第48話 地獄の亡者
ここは地獄への入り口。一人の男が大きな門を見上げながらたたずんでいる。まさにこれが噂に名高い地獄門なのだろうか。
男は恐る恐るその門をくぐり抜けた。
「お前が坂木真澄か?」
突然、一匹の鬼が尋ねてきた。鬼と言うには、あまりにもその容貌は人間のそれと同じように見えた。鬼はもう一度尋ねた。
「お前が、生前痴漢やこそ泥ばかりを繰り返してきた坂木真澄なのか?」
男は返事をする代わりに、鬼に向かってひとつ深いため息をついた。
「ここは何処です? 地獄の一丁目というやつですか?」
鬼は薄ら笑いを浮かべながら、その帳簿に丸をひとつ付けた。
「なるほど、お前達の世界では「地獄の一丁目」とかいうそうだな。しかし、ここではそうは言わん。この門をくぐったこの場所は「地獄の一忘所」と言うのだ」
「地獄の一忘所?」
男はこのあまりにも頼りなさそうな鬼の態度と、初めて聞くその名に少しの苛立ちを覚えながらも、更に質問をした。
「俺はこれからどうなるのです? 釜ゆでが待っているのですか? それとも針の山ですか?・・・」
鬼はキョトンとした表情をしながら答えた。
「まあ、知らないのも無理はないが、お前はこれからこの一忘所で、お前が生前やってきた悪行と同じことを一年間繰り返して行わなければならないのだ」
「悪行というと、痴漢とかこそ泥のことですか?」
「そうだ」
男はニヤリと笑うと、その鬼に向かって言い放った。
「これはありがたい。地獄に来てまでも大好きな痴漢やスリルたっぷりのこそ泥ができるなんて・・・」
鬼は努めて冷静に、それでいて蔑むような目でその男に言い返した。
「ただし、この地獄にはお前さんが好むような若い女なんていやしない。痴漢できると言ったって、ここにいるのはみんな地獄に送られて来たやつばかりさ。ましてや回りにある家はここに住む鬼の家ばかり。簡単には泥棒することもできないぜ」
「なんだって!・・・」
「それに、痴漢とこそ泥はそれぞれ日に十回ずつ、これから一年もの間いやでも毎日行わなければならないんだ。そうしないと・・・」
「そうしないと?・・・」
「そうしないと、お前の存在は永久にこの地獄からもなくなってしまうのさ」
男はゴクリとひとつ唾を飲み込むと、さらに鬼に尋ねた。
「一年間もですか?・・・」
鬼はその目に哀れみの表情を浮かべながら更に続けた。
「そう、一年間だ。お前はそれが終わったら、今度は二忘所へと送られる」
「二忘所? 今度こそ血の池地獄ですか? それとも針の山?・・・」
男は自分の身体が引き裂かれる姿を想像しながら蚊の泣くような声で尋ねる。
「地獄にそんなものは有りはしない。ただ二忘所では、お前が先の世で出会ったであろう様々な人間を一人ずつ殺していくそうだ。そのお前の手でな。もちろんその中にはお前の父親や母親もいるだろうな。」
男は、もう身じろぎひとつしない。
「で、その後は・・・」
「二忘所より先のことは俺にも分からない。何せそこから戻ってきた者がいないんだからな」
鬼は自分でも身震いしながら、そのことを男に話して聞かせた。
「さあ、もう時間だ。そろそろ一忘所での行いを始めないと・・・」
鬼はその男の腕を掴んだ。
男はたった今自分くぐってきたばかりの「地獄門」を振り返りながら、最後にひとつ鬼に尋ねた。
「この地獄で、いったい俺はどうなるんでしょうか?・・・」
鬼は掴んだ腕を男の胸に当てると、静かにこう答える。
「ここからは、毎日ひとつずつ人間の心を忘れていくことになるのだ。一忘所が終わる頃にはお前に残されたその良心の欠片をも忘れることになるだろう。二忘所では人から受けた恩を、そして親の愛をも完全に忘れることになるのだ。その後のことは、おおよそお前にも察しがつくだろう・・・」
鬼はその男の胸においた手を一度ぐっと強く握ると、ちぎるように勢いよく胸から離した。
「そして何もかも忘れ、人間の「心」を無くしたお前は、まさにその字の如く地獄の「亡者」となるのさ・・・」
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