちなれたのは何年振りでしょう・・・」

 「では・・・」

 パシャっと言うシャッターの音と共に、私はようやく現実の世界へと引き戻された。

 

 「ところで・・・」

 ふと、私は今さっき入って来た店先を振り返る。


 「ところで、ここは何処です? 私は何処の誰ですか? 私の家は、家族は? 私の職業は何なのでしょう?・・・」


 彼女はその真鍮の皿に、三つ目の香を点し始めた・・・

 


 

 

 

 

 

 

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